第一話 よもぎ(三)
佐之助は青柳と別れ、わざわざ出てきた屋敷にまた戻ることにした。
どうせ他に行くところもなし、昼間からぷらりぷらりしている自分はこの生き生きと働くものがひしめく往来では邪魔者でしかない。
そうやって佐之助は上総家の裏門に戻り着いたが、彼の頭はどこかぼんやりとしていた。
久々に何かを掴みかけたのに、頭の中は不透明でどうでもいいことばかりを紡ぎ出す。――上総屋の跡目相続がいい例だ。
佐衛門にとって跡目を継ぐという事は二の次、三の次でしかなく、その忘れた大事な何かを思い出したいという想いしか今はない。
それを理解してくれる者も家の中にはいなかった。
――何度も味わう砂を噛むような感覚。
それが家に戻ると襲って来て、特に離れの前に立つと強くなる。
佐衛門は目の前の大きな門を見上げて溜息をついた。
門は家の造りから言えば裏門なのだが、先代が見栄のために大きく立派にしつらえたので、実のところ行き来には使いづらい。
裏から出入りする奉公人や御用聞きは門戸からは入れないので、彼らの為に作られた戸口は大きな門の脇に目立たぬ様にして作られている。佐之助はいつもそこを使っていた。
まるで他人の家に無断で上がるがのごとく、そうっと彼は木製の小さな木扉を開く。
表側になる店から入ればいいのかもしれないが、忙しそうな中を自分がうろちょろしては主である佐衛門の沽券にも関わる。一応佐之助なりに気を使っているつもりだ。
小さな木扉を潜ると庭に出る。正面に見事に手入れされたアカマツやモッコク、ツバキやキンモクセイなどがある。その間から母屋の縁側が見て取れた。
母屋右手の方に蔵があり、その隣に小さな離れがある。
佐衛門が何時隠居しても良いように、いずれは来る若夫婦の邪魔にならないためにと、気の早いことに佐之助が生まれて直ぐに建てさせたものだった。
けれども皮肉にも佐之助ではなく、佐衛門が長年連れ添ってきた連れ合いである、さらに佐之助の母キヨが現在そこに立て籠もっていた。
天気の良し悪しにかかわらず、普段からぴったりと雨戸が閉じられた離れを佐之助はぐるりと北東側に回って、青柳に言われた通り縁の下に小さな穴を掘る。
蓬を埋めて手をはたいていると、反対側から人の声が聞こえた。
――誰だろう。
覗けば、声の主は奉公頭のお類――先代の頃から奉公に来ている古株の一人で年の頃はキヨより幾つか上の女――で、離れの母に何事か話し掛け、泣いているようだった。
寝たきりのキヨの世話を彼女が一人でやっているのだから、その苦労は並みのものでは無いだろうと佐之助は彼女に対し常々頭が下がる思いだった。
けれども直接彼女にお礼を言ったことはない。言いたいとは思うのだが、佐之助の上総屋での微妙な立場と普段からお類に構われたこともないために話し掛けることができず中々行動に移せないでいた。
そのために佐之助は立ち聞きしたような後ろめたさと、顔を合わせづらい気持ちから出るか去るか躊躇っていた。
「……佐之助。早うこちらにおいで、おるのでしょう?」
キヨの自分を呼ぶ声が寝所の雨戸の向こう側からか細く聞こえて来た。その声を聞いたお類が涙を拭きながら足早に母屋へと戻って行く。
それを見てしまった佐之助はなんだか決まりが悪く、こちら側から声を掛ける。
「お袋様、お加減は……」
「さあさ、抱っこしてあげましょうね。佐之助。坊。あたしの可愛い坊や、ささ」
キヨはそう言うと、自分の腕を佐之助のいる場に向かって差し出した。
雨戸の隙間をこじ開けて佐之助は中に入る。
そっと畳を踏んで、佐之助は黙ってそのか細く、青い血管の浮き出た二本の腕に抱かれに行く。母の中で彼はまだ幼い稚児なのだ。
「坊、今日は何を習ってきたの。……読み書きね。お前はお利口だから、――ええ、ええ、そうね」
無論佐之助が答えているわけではなく、キヨ一人が語り続け、それに頷いている。
――キヨは病んでいる。
佐之助がそれと分かったのは家人の誰よりも早かった。
いつまで経っても彼を「坊」と呼ぶ。それに違和感を持ち始めたのは、はっきりいつと覚えはないけれど十を過ぎた辺りだろうか。自分に対して母親がまるで幼子を扱うかのような言動に何故か嫌な気分になったのだ。
――それを聞いた青柳は彼に言った。
「母親にしたら子供はいつまで経っても子供だよ。だけどもね、心の奥底で赤子の頃と重ねはしても、その時々で言い方は変えていくもんだろう。お前が大きくなってるのに幼児扱いならそりゃあ気分も良くはないさね」
「青柳は母の気持ちが分かるのか……まさか子供を生んだことがあるのか?」
「あのねえ……これでも突然降って湧いたわけじゃないんだから。わたしだって親から生まれたんだよ。それにねえ」
語気を強めて続ける。
「お前さんから見たら只の蛙でも、他のヒトから見りゃわたしは立派な男なんだよ。女どもが離さない位、そりゃあ立派な――」