16 一難去ってまた一難
6月26日(日) 夕暮れ前 ザールハイン近くの街道
『お疲れ様、イリス』
ザールハインの入り口から少し離れた所に着地して、わたしは背中のイリスに労いの声を掛けた。
伯父さんと別れてから約1時間半。想定より早く、わたしたちはここへ着くことができた。これは、体の周囲に風を纏うというイリスの魔法《風結界》のおかげで、高速飛行による空気抵抗をほぼ無視できたことが大きい。まあ、飛行中ずっと《風結界》を使いっぱなしだったイリスは、魔力の使いすぎで自力で立つことが困難なほどにへばってしまっていたが。
……しかし、それを言うならわたしも同じ、というか、むしろ《加速》のほうが消費魔力が多いはずなのに、全然疲れた気がしない。それどころか、今こうしてイリスを背負って普通に歩けてさえいる。
『ほんとに疲れたー……由美は大丈夫なの?』
『ええ。自分でも不思議なほどに、ね。……しばらく眠ったら?』
『うん、そうするー……』
その後すぐに、背中越しに静かな寝息が聞こえてきた。
……イリスの体重を感じながら街道をザールハインへ向かって歩く途中、ふと、わたしの中に《ある感情》が浮かんできた。それはイリスへの、いや、京への申し訳なさ。
あの時、学校の屋上で告白めいた言葉を掛けられた時、わたしは初めて京の気持ちに気づかされた。それから今まで、そしてたぶん、これから京が死ぬまでにも、わたしがその気持ちに応えることは無いだろう。親友としてじゃれあうことはあっても、いわゆる一般的な恋人たちがするような……例えば今のように、愛する者の背中で安心して眠らせてやることは、無い。
それを今、状況は違うとはいえ、京、その魂を引き継ぐイリスに、わたしはしてやっている。彼女は、イリスとしてではなく京として、それをしてほしかったはずなのに。
だが、それをすることは、わたしにとっては純への裏切りを意味する。
純以外の男にそういう気を見せる訳じゃないから、京やイリスは女だから、問題無い?
そんな訳は無い。男だけではなく、たとえ同性であっても、わたしにとっては純以外にその気を見せるのは浮気だ。……でも、もし、純が一妻多夫(婦)を許してくれるのなら……いや、それを考えるのはやめておこう。
『あれ? あんた、その背負ってる子って……』
ザールハインの入り口までやってきたわたしたちに、町の衛兵と思われる人物が話しかけてくる。どうやらイリスのことを知っているようだが。
『いや、えっと……』
わたしは、うまい返し方がすぐには思いつかなかった。たぶん、イリスが伯父さんと一緒に3日前にこの町を出発したところを、この衛兵は見ているはずだ。直接見てはいないとしても、見張りの引き継ぎなどで情報は伝わっているだろう。そして、おそらく、ゼルク・メリスには熊車より速く、かつ長距離を移動できる手段は無い。イリスが今ここに居ることはあり得ないはずなのだ。
『……いや、他人のそら似だろうな。町には入ってもいいが、問題だけは起こさないでくれよ』
勝手に勘違いしてくれて助かった。イリスが起きていたらうまく説明してくれたのだろうが、このためだけに起こすのはかわいそうだ。衛兵にも申し訳ないが、今はその勘違いを利用させてもらおう。
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『あら、あなた。その背負っている子はもしかして……?』
濃い緑の髪をした、中年というにはまだ失礼かというくらいの女性。ついでだからイリスが目を覚ますまで町の様子を見て回ろうと歩いていたら、わたしはそんな小柄な女性に話しかけられた。わたしを疑うとか、そんな様子は無く、どこかふわふわというか、おっとりした話し方だ。
『あー、えーっと……』
衛兵に訊ねられた時と同じく、どう答えようかとわたしが迷っていたら。
『……あ。あなた、もしかして吉田京ちゃんのお友達?』
『──っ!?』
『ああ、いきなりごめんなさいね。わたしはイリスの母のレフィア・アルフィネートというの。よかったら家にいらっしゃい』
その女性はわたしの伯母さんだった。……なるほど。もし、イリスから前世の話などをある程度聞いていたのだとしたら、伯母さんがわたしのことを知っていても不思議ではない。
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『ん……あれ? ここは……?』
伯母さんに招かれてアルフィネート家の門をくぐったところで、背負っていたイリスが目を覚ました。
『由美……? まさかずっとあたしを背負っててくれたの?』
『ん、まあ……ね』
『ありがと。……ごめんね、重かったよね。あたし、前と違ってけっこう体格も良くなったし』
イリスはしっかりと自分の足で地面を踏みしめて、言う。……答え方に困る問いだ。
ええ、重かったわ。びったーん。
そんなことない、軽かったわよ。ううん、無理しなくていいよ。
どっちにしろ、そんなベタベタなラブコメは避けたい。
『ほらほら、そんな所で話し込んでないで、早く入んなさい』
わたしたちを手招きする伯母さんのおかげで、とりあえずラブコメは回避された。
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伯母さんには簡単な食事でもてなされつつ、わたしとイリスは今の状況を大まかに説明した。
『またイリスったら無茶して……』
『ご、ごめんなさい』
『由美ちゃんも大丈夫だった?』
イリスを叱りつつ、わたしの心配もしてくれる伯母さん。というか、《また》?
