第二話 ちゃまだら(ニ)
白々と夜が明けるまで佐之助は思考の波間に漂っていた。気分を変えようと開いた障子から庭に視線を投げると、離れで奉公人たちが何かしている様子が見て取れた。店の者らもいる。その中に一際目立つ者がいる。
袈裟を掛けた人の身丈ある大狸。――人では有り得ない者だ。
* * * * *
早朝から弦庵は、離れの前に集まった奉公人たちにあれやこれやと細かい注文をしていた。
「いや、それはこちらに。大事に扱ってくだされ。ああ、そのそれは……」
忙しく指示を出す中、弦庵は声を聞いた気がして振り返った。
(――弦庵殿)
弦庵は確かに誰かが呼んでいると感じた。周りの人間たちには聞こえていないようだ。
――懐かしいこの感覚。夕べの若造からも感じられたが。
弦庵は視線をすばやく辺りに彷徨わせる。するとまた声が聞こえた。
(こちらへ、弦庵殿)
「……む?」
声は離れの裏手、陰の気を多く招く場所から聞こえて、弦庵は首を傾げて唸る。
――物の怪の類ではあるまいな。そのような気配は感ずるはずはないのだが。ここには迷えるヒトの魂だけがうようよしとるだけじゃ。
自分のことは棚上げし、訝しみながらも呼ばれるままに裏手へ回る。屋敷の者らは気付いていないのでますます良くない物の怪かと身構えた。薄桃色の薄物が視界に入って良くない予感で足がすくむ。
――そこには青柳が人の姿で脚を組み、腕組みまでして縁側に座っていた。
「遅かったじゃないか。ええ? 弦庵。否、茶斑殿」
「あ、いや、これは懐かしい。――あ、青柳」
茶斑と呼ばれた弦庵はたじろぐ。変な汗がでているのが自分でも分かって、慌てて懐の手ぬぐいで額を拭う。
「わたしの縄張り荒らしておいて、挨拶もなしとは安く見られたもんだねえ」
青柳が、皮肉気に笑む。眼も冷たく茶斑を見据えている。
底冷えするような眼力に怯えながらも、茶斑は内心どこか強気で舌打ちしていた。
――青柳の縄張りだったか。しくじったの。だが、手ぶらでは退かぬ。馳走を目の前にして、誰が尻尾を巻いて逃げるものか。
茶斑は頭を一所懸命働かせてなんとか上手い言い訳がないか考えていた。
「あんたがこのまま引き下がるとは思ってないさ。わたしらの中で一番食い意地張ってんだから。でもねえ……」
心中を読まれ顔色を無くす茶斑に青柳が表情を緩め、続ける。
「今、わたしの計画を邪魔されるのは困るんだよ。とってもね。ま、あんたの食欲だけの空っぽな頭じゃ分かんないだろうけど」
「……計画とは何だ」
「悪意に満ちた魂を、小芋のように全部引っ張り出すんだよ。そのために手駒も使って長い時間かけて用意してきたのに、あんたが余計なことしようとするせいでケチがつく」
「手駒とはあの若造か。通りでお前の気配があの若造から匂ったわけか。……しかし、儂の仕事がお前の計画に何の不都合がある」
「気配も何も。あんた、わたしのことすっぽり頭から抜けてた癖に良く言うよ」
その言葉を受けて青柳が大仰に溜息をついて見せる。
「仕事って言ったって、変なまじないかける程度じゃないか。この屋敷に起きてることは奴ら曰くの怪異だの物の怪だのの仕業じゃない。そんなことなんてとっくにお分かりだろうからここに来てんだろ? だからあんたのやることは効果がない、ここに住んでる者達を安心させるだけがあんたの頼まれた事だろ。だけどわたしにはねそれがちょっとばかし邪魔になるんだよ」
茶斑が唸っていると青柳が畳み掛けた。
「今日は取引しに来たんだ。あんたにはとっときの御馳走をあげよう」
「しかし……」
「――損な取引じゃないのは、わかるだろう。――ご覧、この屋敷を。あんたの眼ならもっとよく分かるはずさ。ここは邪気と悪意を喚んでいる」
茶斑は辺りを見渡す。
「確かに。悪意の塊が屋敷を覆っていて、心の臓が動いておるように脈打って」
茶斑はこんなに目立つソレに言われるまで気付けなかったことには蓋をした。喜び勇んで目の前の離れの気に夢中になっていたが、比べてみれば離れなど塵のように取るに足らないものだ。
「……これは、上物」
舌舐めずりする茶斑を青柳は薄く笑んで見ていたが、すっと立ち上がり茶斑の口元に手を当てる。
「これはね、お礼だよ」
瞳を冷たくすっと細めた青柳が手を離すと、茶斑の閉じた口の中にはいつの間に蓬があった。慌てて吐き出そうとするが、出せずに踠く。口の中で嫌な香りと味が溶け、身体が痺れる感覚があった。
「ぐ――何を? これは蓬か! ぐっ……ぅぅうう……」
喉を押さえてうずくまり、身悶え始めた茶斑の様子を見て青柳は愉し気に嗤う。
「あんた耄碌しすぎだよ。わたしが礼儀を知らない奴が大嫌いってことも忘れたのかい? いいね、すぐここは退くんだ。あとねえ、わたしの手駒にもちょっかいは出さないでおくれよ」
茶斑に一瞥くれた青柳の姿が揺らめき、艶めいた含み笑いが聞こえた後に彼は青い炎のようになると瞬く間に掻き消えた。