ヴァレリーを夢見た日
ポール・ヴァレリーは水泳が好きだったらしい。彼にとって、論理と行動が合致するものがお気に入りだったという事は私にも想像できる。ヴァレリーには「ドガ・ダンス・デッサン」という本もある。「ダンス」もまた水泳と同じく、彼の論理と知性を合致させてくれるものだったのだろう。
人間というのはどれほど孤独であろうとしても、そうはなれないものだ。ヴァレリーは長い間、沈黙した。彼はその間、非常に長いノートをしたためていた。ノート…私の手にはどんなノートが残されているのだろうか。
世界に対して公開する事が「無意味」なノート。そんなものを私達はみんな、背中にどっさりと背負っている。そうだ、誰しもそんなノートを沢山持っている。それは間違いない。
そんなノートを誰もが持っているとしても、それが、基本的に無意味だという事を自覚していない者が書くノートには、ほとんど何の意味もない事を私は知っている。私は「あなた」が書き記す情念にも思索にも全く興味がない。「あなた」は社会の中の一事物として存在しているだろう。「息子」「会社員」「女」「左翼」…などといったレッテルの中、あなたはレッテルと自己を一致させて生きているだろう。社会にとっては、貼られたレッテルと中身を一致させる事が求められている。人間も、またそうだ。
あなたが今、二十代の女だとして、いかにも二十代の女が考える事を、「これが私だ」と考えて記す。そこに、意味はない。何故なら、二十代の女なら、みんな「あなた」が考えているような事を考え、「あなた」が感じているような事を感じているからだ。誰しも沈黙の内に生きている。そんな事を垂れ流すならば、黙って生きている方がいい。
しかし、今の芸術もどきの中には、そんな作品が溢れている。作者の主観から一歩も出ていない主観の垂れ流し。主観の共鳴による党派性。自分自身を越える事を知らず、自分の中に閉じこもる事によって、閉じこもった他人とつながる文学、言葉達。それもまた一つの共同性である事を、私は否定しない。しかし、共同性というものには、我々の可能性を開示させるものもあるはずだ。私はそれを思う。
ヴァレリーにとって言葉はある種の遊戯だった。彼はジネディーヌ・ジダンのように優雅に舞う。ジネディーヌ・ジダンがボールをコントロールする時に、彼にとっての功利性そのものが、彼にとっての優雅さであったように、ヴァレリーにとっての合理性は彼にとっての遊戯であった。私は、そこに美と利の美しい融合を見たい。
私は自分の孤独を思う。気づけば、手のひらが赤くなっている。私は手を眺める。
ヴァレリーには内面に映る美しい海があった。地中海があった。ヴァレリーは確かに孤独だった。社会の混乱の中、本質的な詩人が、孤独であるのはやむを得ない欲求だ。私は自分の中に詩を感じた。しかし、私には山も海もなかった。何もなかった。そんな時に、何を語ればよかったのか?
私に語る事はなかった。私はただ、ノートを真っ黒にしただけだった。
人はヴァレリーに問うかもしれない。そのノートにどんな意味があるのか?と。だが、舞踊そのものにどんな意味があるのか? 私達は踊るのだ。ただ、意味もわからず、踊るのだ。ダンス、ダンス、ダンス。人々によって放たれた功利概念の中、私達は美しく踊ろう。雨の中、論理と情念を一致させて、華麗に踊ろうではないか。ジネディーヌ・ジダンのように、自らを美しくコントロールしようではないか。肉体の運動、重力という重荷の中、美しいボール・コントロールによって自己を十全に表現しようではないか?
私はそんな事を思う。…とにかく、思ったのだ。
……という事が、秋の夜更けに、頭をかすめていった。気がつけば……私は単なる独身の無職にすぎなかった。酔っていたらしい。私は、吐くために洗面所に向かった。