Side1 日常は唐突に終わった ★
本編とは時系列の異なるサイドストーリーです。
今回は吉田京の視点。
1月11日(金) センター試験会場からの帰り道
少し先の丁字路の信号が赤になったので、スロットルを戻してブレーキの準備をする。
明日は大学入試センター試験だ。あたしは試験会場までの道順を確かめるため、前日の今日、地図を見ながら会場までバイクで行ってきた。今はその帰り。
第一志望はもちろん由美と同じ大学、学部だ。……正直、進学なんて言っても、自分が本当にしたいことが何なのか、まだ全然見えていない。だったら、今までいろんな意味であたしを助けてくれた由美と同じ道を歩んでみたい、そんな軽い気持ちで第一志望は選んだ。まあ、あたしの成績で医学部なんて受かるかどうか分かんないけどね。第一志望C判定だったし。
歩道に1人の中年男性が居た。ただ立ち尽くしていてどっちへ歩いていく訳でもないし、なんか怪し──!?
男性はいきなりこっちを向いて、手に持っていた何かを放り投げた。
「危な──」
投げられた《何か》をかわそうとして、あたしはバイクごと転倒した。エンジンブレーキでいくらか速度は落ちていたとはいえ、まだ30km/hは出ていただろう。あたしの体はバイクから投げ出され、先の丁字路へどんどん近づいていく。
最新の衝撃吸収機能付きライダースーツのおかげで、舗装路との摩擦によるダメージは殆ど無い。路上を滑る勢いも急激に弱くなってきてるから、丁字路の反対側のガードレールにぶつかる心配は無さそ──
ぶちゅ! ごきっ! ごしゃっ!
「……………ごぼっ」
息ができない。お腹から下の感覚も無い。口から出てくるのは、赤黒い泡だけ。……何が起きた?
目の前に広がるのは、ひたすらに青い空。どうやら、あたしの体は路上で仰向けになっているらしい。頭を動かせる範囲で、周囲を見渡してみる。
仰向けのあたしから少し離れた所に、あたしがさっきまで乗っていた、ひしゃげたバイクが転がっていた。その向こうには、タイヤから赤黒い跡を引きながら走り去るトラック。
……ああ、あたしは轢かれたのか。
なんでこんなことになったんだろう。由美はあんなことに巻き込まれても無事に帰ってきたっていうのに。あたしといえば、こんな一瞬で。
死ぬ、んだよね、これ。死んじゃったら、もう由美に会えなくなるんだよね。そういえば、由美と初めて会ったのって、いつだったかな。
視界が霞んできた。……やだ。死にたくないよ。お母さん。お父さん。……由……………
●
何も見えない。何も聞こえない。
あれ? あたし、死んじゃったんだよね。だったら、この「何も見えない。何も聞こえない」って感じてる、《これ》は何? 死んじゃっても、意識だけは残るとか? だったら、これからはずっとこんななの?
やだ。そんなの耐えられないよ。
由美……助けて。由美ーっ!
「ほぎゃーっ!」
あ、声が出た。っていうか、これ赤ちゃんの産声じゃない?
『******、*****!』
あたしのそばで誰か、大人の女性みたいな声が聞こえてくる。日本語じゃない。と、そんなことを思う間も無く、自分の体が誰かに抱きかかえられたのか、ふわっと浮く感覚があった。
こうしている間にも、次々と周囲から大人の声が聞こえてくる。相変わらず日本語じゃないから意味は全然分からないけど、口調などから喜びの感情が伝わってくる。
ん? 自分の体が触られているのが分かる? 声も聞こえる? 触覚も聴覚も生きてるってことは、たぶん視覚も生きてるはずだよね。
あたしは、恐る恐る目を開けてみた。
見たことの無い部屋。どことなく中世的、いや、ファンタジー漫画的な雰囲気がある。あたしを抱いているのは……ん? どこかに下ろされた?
あたしの体の下には、暖かい、肌の温もりがあった。あ、これもしかして、いつだったか由美に教えてもらったエンゼル、違う違う殺すな、カンガルーケアとかいうやつかも。ということは、あたしは今、今の母親の胸に抱かれている、ってことか。
……今の母親? なんでそんなことが分かるんだろう。たしか、生まれたばかりの赤ちゃんは、自分の母親が本能的に分かるらしいけど。
うん、疑う余地は無くなったね。たぶん、あたしはあの丁字路でトラックに轢かれた時に死んで、《ここ》で転生した。部屋の内装とかを見たところ、ここは地球の中世ヨーロッパのようにも見えるけど、それにしては、室内に居る看護師や助産師などと思われる女性たちの髪や目の色などがあまりにもカラフルすぎる。まさか、ここは本当にファンタジー世界とか?
