第2話 風に揺れるこのは
意識を失った少年が次に目覚めたのは、なんの変わり映えもないただの路地裏だった。
意識を失ってそのままごく普通に目が覚めただけなのだから、当然のことと言ってしまえばそれまでだが。
ゴソゴソと制服のポケットを弄り、懐中時計を見るとなんと午前十時。どうやら六時間ほど眠りこけていたらしい。
「うわー、コレ完全に遅刻じゃん。ていうか、連絡くれてもいいだろうにあのオッサン抜けてんな。ったく頭髪だけにしろよな」
遅刻している事実を知ってなお、頭をボリボリ掻きながら、ナマケモノもびっくりなスローモーションで立ち上がる。挙げ句の果てには上司の悪口を言う始末である。困ったものだ。
先ほどまで幻獣型カラミティアと死闘を繰り広げていた男はなんだったのか? 今の彼からは想像もつかない。
寝ぼけ眼を擦りながら、丸まった猫背を伸ばすように大きく伸びをすること数十秒。立ったまま巧妙に鼻風船を作り始めた。
「……zzZ。っといけね! 危うくこんな所で二度寝するとこだった。早く学校行って寝なきゃ!」
いや、それもどうかと思うが……。平気で学校に遅刻しておいてさらには寝るために学校に行くのだという。いったい彼は学校を何だと思ってるのだろう。
重い足をズルズルと引きずりながら如月千風は在籍する高校、第一新宿高校へと向かった。
***
正式名称、都立第一新宿軍事高等学校、第一級魔法士以上に育成する教育機関。カラミティアが視覚化できるようになってから三十年、日本に数あるカラミティア対策科の高校の中でもずば抜けた実績を誇り、過去に《十二神将》を七名輩出したという伝説的な記録を持つ。
というわけでここにいる生徒の半数以上が、既に第一級魔法士のライセンスを取得していた。
そんな優秀な生徒たちが集う場所に何故か一人だけ机に突っ伏して寝ている者がいた。言うまでもなく、千風である。
「えー、魔法にはそれぞれ属性があり、基本体である火、水、風、土、雷。そして特異体である、光と闇の全部で七属性が現在確認されています」
教壇では魔法基礎理論の教授が何やら熱弁していた。
教授の話を聞いてノートを書くのに勤しむ者、消しゴムを切り刻んで遊ぶ者、寝る者、鼻をほじり埃の塊を飛ばす者、最後の一人はどうかと思うが人それぞれだった。
優秀なハズの第一新宿高校の生徒はロクな奴がいなかった。日本の未来が少々……もといかなり心配になる。
「そしてこの属性は災害によって大体の結びつきがあり、噴火であれば火、台風であれば風や雷などです。であるからして––––千風、お前は聞く気がないのか!」
ふと、千風の方を見た教授が、自分の講義に興味を持たないことに怒りを覚えたのか、顔がみるみる内に赤くなった。
教授が魔法を唱える。
「大いなる風よ––––」
そして何とも古典的だろう、あろう事かチョークを投げつけてきた。ただそれは普通のチョークではない。魔法によって加速されたチョークは螺旋状に回転し、周囲の空気をを絡め取る。
「んあ?」
銃弾と比べても遜色ない速度に達した白チョークが、口から涎を垂らし、半眼で見つめる千風の眉間に吸い寄せられる。
パァン! 風船の破砕音に似た音とともに、千風の身体が椅子ごと吹っ飛んだ。
若干へこんだ額を押さえ、千風が睨みつける。またいつもみたく始まるのだ。
「なんだその目は? お前今朝も遅刻したそうじゃないか。挙げ句の果てに昼寝か? 別に私の授業に興味がないなら帰って良いぞ? ここはお前みたいな落ちこぼれがいていい場所じゃない」
その言葉にクラスの連中が笑い出す。クスクス、クスクス、嘲るように、見下すように、挫折させるように。
これがこの学校における彼の扱いだった。事実、彼は成績最下位の落ちこぼれだった。
ただそれが面倒くさがりな千風が眠いからと筆記試験中に眠り、実技試験でもいいかげんに流していただけとは誰も知らないが。
実際先ほどのチョーク、彼には見えていた。見えている上で、咄嗟に魔法で威力を減衰させ自ら後ろに飛んだ。演じたのだ、道化を。クズで無能な最低の落ちこぼれを。
もし、彼が威力を減衰させていなかったら、笑い事では済まなかった。確実に死んでいる。もちろん教授が威力を落としているのも分かる、魔法は元々カラミティアを殺すための手段なのだから。だがそれでも、威力を落とした上で教授が放った魔法は十分な殺傷能力を備えていた。
だから、教授が実戦経験がないことが分かった。本当の威力を知らないのだ。自慢話のように、実戦経験があると皆に言っていたが、真っ赤なウソだ。彼には実戦経験もなければ、威力を制御する腕もない。
それでも笑う。みんな嗤う。無能な馬鹿共は楽しそうに。
「ホント、なんであなたみたいなクズが私たちのクラスにいるわけ? あなたがいると私たちの評価まで下がりそうなんだけど?」
主席の女子生徒が皮肉を込め言った。
そうだそうだと、周りのクラスメイトも騒ぎ立てる。
次席の男子生徒が言う。
「まあそう言ってやるな。雑魚が混じってないと、みんなのやる気にも繋がらないだろ? アイツにもアイツなりの役割ってのがあるんだよ」
わっと笑いの波が大きくなる。そんなに面白いことを言ったのだろうか?
