第一話 よもぎ(四)
(余計なことまで思い出した)
佐之助は溜息を吐く。
彼はキヨに違和感を持ち始めたが、すぐにそれは心配と取って代わった。
母との会話はいつまでも噛み合わず、それが息子として彼に砂を噛むような苦い気持ちを味合わせることとなったのだ。
キヨはしばらくするとすうすうと安らかな寝息を立て始める。
「どちらが親かわからんな」
呟いて笑んだ佐之助の顔からそれがふっと消えた。
――この、疫病神!!お前なぞ生まれてこなければ!!
呪詛が、聞こえた。
振り返っても誰もいない。もちろんキヨの声では、ない。
「……これは」
――頭の奥、おくの奥から確かに聞こえた。
けれどしかし聞いたことのある声。
「一体……」
すぐにまた頭の中がぼうっとする。あの感覚だ。もやがゆっくりとかかっていく。
佐之助は、自分が張り巡らされた蜘蛛の糸にくっついてもがく蝶のようだと感じる。
佐之助の意識はそこで途切れていった。
* * * * *
佐之助が目を覚ますと、辺りは暗闇が包み込み、静寂だけが満ちている。
すぐ傍でキヨの微かな寝息だけが聞こえた。
起こさぬようそっと身を起こし、庭に降りる。
庭を月明かりが青白く染めていた。
冴え冴えとして、そしてどこか緊張感のある、夜独特の雰囲気に身体を預けると佐之助は大きく息を吐く。
母屋に面した池のそばで腰を下ろすと、そこに放されている鯉たちが紅色黄金、白金色と色とりどりの姿を現し佐之助に餌をねだった。きらびやかだが、浅ましい。
やがて鯉たちは彼が餌をばら撒く素振りがないのを感じ取り、静かに水面下へとくだっていく。
佐之助は視線を空に向けた。――月が美しく畏れも孕んでいて目が離せない、神々しくも感じられる。
その月は青柳から以前聞いた言葉を彼に思い出させた。
――日光の届く昼間より、月光の落ちる夜間のほうが本性がわかるものだ。だから悪事は夜に多く、満月の夜は特に悪事が多い。
彼はいつも佐之助に言って聞かせる。人を妬み謗り蔑むことこそが、悪なのだと。
平たく言えば、羨ましく思う、陰口を叩く、他人を敬う気持ちがない。ということだろうか。いまいち佐之助は悟りきってはいないし、青柳にしてみても陰口などはしょっちゅうで、他人を敬う気持ちもなさそうだ。
まあ青柳はそもそも人ではないのだから、その範疇には入らないのかもしれない。
佐之助がそんなことをぼんやりと思っていると、母屋が夜だというのにざわざわと騒がしくなってきた。
――今日はよく似たようなことがあるものだ。
佐之助はそう思い、腰を上げ母屋の縁側に立った。左手廊下の壁、ちょうど角になっていてこちらからは壁しか見えない。その奥から、何人かの縋る様な声と、父親――佐衛門の苛立ち混じりの声が聞こえてきた。
何事かと見守る佐之助の前に、何人かの奉公人たちがなだれ込んでくる。
「もう夜も遅うございます、奥様もお休みですので旦那様、どうかお部屋に!!」
「弦庵様も今お着きになられたばかりで――」
足音も荒く、彼らに縋られたたらを踏んでいたこの屋敷と大店の主である佐衛門の姿が廊下を曲がってこちらにやってきていた。彼は怒気も露に奉公人たちを一喝する。
「お前らは一刻も早くこの状況を何とかしたいと思わんのか! それとも早く潰れてしまえと思っておるのか! ええい退かぬかっっ!!」
佐衛門は止める彼らを足蹴にした。彼らが持っていた明り取りの行灯がその衝撃で庭に落ちてその場で燃える。すぐに慌てふためいた奉公人の誰かが火を踏んで消した。
それを見て更に佐衛門が怒り、彼らに罵詈雑言を浴びせかける。
佐之助はここまで怒る父を見たことがなかったし、その行動も普段の温和な父からは到底考えられないものだったので、慄いて思わず後ろに退いて沓脱石の上に立った。
「旦那様、慌てなさいますな。いやいや、夜半は魔物の跋扈する時間。拙僧の非力な法力では打ち勝てますかどうか――」
しゃらしゃらと衣擦れの音がして、その後のんびりとして深い渋味のある声が佐衛門に掛けられた。彼は廊下の奥から掛けられた声に振り向き、慌ててそちらに頭を下げる。
「――いや、お恥ずかしいところを。焦りばかりが先立ち、家人の言うようにお疲れのところをご無理申し上げて……」
すると佐衛門は奉公人たちに向き直り、彼らにも頭を下げる。
「お前達にも申し訳ないことをした。許しておくれ。――さあ弦庵様をお部屋に」
佐衛門は穏やかな弦庵の声に諭されたのか、普段の落ち着きをすぐに取り戻したようだった。
奉公人たちは佐之助の正面、庭に面した部屋の障子戸を開ける。
そして廊下の奥から坊主なのだろう、薄茶の袈裟を掛けた恰幅のよさそうな人物が現れた。