うわー、由美と一緒に巻き込まれた異世界転移にも驚いたけど、加えて異世界転生まで経験するなんて、あたしの人生波瀾万丈だね。もしまた由美に会えるんだったら教えてあげたい。
……と、その時、近くに居たであろう1人の男性が、あたしを覗き込んできた。その顔にはどことなく見覚えが、いや、面影があった。たぶん、由美を男にしてもうちょっと厳つくしたらこんな感じになるんじゃないかな。……って、今まであたし、殆ど由美のことしか考えてないよね。どんだけ由美のこと好きだったんだって話だよ。
『****、*******』
男体化由美、じゃない、おそらく今のあたしの父親と思われる目の前の男性が、何かを言う。
『******、イリス。イリス・アルフィネート』
お、これはもしかして命名というやつですか? こっちでのあたしの名前はイリス・アルフィネート、と。……ん? アルフィネートって、たしか由美のお母さんの旧姓じゃなかったっけ?
まあいいや。
とりあえず、あたしは転生した自分がTSしていないことに一安心した。
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こっちの言葉を覚えるのに、それほど苦労はしなかった。赤ちゃんの体ゆえの吸収力というべきか、吉田京だった時の知識や経験があったおかげか、あたしはこっちで転生してから3年も経つ頃には、ひととおりの会話ができるようになっていた。
そして、言葉が分かるようになって、1つ驚いたことがあった。
イリスとしてのあたしの家族は、父クラウス、母レフィア、そして、2つ上の兄カイン。
そう、カイン・アルフィネート。前世で、由美と一緒に異世界ゼルク・メリスに飛ばされた時に出会った青年と同じ名前、そして同じ髪の色、濃い緑だ。まあ、地球でも同姓同名の人なんてどこにでも居ただろうし、こっちのカインにしても偶然の一致だろうけどね。
そして、あたしの髪の色は、由美と同じか、もうちょっと明るめの赤みがかった黒。この世界では兄弟姉妹で髪や目の色が異なるのは珍しくないようで、カインは母親似、あたしは父親似だ。
……けど、そんなことよりも、あたしは今の自分の髪の色が由美に似ているということのほうが嬉しかった。そういえばどことなく顔立ちも……って、もはや病気だね、これ。
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イリスとして転生してから6年が経った。自分の前世が吉田京という日本人だったことや日本語を忘れた訳ではないが、もうあたしの中で自分はイリス・アルフィネートだという自覚ができていた。
「ただいまー。お兄ちゃんはどこ?」
日本でいうところの幼稚園と小学校が合わさったような保育・学習施設《基礎学校》から帰ってくるなり、あたしは通学鞄を放り出し、お母さんに聞いた。
「こら、イリス。まずは鞄をお部屋に置いてらっしゃい」
「やーだ。お兄ちゃんどこー?」
「あ、こら……もう」
呆れ声のお母さんの言うことを聞かず、あたしは駆けだしていた。
うん、前世の記憶があるというのに、なんだか精神年齢が体相応になってきてるね、これ。
お兄ちゃん、カインはまだ基礎学校から帰ってきていないと知り、落胆しながら鞄を片付けたのは、このすぐ後のことだった。
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12歳になった。身長もお父さんに似てどんどん伸びてきて……って、それはいい。最近、あたしの中で1つの違和感がゆっくりと、しかし確実に大きくなってきている。
今、あたしは幸せだ。たまに町の近辺に魔物が出没することはあるけど、警備隊の人たちやお父さんが退治してくれているおかげで被害は殆ど無い。あたしも、基礎学校の授業やお父さん、お母さんに教わったりして、そこそこ魔法が使えるようになってきたし、素手での格闘、剣などでもそれなりに戦えると思う。でも、違和感はそこじゃない。
似ているのだ。お父さんが教えてくれる格闘術が、前世で親友だった由美の戦い方に。しかも、その身のこなしは、素人のあたしが見ても由美よりはるかにキレが良い。
由美が戦っているところを、あたしは、というか、前世の吉田京は、そんなに数多く見ていた訳じゃない。せいぜい、学校からの帰り道に不良に絡まれた時か、それ以降となると、高2の時にゼルク・メリスへ飛ばされた時ぐらいしかない。ああ、そういえば今あたしが生きているこの世界もゼルク・メリスって名前だっけ。
お父さんと由美にどういう関係があるのかは分からないけど、もし、何らかの繋りがあって、由美の戦い方はお父さんから伝わったものだとしたら?
