氷河のひまわり
雪の季節はもう過ぎ去ろうとしています。でも、どこで道草をしているのか春はまだ訪れません。
しとしとと冷たい雨の降り続く中、とある民家の軒先で一匹の子猫が雨宿りしていました。淋しそうに鳴きながら雨上がりを待ち続けます。
ひとりぼっちの野良猫生活。
ふいに子猫の前に少女が現れました。
「子猫ちゃん、ここ、私のお家なの」
少女が一歩近づくと、子猫はダッと、一目散に雨の中に姿を消しました。
秘密の隠れ家、自分だけの居場所に帰った子猫は、濡れた身体を小さく丸めて眠りにつきました。
暗闇の中で凍えながら。静かに息を殺して。危険な目に遭わないように。決して誰にも見つからないように。
まるで、殻を閉じた貝のように。
空いたお腹がぐぅーと鳴りました。
あくる朝、子猫は昨日の軒先で食事を見つけました。
用意された朝食と、一枚のメッセージカード。
『どうぞ 子猫ちゃんへ』
子猫は警戒心をそのままに、急いで食事を食べると、その場を逃げるように立ち去りました。少女が姿を見せた時、そこには子猫の足跡だらけのメッセージカードだけが残っていました。
少女はメッセージカードを拾い上げると、「ふふふっ」と嬉しそうに微笑みました。
少女と子猫。メッセージカードに付いたたくさんの小さな足跡だけが二人の繋がりを物語っていました。
少女は毎日、食事を用意しました。子猫は毎日、食事を食べました。
その毎日がすれ違いでした。
ある時から、食事の隣には子猫のための小かごのベッドが添えられました。子猫は食事だけを食べたきり隠れ家に帰ると、いつも寒い暗がりの中で眠りにつきました。
誰かが用意してくれた暖かなベッドで眠ってしまえば、自分の心の中にある自由が奪われてしまいそうで怖かったのです。
ある日、毎日用意されていたはずの食事とベッドは突然に消えました。子猫は幾度も幾日も軒先を訪れましたが、少女が姿を見せることは一度もありませんでした。
自分は少女に嫌われてしまったのか、と考えました。子猫の心の中で、少女の存在はとても大きかったのです。
元々ひとりぼっちだったのに、今はもっとひとりぼっちになった気がしました。
また幾日か過ぎて、子猫は少し痩せました。その背中は丸まり、元気はありませんでした。淋しかったのです。自分一人で生きていく、という強い心も失くしていました。
ある、肌寒い曇った日のこと。
しばらくぶりに訪れた少女の家の軒先に、子猫は食事と小かごのベッドを見つけました。
子猫はキョロキョロと辺りを見渡しました。見落とすことのないように目を凝らして、少女を探しました。
少女の姿は何処にもありませんでした。
子猫は一口だけ食事を食べると、小かごをじっと見つめました。ベッドに寝てみようか、と思いました。そして躊躇いました。
子猫にとって、このベッドで眠ることはとても勇気のいることだったのです。
野良猫のプライドを曲げる勇気。
少女の愛情に触れる勇気。
今まで生きてきた自分の世界が変わってしまうかもしれない。
でも、子猫の心には少女に対する感謝の気持ちがありました。子猫は恐る恐るベッドに足を踏み入れました。
柔らかい。
横になって寝てみました。
暖かくて心地よい。
目を閉じると、更なる心地よさが子猫を襲いました。
子猫はいつしか眠りに落ちてしまいました。
夢を見ました。
寒い寒い、見渡す限りに真っ白な、雪と氷だけの極寒の世界。子猫は寒さに震えながら、あてもなく彷徨います。
はるか遠方に、雲の裂け目から一筋の陽の光が射し込みました。子猫はその光に導かれました。
そこには一輪の立派なひまわりが咲いていました。
天に向かって誇らしげに輝いて咲く大きなひまわり。そこだけが暖かな場所でした。
子猫はひまわりの下で眠りにつきました。
暖かい。心地よい。
しばらくの至福の世界に包まれて、やがて子猫は目を覚ましました。
雲っていたはずの空はいつの間にか晴れ渡って、子猫の眠っていたベッドは暖かな陽射しに包まれていました。
目覚めた子猫の隣では、そっと静かに、少女が子猫に寄り添うように座っていました。陽射しを浴びて微笑む少女が、優しく子猫を見守っていたのです。
子猫は気づきました。
そうか……。夢の中で見たひまわりは、この少女なんだ。どんな時も優しく温かく見守り続けてくれる。
「私ね、ちょっと病気で寝込んじゃってたの。えへへ。ごめんね」
少女はそう囁いて優しく子猫の頭を撫でました。子猫はもう逃げません。自分の心に素直に従いました。
「やっと近づけたね」
少女の言葉に子猫は「なぁご」と、少しだけ甘えたような鳴き声を返しました。
「ねぇ、私と家族になろうよ」
子猫は「なぁご」と、もう一度甘えたような鳴き声で少女に答えました。
さわやかな暖かい風が吹き抜けました。
冬は終わりを告げました。
暖かな陽射しと共に、ようやく春が訪れたのです。
おわり。