2 背中合わせの2つの世界
6月19日(日)
カインとの話がひととおり終わった後、スマホで時間を確認したらちょうど朝10時になったところだった。こちらの世界でも太陽は東から昇って西へ沈むのか、1日は24時間なのか、などは分からないが、ともかく、足下に伸びる影と日の高さは、わたしたちの世界とほぼ同じようではある。
「さて……」
スマホをポケットへ戻したところで、
『だいたい話も終わったし、そろそろここを動いたほうがいいね』
と、カインに言われた。こんな森の奥深い所では、野生の獣と出くわすおそれがある、ということだろうか。
『あ、もう少し待って。……えっと、あれ……あの……』
バイクを元の世界へ置いてきたい、と言おうとして、ふと気づいた。そういえば、バイクのことをゼルク・メリスでは何と言うのか、お母さんは教えてくれなかった。もしかしたら、こっちにはバイクが無いのだろうか。
『……? どうしたんだい?』
『あー……あの輪っかの付いた鉄の塊。あれ、自動2輪車っていうわたしたちの世界の地上を走る乗り物なんだけどさ、こんな森の中じゃたぶんまともに走れないから、一旦あっちの世界へ置いてこようと思ってるの』
『なるほどね、分かった。近くに僕たち以外の気配も無いし、まだしばらくは大丈夫そうだから、ここで待ってるよ』
ん? 《僕たち以外の気配》……? なんだか、気をつけるのは野生動物以外にもありそうな言い方がちょっと気になったけど。まあ、もし本当に危険が差し迫っているのなら、今までのお互いの自己紹介など、のんびりとこんな場所で話し込んでいるはずがないか。
『あ、それで1つお願いがあるんだけど……』
わたしは、そのことをカインと、後で京と久坂さんにも伝えた。それは、バイクを元の世界へ置きに行くのはまずわたし1人だけで行ってくる、ということと、その間、もし何かあった時にはカインが京と久坂さんを守ってほしい、ということ。
「え……なんで、由美?」
信じられない、というような表情で京が言う。久坂さんも似たような顔をしている。
「京や久坂さんをこっちへ置き去りにするつもりは無いわ。もし、そう勘違いさせてしまったのなら、ごめん。そういうことじゃなくて……たしかに、わたしの力で元の世界とを自由に行き来できるとは言ったけど、まだ実際に試してはいないからさ……もし失敗したら、あっちにも、こっちにも戻ってこれないかもしれないでしょ?」
わたしがそこまで言ったところで、京がはっとしたように口を開いた。
「こっちに残ってれば、少なくともあたしたちは巻き添えにならなくて済む、ってこと?」
「……!?」
京の言葉に反応するように、久坂さんの表情も変わる。
「ええ。その時は結果的に置き去りにしてしまう形になるんだけど。……まあ、たぶん大丈夫だと思うから、ちょっとだけ待っててよ」
わたしは、京や久坂さんが何かを言う前に2人に背を向けた。
●
自力で再び《ここ》──とりあえず、次元の狭間とでも呼ぶことにしよう──へ来る時には、最初に空の亀裂に巻き込まれた時とは違い、空に穴を開ける必要は無かった。なんというか、3次元の前後、左右、上下のどれとも異なる《第4軸の方向》へ向かって歩き出す、という感覚に近い。たぶん、京たちから見たら、わたしが空気中に溶け込んで消えたように見えたんじゃないかと思う。
そして、やはりこの次元の狭間にはゼルク・メリスとわたしたちの世界の2つと、もう1つ、何かの塊が存在しているようだった。
もしかしたら、ここにはほかにも何かがあるのかもしれない。ふとそんなことを思ったが、最初に空の亀裂に巻き込まれてここに来た時とは違い、見えない袋に詰め込まれたような拘束感は無い。まずは自分のバイクだけを普通に押して歩く感覚で持ってきたが、手を離せばこの不思議な場所に落としてしまいそうだった。
