1 日常に入った小さな亀裂 ★
6月19日(日)
通学路沿いにある馴染みの小さな公園、その入り口近くの歩道へ、わたしは乗ってきたバイクを止めた。小学校からの親友とここで待ち合わせて、一緒にPCパーツを物色に行くところだ。
どうやら彼女はまだ来ていないようだが、それよりもふと気になる人物が目に入った。歩道の先からこちらへ向かって歩いてくる、1人の中年男性。見た目はごく普通の中年男性なのだが、なんとなく、嫌な予感がする。
高校も2年生になり、活動範囲が広がって校外の人々とも接する機会が増えると、やや赤みがかった髪や日本人離れした顔立ちなどで偏見や固定観念ゆえの心無い言葉を、言う側に悪意があると無いとにかかわらず、受けることがままある。面と向かって言われることは少ないが、立ち去った後にひそひそと聞こえてくることはしばしばだ。
そんな人たちに似た空気を、わたしは目の前の中年男性から感じていた。
とはいえ、変に警戒しても疲れるだけなので、中年男性のことは視界の隅で捕えておくだけにして、わたしはズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。新着メールが1件、ここで待ち合わせている親友、吉田京からだ。送信時刻はちょうど5分前。
《ごめん! 出かける間際に急に催してきたから、ちょっと遅れます》
文末には茶色いソフトクリームのような、要するにアレの絵文字。2頭身化して後頭部にでっかい汗を浮かばせたい気持ちになりつつ、わたしはスマホを
「……!」
ポケットへしまおうとしたら、あの中年男性がわたしとすれ違いざまにいきなり無言で殴りかかってきた。もし、わたしが普通の高校生だったなら、繰り出された中年男性の拳をよけられず、そのまま顔面を殴り飛ばされていただろう。しかし、わたしはそんな《普通の高校生》ではなかったということが、このオッサンにとっては不運だったのかもしれない。
わざわざこのオッサンに明かすつもりは無いが、1つには、わたしには生まれつき不思議な能力が備わっている、ということ。なぜかは自分でも分からないが、意識を集中させていたり、不測の事態に見舞われたりなどで興奮状態になると、全ての動きがほぼ10分の1にまで遅く感じられる。不思議な能力はもう1つあるが、今は関係無いだろう。そして。
オッサンの拳を首を軽く捻ってかわした後、わたしはスマホをしまってオッサンに向き直った。
「いきなり殴りかかってくるなんて危ないじゃない」
何が起きたのか理解できていないであろうオッサンに、わたしはごく普通の調子で言う。
「……だ、黙れ! 女の分際で! 女のくせにバイクなんぞ乗り回しやがって、おまえのようなヤツが事故を起こすんだ!」
オッサンは狂気の形相で怒鳴り散らし、再びわたしに殴りかかってくる。いったいどこからツッコめばいいのやら。
とりあえず、わたしは殴りかかってきたオッサンの攻撃を再びかわして、彼の足を払ってやった。歩道には石畳が敷き詰められているので、顔面や後頭部から落下しないように体の向きを調整もしてやる。
そんなことができる理由は、わたしは物心がついた時からお母さんに格闘を習っているから。これは《生まれつきの不思議な能力》とは別だ。
この格闘術は、どうやらお母さんの故郷で生み出された独自の格闘術のようで、今、世界で広く伝わっているどの流派とも関わりが無いらしい。
見た感じ、このオッサンには格闘の心得は無さそうだから、明日の新聞に《聖桜公園で高校2年生の竜之宮由美さん(17)が暴行される》という小さな記事が載る心配は無い。無いのだが。
「こ……のメスガキが! おまえも俺を馬鹿にしやがるのか!? 背だけは高いからって調子にのってんじゃねえぞ!」
石畳に体をぶつけても殆どダメージが無かったらしい(というか、そうしてあげたのだが)オッサンは、懲りた様子も無く拳を振り上げてくる。……仕方ない、さっさと警察に通報しよう。
●
オッサンを連行していったパトカーと入れ違いに京がやって来た。まあ、お巡りさんにはボロボロのオッサンと傷1つ負っていないわたしとを見比べられてちょっと疑われたが、幸いにも一部始終を撮影していた別の男性が口添えしてくれたおかげで、どうにか信じてもらえたようだった。……次また同じような事があったら、スマホを録音状態にでもしておこうかな。
わたしが京に状況を説明すると、京は男性に不機嫌そうな顔を向け、
「警察に説明してくれたのは嬉しいけどさ、勝手に撮影するってどうかと思うんだけど」
と、怒りを隠さずにぶつける。
「いや、申し訳なかった。僕は趣味でネットの動画投稿をしていてね、暇さえあればカメラ片手にネタを探して街中を走り回ってるんだ。さっきみたいな状況では事後承諾にならざるを得ないんだけど、断られたらもちろん撮った動画は今ここで削除するよ」
「それなら、まぁ……どうする、由美?」
顔だけわたしの方に向ける京。
「いいんじゃない? ネット動画見てても、けっこうドライブレコーダーとかの動画が上がってるし、どこで誰に撮られてるかなんて、そんなに気にしても仕方ないって」
と、わたしは京を宥めた後、男性にも言っておく。
「あ、でも一応顔が分からないようにはしておいてください」
男性はまず一言「ありがとう」と言って、わたしの顔、というか、頭部を全体的に観察し始める。そして。
