その二 真夜中は少し素直になる時間
「……アーシャ?」
静かな、静かな声がした。
ふわりふわりとたゆたう意識が、少しずつ浮かび上がっていく。
のっそりと頭を上げて、目を開けば、真っ赤な花が二輪咲いている。
大好きな大好きな人の色を、私は見間違えたりしない。
「ヴィー……おかえりぃ」
へらり、と働かない思考のまま笑えば、ヴィーはかすかに眉をひそめた。
「寝るなら部屋で寝ればよかったのに」
「待って、たかったんだけど、ごめん寝ちゃってた」
夕飯はいらない。先に寝てていい。
ヴィーはそう言っていたし、それが私への遠慮とかじゃないのもわかってたんだけど。
それでも私は、押しかけ女房として、ヴィーにご飯を作ってあげたかった。
ヴィーにおいしいご飯を作るのは、ヴィーが研究に集中できる環境を整えるのは、十年の間、私の仕事で。勝手に押しかけて勝手に日常を侵略している私の、最低限の義務だと思っていた。
それ以上に、好きな人に自分の作ったものを食べてもらうしあわせは、何にも代えがたいものだったから。
だから、起きて待ってるつもりだったのに、思ったより帰りが遅くて気づいたらうたた寝しちゃってたようだ。
「はい、これ」
テーブルの上に置いておいたプレートを、ヴィーに差し出す。
ずっと目の前にあったっていうのに、ヴィーは初めてその存在に気づいたらしい。
真っ赤な瞳をぱちりとまたたく様子が、なんだかかわいい。
「サンドイッチ?」
「さっき作ったばかりだからまだ新鮮のはず。ラップって便利よね」
ラップもたしか最近発明されたものだった気がする。
それなりに高いもののはずだけど、ヴィーは実験にも使うからって余るくらい買ってくる。
密閉してくれるから乾燥を防げるし、多少保温性もある。料理の保存にうってつけだ。
甘い卵焼きとレタスのサンドイッチも、ホタテのクラムチャウダーも、ヴィーのお気に入りの一品のはず。
「やっぱり、いらない?」
無言でプレートを見下ろしているヴィーに、つい苦笑いがこぼれる。
いらない、っていう言葉が本心だってわかってながら、それでも作ったのはただの自己満足でしかない。
またいらないって言われたとしても、それはしょうがないことだ。
しょうがない、んだけど、悲しいは悲しい。
ヴィーは何を考えているのか読めない無表情のまま、そっと手を伸ばしてきた。
黙ってプレートを受け取って、向かいの席につく。
丁寧にラップを剥がして、手に取ったサンドイッチを口に運ぶ。
その一つ一つの動作を、私はじいっと見つめていた。
ヴィーが、私の料理を食べてくれている。それを見ているだけで心のどこかが満たされるのも、本当の気持ち。
初心に返るべきかなぁ、なんて、内心苦笑していると。
「……おいしい」
むぐむぐと動いていた口から、つぶやきが一つ落とされる。
そのたった一言で天に舞い上がりそうになるんだから、私って本当単純ね!
「ほんと!?」
「うん」
「よかったぁ」
は~、と気づいたら詰めていた息を吐く。
料理は得意だって自負はあるし、ヴィーのご飯を作るようになってからは前以上に努力もしたけど、言葉にしてもらうとやっぱり安心する。
ヴィーはいっつも言葉足らずだしね! いまいち言葉の重要性をわかってないとこあるよね! そんなとこも好きだけどね!
「何が?」
きょとん、とヴィーは首をかしげる。
なんで私がこんなに喜んでるのか、安心してるのか、不思議なんだろう。
私はその問いに、にっこりと笑顔を返す。
ヴィーの言葉が足りない分、私は言葉でも表情でも、惜しまず伝えていきたいなって思う。
「ヴィーが、ちゃんと味わって食べてくれてること。ちゃんと言葉にしてくれたこと」
自己満足でも、ヴィーのために作ったものだから、おいしいって言ってもらいたい。
甘口が好きで苦いものは苦手。スパイスは隠し味としてならOK。やわらかい食感のものを好む。
こだわりがなさそうなヴィーにも、そんなふうに食べ物の好みがあることは知ってる。十年の間にひとつひとつ、言葉にしてくれないヴィーの反応を拾っていった。
毎日の食卓は一番の勝負所だった。戦争って言ってもいい。ヴィーの心の中に領地が欲しいがための。
だから、ヴィーの口から出た『おいしい』は、私にとって勝鬨とおんなじ。
「いつも、味わってるつもりだけど」
「だいたいいつも何かしら考え事しながらだよね」
おいしい? って聞いても、おいしいって帰ってくることは多くない。だいたいはイエスマン。
自主的に言ってくれたことなんか、十年間でも数える程度しかないんじゃないだろうか。
ヴィーも思い当たるフシがあったようで、沈黙が返ってきた。
そうだろうそうだろう。反論できる余地なんてないんだから、おとなしくお縄にかかるがいい。
悪役の気分で余裕ぶっこいてたら、ヴィーは手に持ったサンドイッチを見下ろしながら、ぽつりと。
「……でも、アーシャのご飯がおいしいのは知ってるよ」
ズキューンって、来た。何かわからないけどとにかく来た。
花畑の向こう側で両親が手を降ってるのが一瞬見えたくらいにはやばかった。
まだ聞き慣れない名前呼びに、ちょっと照れたような言い方まで尊すぎて、勝鬨どころか無条件降伏してもいい。
そもそも先に惚れたほうが負けなんだから、最初から私に勝ち目があるわけなかったね!
「え……えへへ……ならしょうがないかなぁ……」
デヘデヘとゆるみきった顔は、しばらく直りそうにない。
当社比ではあるけども、デレの割合は確実に増えてきてる気がする。
わかりにくくっても、言葉が足りなくっても、想いの比重が偏ってても、両思いは両思いなんだし。
ヴィーの専属おさんどん係でも、わりと幸せかもしれないなぁ。
なんて、思ったこともあったりしましたが。
んなわけないじゃん!!!
あっぶない危うくごまかされるところだった……。
私は、ヴィーと、ちゃんとした恋人同士になりたいんですっ!