第5話 磨羯に喰われた堕天の王
鳴り響く轟音、黒い風、融解した氷が視界を遮るよう濃霧を生み出していた。
血に染まる大地、むせ返る死臭。並みの精神では立っているのもままならないだろう。
ありとあらゆる感覚が研ぎ澄まされた二人を待ち構えていたのは、脳内を圧迫しようと五感全てに訴えかけてくる、何もかもがごちゃまぜになったカオスな光景だった。
先日激昂した天馬から奪った魔法は大抵の幻獣型でも受ければしばらくは動けないだけの威力があるはずだ。
ところが目の前の狐と鼬が混ざったようなバケモノは傷を負うどころか雷を吸収してるようだ。
「はあ……クソッ、今のを喰らって無傷かよ! わかっちゃいたが、結構堪えるな……。氷室!」
千風が合図を送る。それに氷室が応え、バケモノとの距離を取り高速で詠唱を始める。
即興で出来たチームとは考えられないほど連携の取れた動き。お互いがお互いの使える魔法を知っているのか? その中でこの状況を打開する最善の魔法を選択し、それを合図と共に完成させる。
一端の高校生はおろか練達のプロでもここまでの連携はままならないだろう。
火事場の馬鹿力とでもいうのだろうか、二人は平然とそんな芸当をやってのけた。
「もうやってる! 二、一、完成! ––––大地の色彩は解き放たれた視界の中で高らかに鳴り響き、共有するは百鬼の瞳––––持って三秒だ! それ以上は保証できない」
「わかってる」
小さくうなずく。
刹那、千風の脳内にあらゆる角度から見た世界が映る。彼が観る世界、氷室が視る世界、そしてバケモノが、空が、大地が……森羅万象の世界が視界いっぱいに広がっていく。
千風は神の眼を手に入れた。もはや彼に死角など存在しない。しかしそれは余りにも強大な力だ。膨大な情報量に脳の処理が追いつかない。
脳の処理が一手遅れる。頭の中にマグマを流し込んだような痛みが巡る。痛いとかそういった感覚を超越した痛み。グルリグルリと、溶かすように、吞み込むように。それでも止めない、やめられない。脳を支配する全能感がどんどん浸っていく。頭に首に、全身に……。
思考の加速した脳は未来を視る。神の瞳は現在を書き換える。
そこでまた脳の処理が遅れる、二手三手と……。脳に酸素が行き渡らない。細胞が死に、未来が生まれる。千が死んで千が生まれる、万の犠牲で万を創る。
––––まだだ、まだ足りない。もっと……もっといい手があるはずだ。
「あはっ……あははははははは!」
狂ったように嗤う。何千何万通りの結果が皆等しく死に繋がるのだ。運命に定められた回避しようのない死が確実に近づいていた。
嗤って、瞳から真紅の涙を流し探る。抗う、否定する。
寿命を削って行動パターンの最善手を探る。そしてようやく見つけた。指を鳴らし合図を送る。
「さあ、反撃といこうか? 氷室、合図したら俺の背後に来てくれ!」
氷室の返事を待たず、千風は駆ける。超高速で詠唱を、召喚を、顕現を。数多の魔法を展開する。
まずは身体加速の魔法だ。心拍を加速させ、全身に多量の血液を張り巡らせる。パキンッ。脳を拘束する鎖のようなものが外れ、ギアが二段階三段階と上昇する。身体の内を巡る圧倒的な力。
「––––高速、神速、光跡讃える天の靴––––」
裂帛の気合いと同時、千風の肉体が煌びやかな粒子を纏い加速した。一瞬にしてバケモノに肉迫し、その時にはすでに次の魔法完成している。
薄く半透明で特殊な紋様が刻まれたプレート状のものを制服の内ポケットから五枚取り出し、宙に放つ。
「五重展開––––神を喰らうは悪しき獣、我はその調に依りて神を問う––––」
刹那、宙に放り投げた五枚のプレートが円形に並び、基本体の五属性の色に明滅したかと思うと一つの魔法陣を構築した。
彼はそれを見上げるや、指をパチンと鳴らし起動する。
それらは互いに螺旋状に上昇すると一つの色に収斂し終息した。一つの色、それが示すは即ち黒。属性は闇、使用することそのものが禁忌とされる最強にして最凶の、全てを等しく塗り潰す聖なる魔法。
