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1.

 

 バスのステップから地面に降りたつと、夜気にはもう夏の気配がまじり始めていた。

 夕方まで降り続いていた雨の名残りで、アスファルトの路面は濡れて滑りやすくなっている。空気制動のドアが音を立てて閉まり、気怠げなクラクションを鳴らして乗り合いバスは遠ざかっていく。

 近所にコンビニもないような静かな郊外のバス停では、こんな夜更けに降車する客は僕くらいのものだった。街灯がまばらに照らしている濡れた路面を歩きながら、僕はポケットから取り出したうす青い色の紙切れを、恨めしい思いで睨みつけた。

 学習塾で受けた模試の判定シートには、僕が志望する高校への進学は、軒並み絶望的なのだと記されていた。名前だけ書いて後はいい加減に記号を書き入れていっただけの模試だから、妥当といえば妥当な判定なわけだけど。

 眉をしかめて息を吐くと、僕は判定シートをぐしゃぐしゃに握り潰して、近くの植え込みに投げ入れた。大人たちは夢を持て、目標を見つけろとしきりに言うけれど、僕にはそんなもの見つけられそうになかった。ただ淡々と作業をこなすように生きていくことの、どこが悪いのか僕にはわからなかった。

 もやもやとした思いは掴みどころがなくて、どうやって治めていいのか、いつもわからなくなる。落ち着かない気持ちを持て余しながら、僕は夜道を歩いていく。

 いつもの日常で、いつもの通学路のはずだった。

 それが違うと気づいたのは、前方の暗がりに佇んでいる、小さな人影を見つけたときだ。

「……安藤 ヒロトさんですか?」

 人影は、そう言った。

 安藤 ヒロトというのは、僕の名前に間違いなかった。

「……そうだけど、誰?」

 思わず、僕はそう問い返していた。

 街灯の白い光の下、僕のほうを見据えて佇んでいるのは、十歳くらいの外国の女の子だった。

 上下の黒いスーツを着ていて、金色に波打つ髪と、淡い緑の瞳をもった女の子。体つきが華奢なせいで、ずいぶん幼い印象を受ける。女の子はひどく痩せていて、そして嘘みたいに美しかった。

「……あなたを殺します」

 発音の乱れがない端正な日本語で、女の子は言った。感情のいっさい含まれていない、唇からこぼれた端から凍ってしまいそうな声だった。

「……な、なんでっ?」

 間抜けにも、僕はそんな風に問い返してしまう。だって、どうして僕が殺されないといけないんだろう? 女の子は答えず、無言のまま、地面すれすれを滑空するツバメみたいな速度で疾走してきて、僕の目の前でほっそりとした右手を振るった。

 街灯の明かりで一瞬、鋭く白刃がきらめいた。

「――っ! うわああぁぁぁあっ」

 首筋を風が掠めた。いや、風なんかじゃない。硬くて冷たい何か。――ナイフだっ! それが今、女の子の右手にあり、僕の首筋を掠めて――すぐ目の前の空間を凪いだ。とっさに身を反らし、僕はナイフの刃先から顔を守った。

「……なかなか、やりますね」

 女の子が言った。

 いやいや、それほどでもないよ。――じゃなくてっ!

「なんで僕が殺されなくちゃいけないんだよっ!」

 渾身の思いで僕は叫んだ。だって、理不尽にも限度がある。記憶をたぐるまでもなく、僕には殺されるような心当たりはないのだった。というか、この女の子、ほんとうに僕を殺せると思っているのだろうか?

「……問答無用です」

 そう囁くや否や、女の子は瞬時に僕との間合いを詰め――その距離およそ三メートル――身をかわす隙すら与えぬ速度でナイフを振りかざし、僕の心臓へと、深々と白刃を突き入れた。

 痛い、なんて感じるひまもなかった。胸のあたりに鋭い衝撃があり、ただ身体を切り裂かれる熱さがあった。僕の心臓にナイフを刺しても尚、その女の子は相変わらず、ひとかけらの感情も読み取れないような無表情をたもっていた。

 そうして落ち着き払った動作で、僕の胸に突き立ったナイフをぐるんと一回転させ、念入りに心臓をえぐった。

 なるほど。こうすれば死に至らせる確率を、ぐっと向上させられるわけか。

 どうでもいい感心をしてしまう僕の顔をちらりとも見ず、女の子はナイフを引き抜くと、すでに地べたにへたり込んでしまっている僕のシャツで、ナイフに付着した血液を拭った。惚れ惚れするくらい鮮やかな手並みだった。

 お前は何者なんだ、と訊こうとしたけれど、ノドから淀みなく血が噴き出てくるので、声を出すことができなかった。

 女の子は、口内から血を吐き出し続ける僕のほうを一瞥した後、懐から携帯電話を取り出すと、だれかと通話をしはじめた。

「……はい。今、標的を仕留めました。……わかりました。これからそちらへ帰還します」

 ぼそぼそと会話をする声が、女の子の背中越しに聞こえてくる。……標的? 今、標的って言ったのか? それって僕のことなんだろうか。確かめてみたい気持ちで一杯になる。通話を終えた女の子は、携帯電話をしまい、周囲の状況を確認しはじめる。たぶん身元を割りだされるような証拠を残していないかどうかを、チェックするためなんだろう。

 これだけ堂々と襲撃してきた割りには、慎重なところがあるらしかった。だったら、もっと目立たない殺し方を選べばよかったのに。僕はそう思う。

 と、僕の状況を調べにきた彼女と眼が合った。あらゆる場所を血でべったりと濡らしている僕を見ても、女の子は眉ひとつ動かさない。完璧な無表情。つまらない作業を繰り返しているときみたいな素振りで、僕の状態を検める。街灯に照らされ、細やかな金色の髪を揺らせている様子は、精緻につくられた人形のように見える。

「なんで、僕を殺そうとしたわけ?」

 女の子がすぐ側まで近付いてくるのを見計らって、僕は当然の疑問をぶつけてみた。ノドから溢れでていた血液は、もう大分前に止まっていた。

 女の子は、さすがに今度はびっくりしていた。

「……どうして、死んでいないんですか?」

 そう呟いて、きょとんとした顔付きになり、緑色の澄んだ瞳をぱちくりさせる。ずっと無表情な女の子がそういう顔を見せたので、僕はちょっとだけ嬉しくなる。

「死にそうだよ。すっげー痛い」

「普通の人なら、とっくに死んでいます。そういう処置をしましたから」

「処置ね。なかなか冴えた言い方をするね」

「……質問に答えてください」

 口唇をきっと引き結び、険しい目付きをする女の子に向かって、僕は苦笑してみせる。

「あのね――。僕は、不死人なんだ」


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