この場所を探検するのは、少々危険なようだ。
●
次元の狭間から元の世界へ出る……いや、入ると言うべきか、ともかくこちら側へ来る時は、こちら側のどの地点へ出るのかを、自分の意思で決めることができた。普通に歩くような感覚で移動できたので、わたしの知っている場所か、知っている人が居る地点を目標にするのが最も簡単だろう。
今回は聖桜公園に何人か人が居たので、見られるのを避けるために自宅の庭先を選んだ。……こっちの世界に入る瞬間にZ座標を少し間違えて、危うく尻餅をつきかけてしまったので、その意味でも見られなくて正解だった。うん。
と、ちょうどその時、玄関が開いて家の中からお母さんが出てきた。お母さんはわたしよりもう少し外国人っぽい顔立ちで、髪の色も赤みが強い。そして、わたしと同じく背が高い。たぶん、まだお母さんのほうが高いんじゃないかと思う。
「あら、由美、早かったわね」
「あ、えっと……」
今朝、友達と遊んでくると出かけた娘がもう帰ってくれば、不思議に思うのは当然だろう。今、その娘がそれどころではない事態に巻き込まれていることを話してもいいものか、わたしは一瞬悩んだ。しかし。
お母さんの故郷はゼルク・メリスかもしれない。そのことを、お母さんの口から直接は聞いていないが、今までのことを考えると、たぶん間違い無いだろう。だから、話してもいい気がした。
『うん、ちょっとね。不思議な空の穴に巻き込まれてゼルク・メリスに行ってきたの』
できるだけ自然に、ちょっとそこまで、のつもりで言ってみたが、明らかにお母さんの顔色が変わった。
一呼吸ほどの間があっただろうか。お母さんは急に両手でわたしの肩を掴み、
「大丈夫だった? お母さんのこと分かる? 何か、大変な目に遭ったりとかしなかった?」
と、ちょっと掴まれている肩が痛いぐらいの勢いで心配してくれた。……え?
「お母さんのこと分かるか、って、お母さんはお母さんでしょ? 竜之宮由真。で、結婚前の旧姓が……っ!?」
まるで記憶喪失か前後不覚に陥った人を心配するかのようなお母さんの言い方が疑問だったが、それよりもっと大事なことを思い出した。
お母さんの旧姓、結婚前の名前はユマ・アルフィネート。わたしが中学に上がったばかりの頃だったか、「お母さんは遠い外国の出身なのよ」と、旧姓を教えてくれたことがあったが。……まあ、日本でも同姓の人はたくさん居るし、まだカインとの関係を判断するのは早すぎるか。
「旧姓がどうしたの? ……でも、記憶は大丈夫みたいだから安心したわ。向こうで何があったのか、教えてくれる?」
わたしの肩を掴んでいた手を下ろしながら、安堵の声を出すお母さん。わたしもお母さんに聞きたいことがいくつかあったが、それよりも今は京と久坂さんを迎えにいってあげないといけない。
「ごめん、お母さん。今は向こうで京ともう1人待ってもらってるから、話は後でいいかな」
「向こうで待ってもらってるって……?」
「一緒に空の亀裂に巻き込まれたの。わたしの力でこっちとを行き来できることが分かったから、迎えに行ってあげないと」
お母さんは、わたしが生まれつき魔法が使えることを知っている。それでも、お母さんは少しの間沈黙し、何かを考えているようだった。たぶん、空の亀裂などある程度のことは知っているのだろう。その上で、わたしが……自分の娘がそこへ行くと言いだして、心配じゃない訳がない。だけど。
「分かったわ。それじゃあ、詳しいことは後で教えてね。気をつけて行ってらっしゃい」
「ありがとう。……行ってきます」
行ってらっしゃい。いつもどおりのその言葉が嬉しく、ありがたかった。
●