「髪も含めて、頭全体をモノクロのモザイク処理したほうが良さげだね。……ああ、ごめん、変な意味じゃないから」
……ちょっと感動したぞ。なんだこのいい人。
それからこの男性と少し会話して、そろそろ別れようかという、その時。
空が割れた。
何の前触れも無かった。比喩とか詩的表現などではなく、文字どおりガラスが割れるように、わたしたち3人のちょうど真上の空間が割れた。そして、直後に吹き荒れる嵐。といっても風が吹いている訳ではなさそうで、それよりはこの場所そのものが、空にできた亀裂に吸い込まれていくような感覚だ。
「な、何が起き……!?」
男性と、
「きゃあっ! 由美ーっ!」
京が。そして気づいた時にはわたしも、地面から足が離れ、亀裂に向かって吸い込まれ始めていた。
「……っ!?」
我に返った時には遅かった。わたしが持っている生まれついての能力の2つ目、とりあえず《魔法》と呼んでいるが、そのうちの1つ、対象に任意の加速度を与える《加速》の魔法で、京と男性、そしてわたし自身に鉛直下向きの加速度を与えてみた。が、体が重くなったように感じるだけで、亀裂へ吸い込まれる勢いは弱まっていない。魔法が発動している手応えはあるのに。
《加速》が効かないと分かった以上、2人に余計な負担をかける訳にはいかない。わたしは魔法を解き、亀裂の奥を見据えた。
わたしにとっての数十秒、おそらく実際には数秒程度で、わたしたち3人とバイク2台は、亀裂に完全に飲み込まれてしまった。
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最初は宇宙空間に放り出されたのかと思った。光も何も無い漆黒の、いや、《黒》という概念すら存在しないのかもしれない、この場所。有り体に言うなら《4次元空間》とでも言えばいいだろうか。自分がなぜそれを理解できるのかが理解できていないが、ともかく、ここはわたしたちが生きている世界よりも何かが1つ多い世界のようだった。
まあ、それが分かったとしても、3人と2台はまだ流され続けている訳で。見えない袋に詰め込まれたような拘束感がわたしたちを包んでいたのではぐれる心配だけは無さそうだったが、だからといって自分の意思で何かができる訳でもなかった。それに、京と男性は気を失っているようだったので、わたし1人で何かをしようとするのは、かえって危険かもしれない。
そんな流されている間にわたしが見たのは、亀裂に飲まれる前にわたしたちが居た世界と、流されているこの流れの先にある別の世界、そして、そのどちらからも離れている何かの塊だった。
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こちら側でもおそらく空間に亀裂ができていたのだろう。ブラックホールに対するホワイトホールのごとく、わたしたち3人と2台は、吸い込まれた時とほぼ同じ勢いで空中に放り出された。振り返った時には既に亀裂は塞がっていて、あの場所を流されていた時に感じていた拘束感も無くなっていた。
代わりに、わたしの体を包んだのは重力。耳元で風切り音もする。……ファンタジーなお話には創造主とか神様とかいったものが付き物だろうが、なんだろう、こっちの世界の神様はわたしたちを殺したいのだろうか。京とは一緒によく薄い本などを作っているが、わたしは主人公をいきなり上空ン百メートルから突き落とす話なんて描いたことは無い。
ともかく、このままではわたしと京は17年の短い人生をどことも知れない異世界で閉じることになってしまう。わたしは天国への片道切符をどうやって神様に突き返してやろうかと考え始めた。3人と2台、計5つの対象に《加速》を使って落下速度を緩めるのもできなくはないが、それだと落下の瞬間の衝撃緩和までは手が回らない。となれば、バイク2台は多少乱暴に扱うのもやむなしとして……よし。
眼下には深そうな森が広がっていたが、幸い、わたしたちの真下には少し開けた場所があった。
5つの対象に《加速》を使って地上付近までゆっくりと降りていき、地上30センチほどの所で鉛直上向きに1G強をかけて瞬間的に静止。その瞬間にバイク2台だけ《加速》を解いた。けっこう派手な音をたてて地面に直撃したが、まあ大丈夫だろう。
鉛直上向きに1G強をかけているので、今わたしたちはゆっくりと上昇している。その最中に今度はわたしが京を抱え、京を《加速》の対象から外すことで対象を2つまで減らす。男性をゆっくりと地上へ降ろし、最後にわたしが……と思った、その時。
「う……ん……あれ、由美? あたし、なんで由美に抱かれ……えぇっ!?」
わたしの腕の中で目を覚ました京が、突然体をよじらせた。
「あ、ちょ……! 京、動かないで!」
慌てて言ってはみたものの、時既に遅し。魔法とスーパースローとは併用できないことに今この時に気づき、テンパってしまったわたしは自分にかけていた《加速》も解いてしまっていた。
地面まで約50センチ。その間にわたしが取れた行動は、京の体を包むように抱え込んで、受け身を取ることだけだった。
「ぐ……っ!」
地面とぶつかった背中に鈍い痛みが走る。そして、抱えた京の顔面がわたしの胸へ飛び込んできて……むにゅ、とかなるのは漫画の中だけの話。現実は、
ゴツ!
