1 まずは予兆のはじまりです
それからしばらく、騎士団からは褒美としての特別な賜暇──つまり休みな──が与えられて、俺はマグニフィーク公爵家にとどまり、相変わらず野球をやったり、さらに展開して広がった事業のその後をチェックしたりという仕事に追われた。
忙しいのは、個人的には助かった。
これ以上、皇子のことを考えたくなかったからだ。昼間ばたばたと忙しくしておけば、夜は疲れてあっという間に寝てしまう。いろいろ悩んでても、疲れと眠気のほうが勝利しちゃう。
え? 悪かったな、ナイーブじゃなくってよ。
でも多忙なのは事実だった。ほんと、急にできた休みってこともあってスケジュールがパンッパン。
朝も早くから起き出していつもの剣と野球のトレーニングをし、ドレスの件や野球用品の件、それから今回新たにもらうことになった鉱山の件なんかで訪ねてくる人たちの応対をし。それにくっついてどんどん増えちゃった書類仕事だってこなさなくちゃなんなくなってさ。
だからべつに心配する必要もなかった。つまり放っといても俺は、超忙しい毎日だったんだ。
「お嬢様。次は鉱山の管理責任をしている○○さんがお見えです」
「次はシュミーズ・ドレスの支店、二号店の店長△△さんが──」
エマちゃんは、今やすっかり俺の秘書みたいな立ち位置になっちゃってる。
本来貴族の屋敷で働く秘書っていうのは、帝国の学術院やなんかをちゃんと出て、それなりの資格を得ないとなれないもんだ。けど、少なくともスケジュール調整だけに限って言えば、エマちゃんはとても優秀な子だった。
まず、人の名前と顔を覚えるのもめっちゃ早い。記憶力がよくて機転もきく。こういう子を「本当に頭のいい子」って言うんだろうな。しかも性格がいいし!
一応、会社仕事をしてるんで、もっと年上の男の執事もつけてるんだけど、頭の回転の速さだけで言えばエマちゃんは俺にとって非常に優秀な秘書だと言えた。
彼女が忙しくなっちゃったぶん、代わりに身の回りの世話やなんかはほかの侍女ちゃんやメイドちゃんがしっかり担当してくれている。この子たちもとっても優秀。まあ、人選をエマちゃんがやってくれてることが大きいわけだけど。
来客の列がひと通り終わって、俺は執務室の椅子に座ったまま、ぐうっと伸びをした。
「ふはあ。今日のお客はこれで終了?」
「はい。本当は、『救国の女神』となられたお嬢様にひと目お会いしたいと、もっと多くの方が面会を求めてこられているのですけれど──」
「えっ、マジ!?」
「はい」
いやいや。もうお客さんはいいよ。初対面の相手につぎつぎに面談すんのって意外に疲れるし。勘弁してよー。
エマちゃんは「わかっております」と言わんばかりににっこり笑った。
「けれど、それではお嬢様が大変すぎますので。どうしても必要な人しか許可しないようにしております」
「そーなの!? ありがと。でも、俺に会いたい人って実際どのぐらいいるの?」
「……ええと」
そこでエマちゃん、一瞬だけ天井を見た。
そしてすぐ、いつもの可愛い笑みを浮かべた。
なんか意味深な笑顔だけど。
「お聞きにならないほうがよろしいかと」
「うへえ」
なんだそりゃ。こわっっ!
うん、聞かなかったことにしよう。そうしよう。
「あのう……シルヴェーヌ様」
「ん?」
今度はエマちゃん、ちょっと聞きにくそうに口ごもった。
「その……クリストフ殿下から、その後なんのご連絡もないようですけれど──」
「あー。うん……」
そうなんだよな。
あれ以来、皇子は俺に直接なんの連絡もしてこない。手紙のひとつもよこさないし、ベル兄を通じての伝言も、もちろん《魔力の珠》による通信もない。もちろん俺からも連絡してない。
俺はご褒美の休暇をもらったけど、皇子とベル兄はあのあとすぐに隊にもどった。あっちはあっちで、いつも通りの隊での訓練やら皇室の仕事やらで忙しくしているんだろう。基本、多忙な人だからな。
「……大丈夫ですか? シルヴェーヌ様」
「え? ははっ。なに言ってんの、エマちゃん。俺は全然平気! 大丈夫だよ」
またちょっと心配そうな目になったエマちゃんに、俺はにかっと笑ってみせた。でもわかってる。エマちゃんの目はごまかせねえ。
だって俺がいちばんよくわかってたから。俺のその笑顔が今は、どことなく弱々しくて儚げなもんになっちゃってるだろうってことはな。
……はあ。情けねえ。
◆
とんでもない報せが舞い込んできたのは、その数日後のことだった。
すっかり夜も更けて真夜中をちょっとすぎ、俺がとっくに自分のベッドに入っている時間だった。
いつも枕もとの小さなテーブルに置いてある《魔力の珠》が、急にパアッと光りはじめて周囲が明るくなり、すっかり眠り込んでいた俺は、目を閉じたまま眉をしかめただろうと思う。
「んん……っ」
《……ヌ嬢。聞こえていますか、シルヴェーヌ嬢!》
切羽詰まった女性の声。
それでも俺はまだゆらゆらと半分ぐらいは夢の中にいて、その声もしばらくは夢の中のもんだと勘違いしていた。
でも。
《ああ、起きてくださいっ、シルヴェーヌ! お願いよ……!》
「……どわっ!?」
ガバッと身を起こすと、まぎれもなくリアルな声が《魔力の珠》を通して聞こえてきていた。
(この声は──)
「あっ、あのうっ……。すんません。もしかして、皇后陛下ッスか!?」
《ああ、よかった。ようやく聞こえたのね》
陛下の声はひどく怯えているようだった。ものすごく緊張してるのが伝わってくる。それに、もう半分泣いてるみたいにも聞こえた。
俺の心臓は、すでにバクバクいい始めている。
「なにがあったんスか。……皇子に、なにか──?」
頭の中で凄まじい警鐘音が鳴っている。
ほとんど勘だった。でも、それを疑う余地はなかった。
こんな切羽詰まった皇后陛下の声を聞いたの、初めてだし。
それに、この《魔力の珠》は皇子の珠と直接つながっている。基本は皇子が個人で使っているもののはずだから、これをお母ちゃんである皇后陛下が使ってること自体がめちゃくちゃイレギュラーなことだった。
もう百パーイヤな予感しかしねえ。
《ああっ、シルヴェーヌ……。どうか驚かないで聞いてくださいね》
陛下の声はものすごく震えて、涙に滲んでいる。
俺はつぎに来る言葉を待ちかまえ、首の後ろの毛が逆立ってくる感覚にじっと耐えた。
それでも、次に聞こえたセリフは衝撃的なものだった。
《クリストフがいなくなりました》
「え……えっ?」
「我が耳を疑う」なんて言うけど、まさにそれだ。
なんだって? ちょっと意味がわかんねえんだけど。