『え、ええ。わたしは大丈夫ですが……その、《また》とは?』
『あらあら、血縁なんだし、敬語なんて使わないでちょうだい。ああ、そうそう、《また》ね。実はね──』
……伯母さんは話し好きな奥様だった。イリスから聞いていた前世の話、イリスが基礎学校を卒業すると同時に冒険者として登録した話、その他様々なイリスの武勇伝などなど。
ここに居るのがイリスだけだからか、カインの話は殆ど出てこなかったが……もしカインも居たら、もっとカオスなことになっていたに違いない。……うん。話し好きで、かつ親馬鹿だ。お母さんといい酒が飲めるかもしれない。
『あ、あの……! わたしもそろそろ帰らなきゃいけないから』
『あら、そぅお? じゃ、またいつでもいらっしゃい。ここも自分の家だと思っていいからね』
『え、ええ。じゃあ、また』
わたしは、イリスを伯父さんの所へ連れていった後、自分の家へ転移した。
その後、京には結局異世界研究所のことは電話で伝えた。京には、そんな危険な企業が絡んでいるのなら、ポイントカード会員を退会するために店を訪れるのも危険ではないか、と言われ、店へは後日、お母さんと一緒に3人で行くことになった。
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6月27日(月) 16:05 レディクラムの宿酒場
わたしがビザイン共和国で国民登録をするために、役所へ行ける日をゴルテンさんに伝える。そのために、わたしは早速今日こっちへ来た。ゴルテンさんとはなんだかんだで都合が合わず、今日まで話ができなかったのだ。
ゴルテンさんが言うには、明日ならいいとのこと。それじゃあ、今日はもうこっちですることは無いから帰ろう、わたしがそう思った時。
唐突に彼女が現れた。
京と同じくらいか、もう少し背の低い、小柄な少女。カウンター席で話をしていたわたしとデイラムさんとゴルテンさんのそばに、その少女が突然転移で姿を現した。
一瞬遅れてわたしたちは身構える。
『まあまあ慌てなさんな、って。あたしゃ敵じゃないからさ』
軽い口調だが、ふざけている感じはしない。……これが敵だったら、今頃わたしたちは生きてはいなかっただろう。何者だ、この少女は。
少女は続ける。
『あたしはフォスティア・メーデンハイト。そこの背の高いお姉さんが倒した黒龍の、友達の友達、ってところかな』
『──っ!?』
わたしは息をのんだ。あの時、あの場所にはわたしと黒龍しか居なかったし、あの後レディクラムへ帰ってくるまでの間に見かけた人々の中にもこの少女は居なかったはずだ。
この少女は……フォスティアはなぜ、わたしが黒龍を倒したことを知っているのか。
『それで、お姉さん。よかったら名前を教えてほしいんだけど』
『……あ、た、竜之宮……由美、よ。竜之宮が姓、ね』
フォスティアがわたしと黒龍とのことを知っていることと、わたし以外に転移ができる人物が居たことへの驚きで、まともに喋ることすら難しい。それに、フォスティアは見た目にはかわいらしい少女で、顔つきもどこか幼さが残っているように見えるのに、その口から発せられる『お姉さん』からは、デイラムさんやゴルテンさんに呼ばれる時の『姉ちゃん』に似た響きを感じる。
『竜之宮由美、ね。いい名前じゃん。あたしの友達があんたに会いたがってるからさ、いつでもいいから会いにきてよ。あたしを目印に転移してきてくれればいいから』
『あなたの……友達?』
『そ。それが誰かは、来てみてのお楽しみ、ってことで。そんじゃ、よろしくね』
それだけ言うと、フォスティアは再び転移で姿を消した。……いや、あれがわたしの知っている、次元の狭間を経由した転移と同じものかは分からない、か。
静まりかえった店内。そこで、デイラムさんが最初に口を開いた。
『……で、どうするつもりだ? 由美。あいつは敵だとは思えねえが、だからってノコノコとついてくのもどうかと思うぞ、俺は』
たしかに、それは思う。だが、そうかといって、じゃあ事前にどんな準備ができるのかと言われれば、わたしは答えられない。黒龍の時と同じ、興味を持たれた時点で逃げ場が無くなっているような気さえしてくる。
『わたしもそう思うけど、だからって何か準備できるとも思えないし』
『そりゃあ、まあ……』
『そういう訳で、嫌なことはさっさと済ませるに限るわね。行ってくるわ』
わたしは、フォスティアを目印に転移した。