9 またもや皇子と喧嘩です
「……シルヴェーヌ。シルヴェーヌっ……!」
遠くで俺を呼ぶ声がする。
いや、正確にはシルヴェーヌちゃんを呼ぶ声だけど。
でもその声の主が呼んでいるのは、たぶん「田中健人」であるところの俺自身だろうということはわかっていた。なぜなら。
「ケントっ! 目を覚ましてくれ。ケント……」
途中からその声は、確かに俺の名を呼んでいたから。
瞼が重い。まるで接着剤でくっつけられてるみたいだ。目を開くだけでもひと苦労。腕なんてぴくりとも動かせない。指がちょびっと動くぐらい。
そこではじめて、誰かが俺の手を握っているのに気がついた。
にっちゃあってくっついている頑固な瞼をどうにかこうにかこじ開けたら、二人の男が心配そうに俺の顔を覗きこんでいるのが見えた。
「……う、じ。……にい」
そうだ。
それはもちろん、クリストフ殿下とベル兄だった。
あれからすぐ、ほかの魔導士の《跳躍》の魔法でこっちにすっとんで来たんだろう。
だけど皇子。あれほど「来んな」っつったのによ。
しょうがねえ人だ、まったく。
ベル兄が俺の背中に腕を回してゆっくりと上体を起こしてくれ、皇子が水差しを口にあてがってくれる。
「まずは飲むんだ。そなた、何日も眠りっぱなしだったのだぞ」
「へ……? な、何日も……?」
うう、声がガラッガラだ。
そうか。また俺は皇后陛下のときみたいにぶっ倒れていたってことらしい。今回は魔力の制御はできてたし、なんとか暴走には至らなかったはずだけど、魔力を制限して太刀打ちできるような相手じゃなかったからな。もうMAX、全力で挑むしかなかったもん。でなきゃきっと負けていた。
俺はとりあえず、しばらくごきゅごきゅ喉を鳴らして水を飲んだ。
冷たい水が喉をすべりおちていく。
はふう、うんめえ。水ってこんなうまかったっけ?
それから、だいぶ元に戻っている自分の魔力を自分に使って、錆びついた全身の筋肉にも喝をいれた。
重かった体が急速に軽くなっていく。
それでようやく人心地がついて、あれこれ質問できるようになった。
「あの……。聖騎士殿は?」
「ああ。そっちは問題ない。もうピンピンしておられるぞ」
答えたのはベル兄。
「マジか! よかったあ」
「『なんとか礼が言いたい』と、しばらくはそなたが目覚めるのを待っておられたんだが。すぐにまた北壁の守りにつかなくてはならなくてな。あっちが少し落ち着いたら、また見舞いに来てくださるとおっしゃっていた」
こっちのセリフは皇子だ。
「そっか……。ああ、よかったわ……」
「ああ。そなたに心から感謝しておられたぞ」
皇子はひどく安心したような、めちゃくちゃ優しい目で俺を見ている。
……なんか、ちょっとこっ恥ずかしい。
やめろよー。そんな目で見んなよー。ベル兄もいるのによー。
と思ったら、ベル兄がなんとなくそわそわしだした。
「あ、ええっと。……俺、宗主様たちを呼んでくるなっ」
言うなり立ち上がり、ぴゅんっと部屋から出ていく。なんか脱兎のように。
止める暇もあらばこそ、ってヤツだ。
(な……なんだ?)
取り残されてきょとんとしていたら、皇子がまたじっと見つめてきた。
なんだよ、その意味深な目はよ。
それから、両手で俺の手をにぎりしめるのをヤメロ。
「最近、なにかと気が利くな。お前の兄は」
「厳密には俺の兄じゃないッスけどねー。……って、気が利くって、なにがよ?」
「え?」と言わんばかりに皇子が俺を見返した。
今度は意外そうな目だな。なんかイヤーな予感がするぞ。
「……普通、気を利かせてふたりきりにしてやるものだろう? 恋人同士が、こうして久しぶりに会えたとなれば」
「はあ、そっすね……っておい! だれが恋人同士だコラア!」
アホかーい!
いつだれがそんなことを了承した? 確かにあんたにプロポーズはされたがよ。
別に俺、そんなもん受けちゃいねえじゃん!
ってか、ベル兄もすっかりそのつもりってか?
外堀からどんどん埋めちゃいましょうってか? 勘弁しろよ!
「冗談じゃねえぞ。あんた一体、何を勝手に吹聴してんだ。ベル兄まで巻き込むのはやめろっつーの!」
「いや、何も吹聴などしていないが。ベルトランにも、特に何も言っていないぞ。あいつがそのように勝手に解釈したまでで」
「そう仕向けてんのはあんただろうがよ!」
「……まあ、そうとも言う」
そんで、やっぱりにこにこ笑う。
ったく、思った通りだな。
ってか開き直んなよこの皇子は!
「あんたさあ。俺、言ったよな?『来んな』ってよ。皇后陛下に心配かけんなってよ。なんでホイホイ来ちゃってんのよ、北壁なんかによー」
「……それは心外だな。これでも私も第一騎士団の騎士なんだぞ。第一騎士団は、このたび正式にこちらへの配属を命じられたのだし」
「それは知ってるって。でも──」
「仲間の騎士たちが死地に向かおうというときに、私だけが『皇子だから』と尻尾を巻いて逃げろというのか? 騎士たちにも家族はいるのだぞ。だというのに、私だけがぬくぬくと帝都で兵らに守られて震えていろと?」
「……う。そ、そうは言ってねえじゃんっ」
皇子の声がだんだん怒りを含んできたのに気づいて、俺はちょっとだけびびった。
「いや。そう言っているのに等しいぞ」
「ってかさ。あんた、そもそもなんで騎士団にいんの?」
そうだ。そもそもそこからして変じゃん。
「皇族がこんな危険なこと、わざわざしなくていいじゃん。ってか、しちゃダメじゃん。皇后陛下が、あんなあぶねえ中でも必死で生んでくださったのによ。側妃の連中がアレコレしてきても、どうにかこうにかここまで生き延びてきたんだろ? せっかく助かったその命、わざわざ危険にさらすのがおかしいんだろーがよ」
「なぜ、私が騎士団にいるのか……か」
うーん。微妙に論点をズラしたな。
ま、いっけど。
「その点については、そなたにもそろそろ説明しようと思っていた。……だが、どうやら後ほどになりそうだな」
皇子がちらりと扉に目をやって苦笑したところで話は終わった。
なぜなら、ベル兄がグウェナエル宗主と配下の魔導士たち、それに医者らしい人たちを連れてどやどやと戻ってきたからだ。