あたしの中で大きくなってきている違和感。それは、あたしは吉田京が死んだ時よりも過去に転生したんじゃないか、ということだ。今生のあたしの兄カインは、前世で吉田京が出会ったカインと同一人物なんじゃないか、と。
そして、その違和感は真実だとあたしに告げるかのように、お兄ちゃんは成長するにつれ、だんだんと《吉田京が出会ったカイン》に似てきていた。
「あー、イリスったらまた遠くに行ってる。おーい、帰ってこーい」
「っ!? な、何……?」
と、また思考の彼方へ飛んで行っていたあたしの意識は、基礎学校で知り合った今の親友フィークス・キゥメイアに呼び戻されて帰ってきた。
彼女の姓《キゥメイア》の《キゥ》は、日本語には無い発音だ。《キュ》ではない。子音のkに続けて、イの口をしながらユと発音する、と言えばいいか。
ゼルク・メリスでも割と難しい発音らしいんだけど、あたしとしては日本語の知識が変に邪魔するせいか、未だに《キュ》になってしまう。……そういえば、由美ってこれも完璧に発音してなかったっけか?
「何? じゃないよ、イリス。今日はイリスのお父さんに格闘術を教えてもらう約束だったでしょ? 早くイリスの家に行こうよ」
……ああ、そうだった。もう基礎学校の授業が終わって、これから帰り支度をするところだったっけ。
もし、あたしの違和感が真実だったとしたら、あたしは、今生で前世の自分と……吉田京と出会う。前世でイリスと出会った記憶が、ある。
●
イリス・アルフィネート、14歳。今日はお父さんにとんでもない発表をされてしまいました。
お兄ちゃんと2人、あたしはお父さんの部屋に呼び出された。
「それで、話っていうのは何なの?」
お兄ちゃんが言う。前世の記憶にもカインの顔はあるけど、妹のあたしから見ても可愛いってどうなの? 身長的にあたしと服が着回せるって……っと、それより今はお父さんの話を聞かないと。
「ああ。……俺の妹、つまり、おまえたちの叔母についてだ」
お父さんはゆっくりと話し始めた。日本語との違いはここにもある。親が、我が子に対して自分のことを指す時に、子の視点からの呼び方をしない。まあ、そのくせ下から上の者を呼ぶ時の呼び方は日本語と同じくらい多いんだけど。お兄ちゃん、兄さん、兄貴等々。……いけない、また思考が脱線した。
お父さんは続ける。
「妹の名はユマ・アルフィネート。俺が──」
「えっ!?」
思わず、声が出てしまっていた。
「どうしたんだ? イリス」
「……あ、ご、ごめんなさい。後で言うから、今は話を続けて?」
「あ、ああ。分かった」
お父さんは話を続けた。まとめると、次のような内容だった。
お父さんが21だか22歳だったかの時。お父さんの両親とユマ叔母さんとの4人で、祖父母の、あたしたちにとっての曾祖父母の墓参りに行った時、突然、空に大きな《穴》が開いた。その《穴》に、ユマ叔母さんだけが吸い込まれてしまい、それ以来、叔母さんの行方は分からないまま。
あたしの中で大きくなってきていた違和感は、ほぼ確信に変わった。
話し終えたお父さんが、あたしの方を向く。
「それで、イリス。よかったら、さっきおまえが驚いた理由を教えてほしいんだが」
「う、うん」
いつかは言おうと思っていたことなのに、いざその時になると、妙に緊張する。
あたしは、1度深呼吸してから話し始めた。
「あたしが前世の記憶を持ってる、ってのは、前に話したよね?」
「ん? ……ああ、そういえばそんなことを言ってたな。地球という異世界の、日本という国で生きていた、と」
お父さんの返事を待って、あたしはお兄ちゃんに視線だけを向ける。
お兄ちゃんは無言で頷いた。
「その時のし……と、友達の竜之宮由美っていう子のお母さんが、叔母さんと同じユマ・アルフィネートっていう名前らしいの。あ、結婚してるから竜之宮由真なんだけど、旧姓がアルフィネート、ってことね」
なぜか《親友》と口にするのが妙に気恥ずかしく、友達と言い換えてしまった。フィークスのことは堂々と《親友》って言えるのに。
まあ、それは今はいいや。お父さんとお兄ちゃんは2人とも驚いているようだった。
