1 ついに魔族の世界です
一本だけで人の背丈ほどもありそうなドラゴンの爪が、俺の《檻》をがしっと掴む。と思った次の瞬間には、空中にふたたびあの真っ黒な渦が出現した。
もうふり向くつもりはなかったけど、俺はその爪と檻のほんの小さな隙間から、地上を一瞬だけちらっと見た。
皇子の檻は帝国軍のいる場所に降下すると、すぐさま障壁を解除されたらしい。宗主さまとベル兄が駆け寄ってきて、半裸状態の皇子にマントを羽織らせるのが見えた。
皇子はそれには目もくれず、ひたすらこっちを見つめている。
こっちって言うか、つまり俺を……だな。ものすんごく悲痛な目で。
皇子は、なにかを必死に叫んでいた。
やっぱり必死に俺を見つめて。
なにを言ってたかは分からない。その時にはもう、ドラゴンはずいぶん高いところまで舞い上がり、相当距離が開いてしまっていたからだ。彼の声は、俺の耳には到底とどかなかった。でも、何を叫んでいるのかはわかるような気がしたけどさ。たとえ聞こえていなくても。
それが最後だった。
俺たちの入った檻をつかんだドラゴンは、でかい翼でぶわあっと風を巻きおこし、一気に黒い渦に飛びこんだ。ほかの魔族たちも続々とその《門》に飛びこんでくる。最後の一匹らしいのが入ってきたと思った次の瞬間、入口は嘘みたいにぴたりと閉じた。
その途端、視界が一気に暗転した。
見えるものは、ただ濡れたような闇一色になり、目を開けているのかそうでないのかさえわからなくなる。
「くるるうん……」
「ドット……。大丈夫だかんな。俺から離れるなよ」
口じゃそんなことを言って見せたけど、実は俺自身、ドットの温かさだけが頼りだった。
ものすごく心細い。
俺、いったいどうなっちゃうんだろう。
(ううっ……)
必死でふんばっていないと、どうしても足が震えてくる。
だって、皇子でさえあんな目に遭ったんだ。
俺に待ち受けているのはもっともっと、ひでえ拷問の嵐なのかもしれなかった。
……怖い。
怖くないなんて言ったら、そんなもんはウソだ。間違いなく。
必死で奥歯を噛みしめて、震えてくる全身を叱咤する。
(まちがってないよな? ……俺のやったこと。まちがってないよな? なあ……シルヴェーヌちゃん)
俺は丸々したドットの体を抱きしめ、その場にうずくまった。
そうして、永遠にも思えるその真っ暗な時間に耐えた。
◆
始まったときと同じように、暗闇の世界は一瞬で明るい世界へと転換した。
なんだかあっけないほどに。
さっきと同じ、丸い《門》がふたたび目の前に現れて、ドラゴンと魔族たちは次々にそこに飛び込み、光の中へ飛び出したらしかった。
「国境の長いトンネルを抜けたら」とかって始まる有名な文豪の作品があるけど、そこに広がっていたのはもちろん「雪国」じゃあなかった。
(……んん?)
なんとなく、不思議な違和感を覚えて目を凝らす。
魔族が暮らす世界っていうと、想像するのはもっと暗い、どんよりとした、そして鼻の曲がりそうなひでえ臭いのする汚い場所……って勝手に想像してたんだけど。
なんかそこは、拍子抜けするぐらい「普通」に見えたんだ。
確かに帝国よりは荒涼とした雰囲気があるのは間違いない。眼下にはごつごつした岩だらけの高山や、荒れた感じの草原や森が広がっている。
でも、ちゃんと見てるとあっちこっちに畑らしいもんがあったり、牛や羊によく似た生き物が放牧されているらしいのがわかる。牛や羊を追って歩いているのは、魔族軍にいたような見るからに恐ろしい見た目の魔物じゃなくて、なんか小柄な子どもの魔族に見えた。
(あれれ……? なんか、思ってたのと違う……?)
と、首をかしげた時だった。
耳の中で、例の錆びたみたいな魔族のリーダーの声が響いた。
《気を失ってはいないだろうな、帝国の姫》
《失ってねえ。バッチリ起きてるわ、余計なお世話だ》
今の俺、多分むうう、とふくれっ面をしているだろう。
怖いって気持ちは嘘じゃないけど、それ以上にあるのは「舐めんなよ」って気持ちだ。皇子にあんな真似をしやがったやつらに、これ以上気を使ってやるつもりもねえしな。
《ならいいが。そこで失禁などされては困るのでな》
《うるっせえ! 誰がチビるか、この○×△○×野郎!》
……お察しのとおり、最後のコレは日本語のめっちゃ汚いスラングだと思ってください。ここで文字に起こすのは、さすがの俺でもちょい気が引ける。ついでにビシッと中指立ててたことも、見なかったことにしてください、ごめんなさい。
──冗談はさておき。
俺はなんとなーく、下界を見下ろしているうちに自分の気持ちが落ち着いてくるのを感じていた。
赤っぽい大地に作られた農地や牧草地。そして少し向こうにはあっちこっちに魔族の集落らしいもんが見えている。そこにいるのは兵士たちよりずっと小柄で弱そうな、いわゆる「一般の」魔族たちだった。
子どももいるし、女性らしいのや老人らしいのが色々見える。
いかにも貧しそうだけど、どこかのほほんとした長閑な雰囲気だった。
(なあんだ……。そっか)
そりゃそうだ。
俺だってついこの間、自分の力を使って魔族軍どもをみーんな赤ん坊に戻しちゃったんだもんな。こいつらにだって子ども時代があるはずなんだし、年をとれば老魔族になるのは当たり前。
(……俺、敵をなんだと思ってたんだろ)
戦争している相手だから、なんかただただ恐ろしくてなんの理性もなくて、家庭的な部分なんてゼロのやつらばっかだって、勝手に思い込んでいたかもしんねえ。
だって、いま腕の中にいるドットを見ろよ。
こいつだって、もとは魔族軍に所属していたおっそろしい大人のドラゴン兵士だったわけだもん。可愛がって大事に育てれば、こんなになついてただただ可愛いだけの存在になるのにさ。
《そろそろ魔王陛下のご居城だ。しかと覚悟をしておけよ、姫》
《だから姫って呼ぶなっつーの!》
俺はまたぶんむくれて、頭上に向かってイーッと歯を剥きだした。