「––––ッ、悪魔召喚……それも相当高位な!? 千風よせ! それだけは本当にマズイ!?」
遥か彼方で氷室がなにか言ったが、そんなことはこの際どうだっていい。
ひどく冷たい、悪魔さえも震え上がりそうな殺気の籠もった声で、千風は続ける。
「……スティグマのシジルは契約により解き放たれた。召喚に応じ、隷属せよ堕天の王」
刹那、周囲の光が消失し闇が世界を蹂躙する。五感を心地いい闇が包み込む。
脳は侵され、身体は穢され、それでもなお千風は踏みとどまった。この場にいる一人の友人を救うために。
一人二役演じるように声色が変わる。彼の身体には堕天の王が憑依しているのだ。
ルシフェルと契約したのはあれだ、過去に一度だけ発生した最悪のカラミティア、レベル18。属性は闇、なぜか神獣型にカテゴリーされた堕天の王。災害で言えば感染症、推定六千万人の死者を出すと告げられた悪魔王。
しかしそれはあくまで推定にとどめられる結果となった。《十二神将》七人の、千風の恩師、同僚、このはの親父……。彼が誰よりも大切にしていた、かつて戦場を共にした仲間たちの、犠牲のうえに救われた六千万の命。
そして自分一人だけがあの場で生き延びた。不甲斐ない自分にどうしようもなく腹がたった。怒りも殺意も、無限にも思われる負の感情が心の底から際限なく込み上げてきたのを、今でもはっきり覚えていた。
馬鹿だった。考えが甘かった。愚かしいほどに、悩ましいほどに。
だからこれは、彼らの遺志だ。彼らが自分に遺してくれた唯一の希望。あの場に集まった八人でもう一度だけ戦うことの赦された、最期の別れの魔法。
千風は笑って泣いて、震えていた。深紅の涙が頬を伝い、あの日の感情が、記憶が、力が……。あの場に置いてきたはずのすべてのものが彼の身体を駆け巡る。
「よ、お……ルシフェル、久しぶりだな。召喚したのは初めてだが……」
『あまり喋るな、主の身体がもたないぞ?』
「そんなことは、わか、っている……なあ、ルシフェル?」
『なんだ? 御託は要らん。結論を言え』
笑う気力さえ失った千風は憔悴しきった瞳で虚空を見つめ、
「話が早いのは、助かる。ルシフェル俺に……喰われてくれ」
『……もはや何も言うまい。覚悟はあるようだが、あとはそれに主の身体が追いつくか。見届けさせてもらうぞ! ––––かつての天使は自由を望み、かつての悪魔は憂いを請うた』
千風が重ねて魔法を詠唱する。
「共鳴––––かつての天魔を喰らいしは偽悪を愛す道化の鏡––––」
人の身と天使で悪魔な災害が交わり、バケモノを狩る、化け物が生まれる。それは因果故の運命か。
千風の背に翼が生える。十二の、身長を優に超える白黒の翼が。それはまるで天使と悪魔が交ざったように。
千風の全身に心臓を起点として黒い痣が走る。人間風情が天使と悪魔を喰った代償だ。呪いの痣が彼の寿命を次々と喰い潰していく。
「バケモノ……お前を殺して、俺たちは……あはははははははは」
千風が右腕を掲げる。すると一つ二つと魔法陣が生じ、瞬く間に千を超えた。次々と分裂していく魔法陣、もはや今の彼に詠唱など必要なかった。
「––––穿て」
小さくそう、感情の一切乗らない声が空気を振動させた。
幾多の魔法陣が虹色に煌めき、人間など少しでも擦れば消滅しかねない死神の光が狐鼬に放たれる。
無数の光が着弾するが、音など一切聞こえない。音が発生する前に吸収してそれさえも力に変える。
「……ッ、これは」
圧倒的だった。
正直それ以外の言葉を思いつくほどの余裕は氷室にはなかった。
千風が踵を踏み鳴らせば地に亀裂が走り、魔法を放てば山が消え雷が降り注ぐ。目の前にいるのは神だった。
「くそっ、なにをやっているんだ僕は! あのままだと千風は……」
考えるより先に身体が動いていた。完成しかけていた魔法をキャンセルし彼の元へ走る。作戦は失敗した。今の千風に作戦がどうこう言っている暇はないが。
人の身で走れる限界の速度でとにかく、ひたすら走る。これほどまでに時間の流れを遅く感じたことがあっただろうか? あまりにも遅い、遅すぎる。