「ま、待て、イリス。おまえの前世ということは、少なくとも今のおまえの年齢以上には昔ということだろう? だったら、ただ同姓同名なだけじゃないのか?」
「ただ名前が同じだけだったら、あたしもそう思ってたよ。でもね、あたし、前世の記憶では《空の穴》に吸い込まれて、ゼルク・メリスっていう異世界に行ったことがあるの。そこで20歳になるかどうか、っていうくらいのカイン・アルフィネートにも出会ったわ。その時のカインが喋ってたのは、今あたしたちが使ってる共通語だったよ」
お父さんたちは言葉を失っていた。自分で喋っていても怖いくらいだから、仕方がないのかもしれない。
「……なるほどな。つまりおまえは、前世の《吉田京》としての生を終えた後、未来ではなく過去に転生した、と」
あたしは無言で頷いた。そのまましばらく沈黙の時間が流れる。
その沈黙を破ったのは、あたしだった。
「──っ、ひっく。ぇぐぅぅぅぅ!」
不意に嗚咽が漏れる。
「ど、どうしたんだイリス! 大丈夫か?」
久々に由美の話をしたせいか、無性に会いたくなってしまった。
『会いたいよぉ! 由美ぃぃぃぃっ!』
抱き締めてくれるお父さんの胸の中で、あたしは、久しく口にしていなかった日本語で絶叫していた。
●
お父さんにユマ叔母さんのことを聞かされてから1年。お兄ちゃんが魔法剣士として旅立つ日がやってきた。あの日から、お兄ちゃんなりに考えていたようだ。本音は、あたしだけに話してくれた。
「《空の穴》の向こうへ行って、ユマ叔母さんを連れてくる」
あたしは反対しなかった。
あたしには吉田京の記憶があるからだ。由美と一緒に次元裂に巻き込まれて、それがきっかけで、由美が次元移動の能力を身に着けたという記憶が。
あたしはお母さんを説得して、「世界を見て回るのも勉強になる」とかなんとか言ってお父さんを説得してほしい、と頼んだ。あたしがお父さんに直接言わなかったのは、まあ、理由が理由だしね。
そして、今。出立の日の前夜。あたしは、お兄ちゃんをあたしの部屋に呼び出した。
「どうしたんだい? イリス」
「うん。……あの、ね。もし、旅先で日本語を……異世界の言葉を耳にしたら、そして、その言葉を発したのが竜之宮由美っていう女の子だったら、信じても大丈夫だから。だから……」
「その名前は、たしかイリスの……!」
「うん。だから──」
「分かった。その由美って子をここに連れてくればいいんだね?」
妙に察しの良いお兄ちゃんに、あたしはちょっと驚いた。でも、1つお願いがある。
「そうなんだけど、あたしが直接会うまで、あたしのことは由美には伏せておいてほしいの」
「え……どうして?」
こういうところは察しが悪い。やっぱりいつものお兄ちゃんだ。
「だって、今の由美の隣には吉田京が居るんだよ? あたしの前世が……まだ生きてる時のあたしの前世が一緒に居るんだよ。そんな時にあたしが吉田京の生まれ変わりだなんて言ったら、由美を混乱させちゃうよ」
言ってて、つらくなってくる。今の由美は、あたしが会いたいと願ってる由美じゃないから。そもそも、あたしが《吉田京》から《イリス・アルフィネート》に転生した時点で、あたしの居場所は由美の隣じゃなくなってるからだ。
それでも、会ってみたいと思ってしまう。知りたいと思ってしまう。今の由美が、あたしを見てどんな反応をするのか。
そして、期待してしまう。今の吉田京が死んだ後、由美はまたあたしを見てくれるようになるんじゃないか、と。
今の由美を混乱させたくはない。それはもちろんあたしの本心だ。でも、今の吉田京の死を、由美の隣が空くのを、心のどこかで望んでいるのも、たぶんあたしの本心だ。……ははっ。吉田京から見れば、あたしはとんだ死神じゃないか。
ぎちっ……
「──っ! イリス、やめろ!」
お兄ちゃんがあたしの口に手を伸ばす。どうやら、あたしは知らず知らず、唇を噛んでいたようだ。それも、血が出るほどに。
「イリス、おまえが前世にどんな未練があるのか、僕は知らない。でも、今のおまえは間違い無く僕の妹なんだ。それを忘れないで」
両手であたしの頬を覆うようにして、鼻先が触れるくらいの距離で、お兄ちゃんは、そう言ってくれた。