●
「ご、ごめんね、由美……!」
胎子のような姿勢でうずくまって何度か咳き込んだ後、胸を押さえてどうにか立ち上がったわたしに、京は心底申し訳なさそうに言ってきた。その京もおでこが赤くなっている。
「い、いいよ、気にしないで」
まだジンジンとした痛みは続いていたが、会話ができるくらいには治まってきていた。
ちょうど男性も意識を取り戻したようで、わたしは京と男性の2人に、今までにわたしが把握している状況を説明した。そして、男性には今更隠しても仕方ないので、わたしの生まれついての能力も全て話した。
「そうか。それじゃあ、君のおかげで助かったんだね、ありがとう」
「いえ、別に……」
男性への返事がちょっと上の空になってしまった。2人に状況を説明している間に、もう1つ、気づいてしまったことがあったからだ。
たぶん、今のわたしなら、あの《4次元空間》へ自分の意思で行ける。そして、元の世界へ、元の場所へ、聖桜公園へ帰ることも、たぶんできる。でも、それがなぜできるのかが分からない。
「……由美? どうしたの?」
いつの間にかわたしは俯いていたようで、心配そうにわたしを見上げる京と目が合う。……よし。
わたしはある決心をした。それを2人に説明しようとしたところで、木々の奥から近づいてくる2つの気配に気づく。1つは人間……といっていいのか分からないが、ともかくわたしたちの世界でいうところの《人間》と似たような気配。もう1つは、何か大きな動物のようだ。どちらからも敵意は感じられない。
「ううん、なんでもない。それよりちょっと待ってて」
京にそう言ってわたしは背後を振り向き、
「そこに居るのは誰?」
気配を感じた先、森の奥へ言葉を投げかける。後ろで京と男性が体をこわばらせるのを感じつつ、返事を待つ。しばらくして、
『悪いね、こっちの世界の言葉で喋ってくれないかな? ……っていっても無理か』
と、木々の陰から、角の生えた熊らしき動物に跨った、おそらく少女が姿を現した。年はわたしや京と同じぐらいだろうか。……って、ちょっと待って! 熊らしき少女……じゃない、熊らしき動物に跨った少女らしき人物が口にした言葉は明らかに日本語ではなかった。でも、わたしはその言葉を知っている。……小さな頃から、お母さんに《お母さんの故郷の言葉》だと教わってきた。
「……な、なんて言ってるんだ?」
わたしの後ろで、男性が震える声を上げる。しかし、わたしにはそれに応える余裕は無い。分からないことだらけで混乱しそうだった。
わたしは頭を数回振り、とりあえず今すぐ理解できること以外は意識の端へ飛ばす。そして、目の前の少女らしき人物に言った。
『……うまく喋れてる自信は無いけど、こんな感じでいいかな?』
熊らしき動物に跨ったまま固まる少女。両目を見開き、驚いているようだ。少女はそのままわたしたちの所へ近づいてきて……ん?
