第二話 ちゃまだら(一)
中に促された弦庵が奥から出てきた。その姿はでっぷりと太った茶毛の印象が強い狸で、ふさふさとした長い白髭を下あごにたくわえている。
狸が袈裟に髭。まるで御伽噺だな、なるほど青柳と同類であるのか。しかし蛙よりは狸のほうが可愛らしく見えるものだと佐之助は内心で頷いた。
「では、お言葉に甘えまして。……おや?」
狸の黒目が細くなり、じっと佐之助を捕らえる。思わず息を呑んで見られるままになっている佐之助の代わりに問うように佐衛門が口を開く。
「――何か?」
狸は胸元まで伸びた髭を撫でながら、微笑って言った。
「いえいえ、何でもござらん。懐かしい者に似た雰囲気を感じたものでな。いや失礼。おおこれはまた。拙僧如きになんと立派な――」
狸はちらりと意味ありげに佐之助を見やると、佐衛門らに招かれるまま部屋へと肢を踏み入れる。
先刻、佐衛門の逆鱗に触れた奉公人たちは、佐之助に目もくれずそそくさと下がっていった。
彼らの下がり際に交わされた、密やかな囁きが佐之助の耳に入る。
「弦庵殿を招いたことが、近所に分かれば……」
「噂になろうな。十二年前のこともあるし。旦那様のあのお変わり様も」
「面白可笑しく言われる内ならまだ物見遊山気分の者が店に来るから良かろうよ。悪いのはそれで客足が落ちることだ、上総屋はやはり……」
「なれば年季が明ける前に逃げるだけよ」
――十二年前?
佐之助はその場で凍りついた。
――十二年前何があった?
頭の中ではっきりしない記憶たちが波のように押し寄せては、消える。
佐之助の頭は混乱する。そのまま立ち尽くしていると、佐衛門が部屋から顔だけ出し彼の足元を見て一言。
「……戻れ」
それは搾り出すように小さく、苦渋に満ちた声だった。佐之助は声に押されるように項垂れて自室に戻った。
父に久し振りに掛けられた言葉の冷たさに騒つくその心中では、先ほどの奉公人たちのことも過ぎっていた。
――父にあの会話の内容を伝えなくてよいのか。奉公人たちはこの家も上総屋も見限ろうとしている。弦庵は、青柳が嘲笑するぐらいの人となりで、手癖も悪いと罵るくらいだ。金品を騙し取るのかもしれないし、家財を盗んで行くかもしれない。
そう思うと同時に――だが。無理だ。聞いてはもらえん。という諦めも浮かぶ。
佐衛門は佐之助と関わるのを避けている。
昔、店の売上が足りなくなり、店や屋敷中が大騒ぎになったことがあった。
佐之助はその前日の夜中、いつものようにふらふらしていて偶然奉公人が盗みを働くその現場に出くわした。佐衛門に誰がやったのかを訴えたが、佐之助の話を聞こうとしなかった。結局その奉公人は無事捕まったのだが、自分の一体何がいけないのかとやりきれない思いで数日荒れたのだった。
そんなふうにまともに取り合ってもらえないことは数え切れないくらいあり、佐之助も父と向き合うのをいつしか止めた。
父が自分を認めないのは、いつまでも上総屋の跡取りとして己の責任を果たす事が出来ないせいだ――と彼は思うことにした。子供の頃は愛されていたとよく知っている分、今なきもののように扱われていることが本当に辛い。辛いからこそ思い付く自分の悪い部分を理由にしてよすがにするしかない。
そうして佐之助は眠れぬ夜をまた過ごすことになる。
写本でもあれば、少しは気も紛れたかもしれない。――しかしこの部屋には何もなかった。
何年か前までは子供の頃の玩具だとか、寺子屋通いをしていた頃の写しだとかも置いてあった。だがある日、佐之助が外に行っている間に全て片付けられてしまっていた。
思い出を捨てられた気分になったし、まるで誰もが佐之助に対して「出て行け」とも言っているようだった。
直接言われたわけではなかったが、佐之助は父親や家人たちの態度からそう感じ取っている。
屋敷の奉公人や店の者達は佐衛門と同じく佐之助と会話をしようとはしないし、目も合わさない。たまにそっとこちらの様子を窺うだけだった。
佐之助は彼らに距離を置かれることに耐えられず、家を出ようとしたこともある。しかしどうしても帰ってきてしまうのだ。
他に佐之助が行く当てのないことは勿論のこと、青柳のように女郎や未亡人の女性たちに世話になることも申し訳なくて出来ない。病んだ母も心配だ。結局言い訳を探して帰ってきてしまうくらいには家族に未練があるのだ。
――ここには、居場所などとうにないのに(何処にも行けない)
――行かなくてはならないのに(何処へ? )
佐之助は、今まで嫌というほど繰り返してきた自問自答を始める。
――答えなどないのに。