だがそれは自分が速くなったからじゃない。自分だけがこの場で遅いのだ。例えるなら、光と音、速さの差がかけ離れすぎていた。次元がまるで違う。
「ふざけるな、ふざけるな……っざけんなよ!」
泣き叫ぶようにみっともなく全力で声を張り上げる。前方の一寸先も見えぬような分厚い霧の中を突き進む。人と神の国境を踏み越える。
千風を救うのだ。仲間を、自分を救おうとして死にかけている大馬鹿野郎な親友をこの手で。
仲間が、大切な親友が振り返る。よかったまだ生きていた。
だがその後方では不可避の死が次々と繰り広げられていた。黒い閃光、雷嵐、氷水の柱。まさかあれだけの魔法を受けきったというのだろうか。
「……作戦通りだ氷室、お前はもう帰れ。ここはお前みたいに優しくて馬鹿な奴がいていい場所じゃない」
千風の瞳から紅くない、人間らしい涙がこぼれ落ちた。
氷室の瞳が戦慄に揺らぐ。彼が知る限りこの場において最も最悪な魔法を千風の唇の動きから読み取れた。
「僕はそんなことをされるために来たんじゃない! キミを救いに、キミと帰るために––––」
「俺はもう疲れたんだ。あんまり駄々をこねるなよお前も言ってただろ? ……じゃあな––––」
その『じゃあな』は二度と会うつもりのない諦めきった別れの『じゃあな』で……。
「っざけんな! 頼むからそんなこと言わないでくれ。僕たちは親友じゃないのか––––よ!?」
氷室の胸に千風の人差し指が、何の抵抗もなくストンと入る。
氷室は口の端から血を流し、内側から弾けるように身体を迸らせ、この世界から消失した。
千風の背後で幾つもの魔法が爆ぜる。水が風が雷が、どうやらこのバケモノは三つの属性を扱えるらしかった。この際どうでもいいが。
千風は振り返り手のひらを掲げ、魔法をキャンセルした。
「……ここまでは予想通り、つーかさっき視て来たところだ。んでこっからはちょっと違う。視えなかった今だ。だから俺の思い通りにさせて貰うぞバケモノ? バケモノはバケモノどうし、仲良く殺し合いといこうぜ?」
と、いきなり狐鼬が喋り始めた。今までカラミティアが喋った記憶はないが、目の前にいるのは例外中の例外なので今さら驚いたりはしないが。
『面白いな小僧、その若さで得た神をも凌駕するその力、見上げた根性、どれもこれもが素晴らしい。殺すのが惜しいくらいだ……』
身体も心も疲弊しまくった千風は乾いた笑みを浮かべ、
「なら見逃してくんねーかな? 正直アンタ強すぎるわ。ルシフェルまで召喚んどいてどうにもならないようじゃあ、手詰まり感ハンパねーんだけど?」
『やはり小僧、お前は面白い。だが、敵であるはずの我に命乞いとは浅はかな……』
「だよなーっ。世の中そんな甘かねーよ、知ってたさ。この目で嫌というほど見てきたんだ。今さらだよな」
バチンッ、両の手でおもいきり頬を叩き覚悟を決めた。
『貴様に敬意を表し、名乗ろうではないか。我が神名は神威絶チ、かつての妖狐にして神格にまで登り詰めた風の王なり。我は神を喰って神を殺す、堕ち神程度では話にならん』
「––––ッ! あーつまり、そうゆうカラクリか!? 難易度高すぎだろーが」
千風の脳裏にある考えが閃き、ルシフェルに語りかける。
「……悪い、ルシフェル。お前とはここでお別れみたいだ。最後にこうやってまたみんなで戦えてよかった……」
ルシフェルに、かつての仲間が遺してくれた遺志に別れを告げた。
まだ心のどこかで、過去のことを忘れることができていなかったのだろう。けどそれも今、終わらせた。過去に囚われるのはもうお終いにしよう。これからは未来に、どうしようもない馬鹿共がいる未来を守るために。
「ここからは正真正銘の一人だ。やっぱ、諦めるのはやめだ。あいつらに、このはや氷室、あと緋澄もいたっけ? あいつらともう一度会うために俺は、今一度未来を切り開く––––!!」
そして如月千風は、生身で。人の身で、神さえも撃ち砕く神ならざる神に最後の決戦を挑んだ。
完結まであと一二話となる予定です。