5 婚約破棄させていただきます
「ごきげんよう、シルヴェーヌ様。本日も大変お美しくていらっしゃいますね」
「は……はい。ありがとうございま……す」
その日の午後。庭園の四阿。
俺はそれなりに着飾って、公爵邸を訪れたヴィラン……じゃねえや、ヴァラン男爵の息子に会っていた。着飾るとは言ったけど、これは全部エマちゃんやそのほかの侍女さんたちの努力の賜物だ。
この世界では、公式の場での淑女はいわゆるドレス姿だ。あの悪名高きコルセットとやらを体験して、なさけない悲鳴をあげ失神したのは内緒……っていっても、使用人のみなさんがもうご存知なわけで。つまりそれは、お屋敷じゅうに広まるのも時間の問題だ。
「ぐふっ……」
俺はきらびやかな扇子で自分の顔をかくしつつ、気が遠くなるのを我慢している。
なにしろ、あれからまた締め上げられて、俺の──というかシルヴェーヌちゃんの──体はなんとかハムみたいになっている。ほら、あるじゃん? タコ糸でぐるぐるまきになってそこから肉がはみ出してる感じの美味しいハムが! あれ、俺大好き。……じゃなくって!
いやもう、今にも倒れそうよ? どうすんのこれ。
ほとんど息もできないんですが?
目の前にめちゃくちゃおいしそうな紅茶とケーキなんかが置かれているけど、もはやなんも食べられません!
ってか、紅茶のひと口すら飲めそうにないわ!
なんだこれ、どんな拷問?
……まあ、それはいい。
今はこの男のことだ。
目の前に座っているのは、言わずと知れたシルヴェーヌの婚約者、ヴィラ……じゃなくてヴァラン男爵家の息子、バジル。
どんな男かって?
あー。まあ、アレだわ。
見た目は正直、そんなに悪くはない。恐れていたほどのブサイクじゃないってだけだけどさ。
いっぱしの貴族らしく金のかかってそうなジャケットスーツを着て、身だしなみについてはまずまず及第点。ちょい派手すぎで成金っぽい感じはするけど。黒髪の癖っ毛に灰色の異様にちっこい目。
あ、でも「成金」ってのはあながち間違っちゃいない。
実はこいつの父親であるヴァラン男爵はもともとは平民の大商人なんだよな。で、数年前に大金を積んで爵位を買った。
公爵や侯爵の身分を買うのはまず無理だけど、男爵あたりならちょっと金さえ出せば意外と簡単に買えちゃったりする。一代かぎりなら格安。だけど、のちのち子どもにも継がせようと思ったらけっこうな大金を支払わなきゃならない。
だからヴァラン男爵は、公爵家みたいなしっかりした身分が欲しいわけだ。喉から手がでるほど。
だって、うまいことそこの令嬢と息子が結婚してくれれば、公爵家の後ろ盾を得られる。今はまだ、「金で爵位を買った『なんちゃって貴族』」って見下されているけど、息子が公爵家の娘婿ってことになったらみんなの態度は激変するはずだからね。
ま、気持ちはわかる。
──でも。
それとこれとは話がちがいますからねー。
だって俺、ひと目みてわかっちまったもん。
「……あ。コイツ、完全に後ろだて狙いだわー」って。
シルヴェーヌ本人のことは、これっぽっちも興味ないんだなーってさ。
「シルヴェーヌ様はいつ見ても花のようにお美しくていらっしゃいますね」
「それに、目下の者にもたいへんお優しいと聞いております」
「まさに僕が結婚相手として思い描いていた理想の女性です」……
エトセトラ、エトセトラ。
こんな感じで、そりゃ一応、歯が浮くみてえな褒め言葉は並べてるけど、こいつの目はちっともシルヴェーヌに恋なんてしてなかった。
あー、むかつくわー。
あんま人を舐めんなよ、こいつ。
……はあ。シルヴェーヌちゃん、どうなのよ。
ほんとにこんなやつでいいの? きみは。
エマちゃんによると、俺が中にはいっちゃうまでのシルヴェーヌはこの男に求婚されて、素直に喜んでいたらしい。それも、めちゃくちゃ。公爵家から見れば家格はずいぶん落ちるけど、それでも彼女に求婚する男なんてこれまで皆無だったからだ。
シルヴェーヌちゃんは、当然、恋愛慣れしていない。男に言い寄られたのもこれが初めて。だから、こんな見え透いたアホらしい褒め殺し作戦にも簡単に落ちちまった。
心配していたのはエマちゃんだけで、「このままでは嫁き遅れる」と心配していた両親は「家格のことなんて心配するな。求められるならぜいたく言わずに、さっさと結婚するがよろしい」みたいなご意見だそうだ。家族全員一致で。
安直! そんなんでいいのか、お父さまとお母さまー!
俺は溜め息が出そうになった。
シルヴェーヌちゃん、かわいそう……。
その表情を隠すために、紅茶をそっと飲むふりをする。
いや一口も飲めませんけどね! うえっぷ。
「それで、シルヴェーヌ様。色々と準備もございますし、そろそろ婚約式の日取りを決めませんと……」
お。遂に本日の本題がきたらしい。
ってかあんた、この話をするために来たんだろーがよ。前置きの嘘まるだしの褒め殺しとかいらねーわ。
でもエマちゃんによると、シルヴェーヌちゃんはこの男の褒め言葉をちょっと聞くだけで真っ赤になって、それはもう嬉しそうに、ずっともじもじ、もじもじしていたらしい。
……可愛いなあ、シルヴェーヌちゃん。
でもさ。
(そんな、自分を安売りしちゃダメだっつーの)
女の幸せは結婚だなんてカビがはえたみてえな価値観を持ちだす気はねえが、それでも結婚生活って大事……って姉貴が言ってた。受け売りですまん。だって俺は彼女いない歴イコール年齢の童貞ですからね、どうせ。
そりゃまあなあ。日常生活を一緒にする相手ととことん気が合わないってつらすぎるだろうしな。
ましてや相手がいわゆる財産目当てで、まったく愛のない結婚をしたがってるなんて、最悪じゃん?
「……あの。バジル様」
俺はカップを皿にもどすと、すうっと目を細めて目の前の男をにらみすえた。
はい、と目を上げる婚約者(仮)。
「この婚約のことなんですけど」
「はい」
「白紙にしてもらっちゃダメ? ……ざ、ざますか」
「……………………」
バジル氏、たっぷり五秒ぐらい俺の顔を見つめた。
穴のあくほど。
「……はい?」