それを見て千風は、
––––はっ、どっちがクズだよ。無能な教師に、それに従うことで優越感に浸る雑魚の群れ。くだらない。
胸中で毒づいた。
「やっぱここに俺の居場所はねーや」
彼は一言だけそう残して教室を去った。
***
教室を出た千風はいつも通り、屋上に来ていた。屋上はもはや、学校における彼の定位置となっていた。
彼にとって学校に通うはイコール屋上に寝に来るだった。
別に黄昏に来たわけじゃない。いつもいつも無性に眠いのだ。だから一人落ち着いていられる場所を探した。そしたらたまたま屋上に行き着いただけの話。
タンクの上に寝そべり、空を見上げる。茜色に染め上げられた空に、風に乗って鼻腔をくすぐる女の子特有の甘ったるいシャンプーの匂い。
どうやらここでもゆっくりと寝られそうにない。千風は肩を竦め、匂いの元を首だけ起こして見た。そこには一人の少女がいる。
サラサラと靡く紺色に近い黒髪のロングストレートに、白を基調としたリボン、強い意志の見え隠れする双眸。桜色の唇をいたずらっぽく曲げた一人の少女。大和撫子とは彼女みたいな美少女のことを指すのだろう。
時枝このは、世界的大発見をした時枝玄翠の孫娘にして、千風の幼馴染み。この学校で彼が唯一心を許せる人だった。
このはが腰を曲げて千風の瞳を覗く。自然と人を落ち着かせる鈴の音のような澄んだ声で話しかけてきた。
「ふふっ、またこんな場所にいた。こんな所で寝たら風邪ひいちゃうぞ……なんて、可愛く言ってみたり? はい、コレ。どうせお昼ご飯食べてないでしょ?」
手をひらひらさせ、菓子パンと缶コーヒーを渡してきた。
「んーサンキュ。なあ、このは」
「うん?」
「パンツ見えてるぞ、今日も黒か。見かけによらずの大胆さだよな」
それに彼女はスカートを押さえるそぶりをみせ、
「あは、下手なウソつくな〜。視線は私の胸から全然ずれてないけど、どうやったら分かるのかな〜? ヘンタイスケベな千風くん? ……まあ色は合ってるんだけどね」
そう笑って誘うように、強調するように腕を組んだ。
彼女の言っていることはすべて正しいから、否定はしないが、そもそもこのはは、黒色のパンツしか持っていないからウソもなにもない。
何故知ってるか? もちろんヘンタイだからだ。
「ふふっ本気にした? 残念、冗談でした!」
楽しそうにコロコロと笑う。
「バーカ、してねーよ。十五年も一緒にいて、今さら幼馴染みに欲情するか!」
「そっか、私は千風の事好きだけどな……」
ぼそりと言ったその言葉は残念だが、千風の耳には入らない。
「それで、今日も説教しに来たのか?」
面倒くさそうに上体を持ち上げた。
「もう、千風は私のことそんな風に思ってたの?」
「どちらかと言うと、お節介?」
「あんま変わんないね、合ってるけど。そうだよ! 世話のかかる弟がいると私も大変でねー」
「その言い方だと、俺がこのはの弟みたいなんだけど?」
千風の記憶が正しければこのはは一人っ子のはずだ。彼女は無視して話し続けた。
「昔はあんなにちっちゃくて、可愛かったのにな。背も私の方が大きくて……それが今では逆転して、ひねくれて。おまけにやる気もないし? どうしてこうなっちゃったのかな?」
微かに涙ぐんだどこか儚げな瞳で空を見上げ、
「私は知ってるよ、千風が本当は凄く強いこと。優しいこと、いーっぱい知ってる。みんなの知らないことをたくさん、ずっと隣にいたんだもん。だからさ––––」
振り返る。風に煽られた長い髪とスカートがふわり、重力に逆らうように綺麗に舞い上がる。茜色の空の下、逆光を浴びて佇む一人の少女。
既視感を覚える映画のワンシーンのような、けれどそこにいるのは驚くほど顔の整ったたった一人の幼馴染みで……。
ああ、そうだ。俺は彼女の笑顔を守るために今まで戦ってきたんだ。そしてこれからも同じように、彼女を……。大丈夫、まだできるはずだ。彼は自分にそう言い聞かせた。
だから。
彼女の続きの言葉を聞く度胸も資格も、彼は持ち合わせていなかった。
「––––このは、ごめん」
彼は音もなく彼女に肉迫し、首に手刀をトンッと叩き込む。もちろん魔法を使った。相手を瞬時に眠らせる魔法を。
「え? あっ––––」
彼女に言えたのはそれだけだった。
彼は静かに彼女を横たえると自分の制服を覆い被せ、その場を立ち去った。
「俺にはまだやることが……違うな、怖いんだ。だからその先の言葉は聞けないよ」
自分の指で手のひらを突き破ってしまうほど強く握る。みっともなく震えているのがわかる。
そしてチャイムが聞こえた。今の時間にはならないはずの不気味な音。壊れかけのチャイムが、嘲笑うように、如月千風を呼び出した。