『あなた……もしかして男?』
わたしがそう聞いたのがちょうど熊から降りようとしているところだったせいか、少女改め少年は転落しそうになった。
●
やっぱり、わたしがお母さんに教わった言葉はこっちの世界で使われている言葉だったようで、熊らしき動物に乗っていた彼とはそれほど不安無く意思疎通できた。
という訳で、わたしが通訳をすることで、互いに自己紹介を済ませる。まず、彼の名前はカイン・アルフィネート、こっちの世界ゼルク・メリスでそれなりに有名な魔法剣士らしい。魔法剣士として有名というあたり、ゼルク・メリスは本当にファンタジー世界みたいな所のようだ。
カインが乗っていた動物は角熊という種で、角を持ったいかつい見た目とは裏腹に優しい性格をしているらしい。こっちの世界では移動手段として飼っている人も多いらしく、カインはアクスという名前を付けて可愛がっているとか。
そして、わたしや京と一緒に空間の亀裂に巻き込まれた男性は久坂秀夫。わたしや京が通っている高校の教頭先生と同じ名字だが、血縁ではないそうだ。
一段落ついたところで、わたしはまず、京と久坂さんにさっき決心した内容を話すことにした。
「2人に聞いてほしいんだけど、たぶん、わたしの力で、元の世界とこっちとを行き来できると思う。だから──」
「じゃあ、帰れるんだね!?」
明るい顔になって、久坂さんが言う。
「ちょっと、久坂さん。今は由美が……」
「あ、ああ……そうだね、ごめん」
「いえ。……それで、2人を元の世界へ送った後、わたしは、もう一度こっちへ来ようと思ってるの」
「え……?」
「……え、由美1人で?」
久坂さんは驚きを露わにし、一息遅れて京は……って、え? てっきり、驚くか、疑問を持たれるかと思っていたんだけど。京の顔は、まるで新型ゲーム機が発売されると知った時のように輝いている。
予想外の京の反応にわたしが戸惑っていると、京はさらに続けた。
「いつでも行き来できるんでしょ? だったら、こんな楽しそうなこと、あたしにも付き合わせてよ。こっちに居る間は、由美とは絶対離れないようにするからさ」
「は……えぇっ?」
すると、京の言葉で久坂さんも何かに納得したらしく、
「……そうだね。竜之宮さんさえ良ければ、だけど、僕も動画投稿者として、面白そうなネタはできるだけ仕入れておきたいよ」
と、その手にビデオカメラを持ちながら言った。
さて、どうしたものか。2人を元の世界へ送った後、わたしが再びこっちへ来ようと思ったのは、こっちでなら、魔法に関することとか、わたしの能力の謎を知ることができるのではないか、と思ったからだ。幸い、早速こっちで友好的に知り合えた人物も居る。しかし、こっちにも日本と、いや、地球と同じか、もしかしたらそれ以上に危険な地域などがあるかもしれない。
『……ねえ、カイン。ちょっといいかな』
わたしはカインに助けを求めることにした。
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『僕は構わないよ。もともと、僕も君たちを父の所へ案内するつもりだったんだ。父は伝承やなんかに詳しいから、たぶん、君たちが知りたいことも知ってるんじゃないかな』
……なんなんだ、このご都合主義的な展開は。わたしだったら、こんなストーリーの漫画はまず描かないぞ。もしかしたらこの先、《実はカインはわたしの遠い親戚でした》なんていう展開が待っているんじゃなかろうか。
「それで、カインは何て?」
目を輝かせて聞いてくる京に、
「うん、わたしたちをカインのお父さんの所に案内してくれるって。伝承とかに詳しいみたいだから、色々と話が聞けるかもよ?」
答えるわたしは、たぶん惚けた口調になっていた。
読者様へ。
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登場人物紹介 1
イラストは【よみ34号】様に描いていただきました。
無断転載、2次利用を禁止します。
【よみ34号】Twitter @797fo
竜之宮 由美 性別:女
誕生日:6月5日 本編開始時の年齢:17歳
身長:178.1cm 体重:69.8kg
100m走:8.87秒(非公式)
フルマラソン:1時間57分54秒
(本気で走ると先導車に追い付いてしまうので抑えめに走った記録。もちろん非公式)
握力 右:85kg 左:83kg
本編の主人公。私立聖桜高校2年6組。並外れた運動神経と、学年トップの成績の持ち主。
穏やかに暮らせればいい(ただし、変化を嫌うわけではない)という考え方で、自分から積極的に行動することはあまりない。が、意外と熱血なところもあり、やる時はとことんやる。
※例えば、何か事件が起きた時に自分から首を突っ込むことはまず無いが、巻き込まれたりなどで自分がかかわらざるを得ない状況の場合は、加害者(事件の首謀者)側か被害者側かに関係無く、できるだけ犠牲を出さずに(加害者側に関しては無傷とは限らない)解決しようとする。