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基本的宗教概論

作者: いのしげ


 アタイの尊敬する人物の一人に、中島らもという人が居る。


 らもさんは実にごうと向き合った人で、そんじょそこらのクソ坊主なんかよりもよっぽどいい含蓄を教えてくれた。

 そんな彼の著作の一つに「アマニタ・パンセリナ」がある。その中で人間は快楽を得るために二つの方法を編み出したと書いてあった。

 一つは、「ひたすら摂取する」方法。アヘンでも大麻でも、コカインだろうがヘロインだろうが、覚せい剤だろうが摂取することによって、快楽を得るというものだ。現在一般の我々にとってもクスリと言えば、この方法だと思う。

 もう一つは特殊だが、「ひたすら苦しむ」というものだ。密室に閉じ込められ、ひたすら煙で燻される。そして外に出ると、「なんて幸せだ」と思えるという代物だ。脳内麻薬を使う系列と言えばいいか。

 ハシシの語源となった暗殺集団「ハシーシュ(山の老人)」は、最初に麻薬を与え、没入した所で薬他を断たせる。禁断症状に喘ぐ者へ暗殺を命じ、それが遂行されるとまた麻薬を与えたという伝説があり、コレなんかは両方のハイブリッドと言えるかもしれない。



 さて、この「快楽を得る」という部分を「幸福」に置き換えると宗教というモノの本質が見えてくる。

 我々人間というモノは到底度し難く、幸せを感じたとしてもそれが長続きしない。水泳の息継ぎしているのと一緒で、泳ぎながら息継ぎして潜れたとしても、またスグに息継ぎしないといけないのだ。そして泳ぎ続ける限りコレの繰り返しであることは言うまでもない。

 なまじ前頭葉が発達しているものだから、ちょっとした未来が予見できてしまう。一寸先は闇だって誰もが知っている事実なのに、未来に不安を感じる。生老病死を気にしてしまう。

 

 そうしたものから、束の間の安息を得るために人類が生み出したのが宗教であると言える。

 誰しもが幸せになれる権利を持っている。しかし、その方法が分からない。

 死後の保証と安息、それを得ることによる日々の安息の糧。若しくは生活の規範となるべき道徳の教え。それによって生老病死からの恐怖を和らがせるのが本質であったのが宗教である。

 もちろん組織体系化していけば、彼ら知識層は究極の非生産者階級でもあるので、それを賄う必要もある。そういったものが喜捨であったり布施であったりする。

 しかして現在、洋の東西を問わず、宗教に渦巻く不信感というのは、この賄うべき喜捨の金額に対して、宗教側が答えを与えていないのが原因と言える。

 婚葬祭で形式に拘り、金額に拘り、向学精神を持たずに安住する宗教者など、愚の骨頂である。

 「葬式はこういうモノだから」「金額はこれくらい必要だから」では現代じゃ通用しないことにいい加減気づくべきだと思う。

 批判めいたが、基本的に組織維持のために、智のプールのためにある程度の喜捨は必要であること、そして与えられる安息・幸福を以て日々を平穏生きられる事……これらは一種の「与えられる」宗教である。すごく簡単にバッサリ切ってしまえば「足るを知る」ということである。

 コレは既存の宗教型ともいえる。


 さてこれに対し、「不幸型」の宗教がある。

 前述した通り、我々は日々不安を共に過ごしている。その不安を和らげるのではなく、助長して不安を煽り、金を継ぎこむことで平穏を得ようとさせる宗教である。

 で、これは新興宗教だからとか実はあまり関係ない。既存の古い寺院・教会とかでも似たようなことをしている奴もいるし、新興宗教でも清廉潔白な人物もいる。

 今回、元首相が暗殺されたことで例の宗教団体が注目され、確かに例の宗教団体はそういう性質の極めて高い、悪質な宗教団体と言える。

 ただ、新興宗教というカテゴライズで一括りにしては、本当に困った人を救済できるのかというのは怪しいし、かといって宗教の根絶というのは人類の歴史を全否定する暴挙ともいえる。

 

 肝心なのは、我々一人一人が「宗教というモノはこういう性質を持っており、それを使う者によっては邪悪にも善良なものにも変化する」という事を知っておくことである。


 「宗教はアヘンである」というセリフはずいぶん曲解されて現在膾炙されているが、マルクスが生きていた時代、アヘンは合法の薬であった。日々の安息に必要なものとしてチョット服用する、必要悪くらいの認識が正しいと思う。

 ハイネ曰く「苦しむ人々のため苦い盃に、甘く眠りを誘う数滴、つまり精神の阿片を、愛と希望と信頼の数滴を注ぐ宗教万歳」という事なので、概ね間違ってはいないと思う。

 現在でも医薬品としてモルヒネは使用されているし、そのためのアヘン生成はなくなっていない。

 どれも使用方法を間違えれば毒にもなるし、薬にもなる。

 しかし、それを自ら買うのか、押し売りされるのかでは自我の有無が生じる。能動的であるか、受動的であるかで宗教への受け止め方が変わるという話である。

 アル中や薬中毒者が自覚していないだけで、周囲の人間にはオカシイと思わせるように、変な宗教にハマった人というのは一種異様な雰囲気を漂わせている。

 

 インターネットが発達している今、我々は新たなフェーズに移行している。信仰はネットに宿る可能性がある。我々が必要としている知識は今やネットに介在している。そこら辺のオカシナ坊主や変な宗教を糺す情報は綺羅星の如く存在するし、また同等にウソ情報も溢れている。

 これを駆使できれば既存の宗教に頼る必要もなくなっていくし、またソレが原因で社会的に抹殺されることだってあるだろう。

 ただし、既存の宗教はどんどんネットに潰されていくことになるのは間違いない。情報もネタも、経験値も個人では太刀打ち出来ないからだ。

 

 どれも斜め見で付き合い、どれを受け止めていくかは我々に託されている。しかし、情報過多によってまた不安に陥るのが我々でもある。

 何処まで行っても悩みだけが尽きないのである。我々はいつまで経ってもどこまで行っても、不完全な存在なのである。


 それでも前に進んでいく。そう生きていくしかないのである。願わくば良い情報の宗教に逢いますように。


 

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