次元の狭間を通って再びゼルク・メリスへ。今度は座標の微調整に失敗することも無く、きちんと歩いてこっちの次元へ入ることができた。地面に生えている草を踏む足音でわたしに気づいたらしい京がこちらへ振り向き、
「……! 由美ーっ!」
「うぉ……!?」
いきなり飛びかかるようにわたしに抱きついてきた。
「無事で良かった……!」
「あ……ごめんね、心配かけて」
それに気づいた時、わたしは自然と京の頭に手を置いていた。
●
『それじゃあ、出発しようか』
京のバイクも彼女の家へ置いてきた後、カインのその言葉を合図に、わたしたちは歩きだした。
歩きながら、カインはこの近辺の治安状況などを説明してくれた。どうやら、最近この辺りで人攫いが起き始めているようで、剣術や魔法など、ある程度戦闘能力のある人間が狙われているらしい。わたしが一度元の世界へ戻ると言った時、《僕たち以外の気配》がどうのと言っていたのは、それを警戒してのことだったようだ。
『なるほど。それなりに戦える人間を狙う……つまり、そいつらはそれ以上に強い、と』
間に久坂さんと京を挾み、1列で歩いている最後尾から、わたしは先頭のカインに向かって言う。
『そ。君も身のこなしに隙が無いから、けっこうできるほうだと思うんだけど、だからこそ、かえって気をつけたほうがいいんだ』
なんだか、初っ端から危険なイベントが発生してしまっている気がするが、その割にはカインは平気な顔をしているようだ。
『まあ、僕も一度そいつらに狙われて……5人くらい居たかな、その時に返り討ちにしてやったからね。そいつらがよほどの馬鹿じゃない限り、僕と一緒にいればまず大丈夫だと思うよ』
なるほど、そういうことか。……と、安心したかった。もう少しで森を抜けるというところ、ちょうど今わたしたちが歩いている細い獣道の出口付近に潜む気配が6つ。
『どうやら、よほどの馬鹿だったみたいよ』
『……だね』
答えるカインも呆れているようだった。
「京、久坂さん。もう少し歩くと敵に襲われると思うけど、何があってもわたしとカインから離れないで」
「え、て、敵って……?」
不安げに言う京と、同じく不安げながらもカメラを構える久坂さん。このやり取りの間、歩くスピードは変えていない。
「ゲームが始まったらチュートリアルバトルがあるでしょ? ただの経験値よ」
その言葉を言い終えたところで、こっちに来て最初のバトルは始まった。ある程度はわたしの予想どおり、6つの気配のうち4つがカインに、残る2つのうち1つがわたしたちに向かって躍りかかってきた。最後の1つは動いていない。
カインのほうは、まあ心配はいらないだろう。そして、ここが少し予想外だったのだが、こちらに向かってきた人影は直接わたしに向かっていた。てっきり、戦えない京と久坂さんを人質に、もしくは先に始末しようとしていると思っていたのだが。……戦える人間を攫って直ちにその場を離れれば、戦えない人間など容易に振り切れる、ということか。
突っ込んできた人影は、やはりわたしたちを生かして連れ去ることを最優先に考えているようで、その手に武器の類は持っていない。格闘ならわたしの最も得意とするところだ。わたしは繰り出されたそいつの手首を掴んで、次の一瞬で地面に組み伏せた。抜け出そうと少しでも体に力を入れれば、すぐに骨の2~3本を折れるようにしてある。
カインのほうも、襲いかかってきた連中全員を気絶させたことで、決着がついたようだった。
『なるほど。なかなかにできるようだ』
隠れていた最後の1つの気配が言う。
姿を現したそいつは、見た目こそ今までの5人と似ていたが、まとっている気配が格段に違った。その威圧感に押されたか、わたしは、押さえつけていた襲撃者の拘束をわずかに緩めてしまったらしい。足下で暴れる余裕を与えてしまい、体勢を崩す。手加減をしている余裕は、無い。
めごっ!
本気の一撃を入れて、襲撃者の首は変な方向に曲がってしまった。やらなければやられる状況だったとはいえ、人を殺し──
『由美! 立って!』
「……っ!?」
カインに一喝されて、我に返る。
『こっちはそういう世界なんだよ。僕だって、今までに何人も殺してきている。害虫を踏み潰したことをいちいち悔やんでいる暇は無いんだ』
害虫……なるほど。本当に、こっちはファンタジー世界のような場所だということか。わたしは、カインの隣に並んで立った。
『どうやら、人を殺したのは初めてだったようだね。もう立ち直れたかな?』
襲撃者の言葉で、わたしは初めて気づいた。こいつが、この数秒を待ってくれていたという事実に。……馬鹿はわたしのほうだった。
『ええ、待っててくれてありがとね、襲撃者さん』
声を震わせずに喋るのに苦労する。
『はははっ、よくも言ったものだ。……さて、異界の実力者と魔法剣士カインか。同時に相手をするのは、さすがのわたしでも少々骨が折れる。そこで、だ。取引をしようじゃないか』
『取引……?』
そいつが口にした《取り引き》の内容は、要約すると次のようなものだった。
この森を抜けたすぐ近くにアールディアという町がある。この襲撃者たちはその町の地下闘技場で闇の闘技大会を主催している組織で、大会に参加できる実力者を各地から攫ってきている、と。優勝すれば自由の身になれることはもちろん、この大会に出資している裏の大物たちに気に入られれば、何でも望む物を手に入れることも不可能ではない。
襲撃者が話し終えた後、しばしの沈黙。わたしは、答えに迷って考えている素振りを見せる。まあ、実際に考えてはいるのだが、それは《取引》を受けるかどうかではなく、全く別のことである。
襲撃者は、わたしのことを《異界の実力者》と言った。その直前にカインがわたしに言った『こっちはそういう世界だ』という言葉からの推測なのかもしれないが、そうだとしても《異世界から人が来る》ということが容易に想像できるということは、こっちでは異世界との行き来が不可能ではないと広く知られている可能性がある。実際、任意には不可能だとしてもお母さんが日本に来てわたしが生まれているし、わたしたちが今こうしてここに立っている以上、こいつらが日本へ、地球へ来る可能性は0ではない。
今、京と久坂さんを連れて元の世界へ逃げ帰ることはできるが、その場面をこいつらに見せるべきではないだろう。だとすれば……
わたしは顔を上げ、言った。
『今、この場であなたを殺せば、そんな大会に参加するまでもなく自由の身よね?』
その言葉にカインが目を丸くし、そして襲撃者は。
『くははは……! そのような言葉、よくも言えたものだ! おまえほどの者ならば、彼我の実力差が分からぬでもあるまいに』
余裕を見せつつも、隙は見せない襲撃者。そう、さっきこいつは言った。わたしとカインとを同時に相手をするのは『少々骨が折れる』と。言い換えれば、わたしとカインとで同時に戦っても勝てないということだ。わたしには10倍スーパースロー能力があるが、それだと魔法を使えない上に、たぶんこいつの動きを見切ることはできても体がついてこないだろう。
しかし、今こいつはわたしたちに《取引》を持ちかけている。臨戦態勢ではないのならば、勝機はある。
初めてこっちの世界に来た時に、わたしの魔法《加速》は無事に発動した。ならば、別の魔法も使えるはずだ。《変成》、対象物を構成する原子を組み替えて、そのまま分解、あるいは別の物質に造り替える魔法だ。《加速》もそうだが、既存のファンタジー漫画などのようにわざわざ魔法の名前を叫んだり、呪文を詠唱したり、決められた予備動作を取る必要は無い。意識で念じただけで即座に発動できる。
わたしは、襲撃者の首から上を破壊した。京と久坂さんは顔を背け、カインは驚愕の目で凝視している。……こっちの世界の魔法がどんなものなのか分からない以上、こうするしかなかった。変に余裕を見せつけて、もし同じ魔法を使われたらこっちがゲームオーバーになってしまう。
こっちの世界に来て早々、わたしは2人も殺してしまった。
登場人物紹介 2
吉田 京 性別:女
誕生日:10月17日 本編開始時の年齢:16歳
身長:158.7cm 体重:52.8kg
100m走:13.78秒
握力 右:32kg 左:27kg
読むのも描くのも漫画が好きな、ごく普通の女の子。PCで漫画を描くために自然とPCに詳しくなり、そのまま由美もPC沼に引きずり込んだ。
頭は悪くないが、考えるより先に行動することが多い。