始まりはふわふわのパン
ヴィー視点です。広い心と深い愛で全部受け止めて……くれたらうれしいです。
パンがおいしかったから。
たった、それだけの理由だった。
手荒れの対処法を教えたのも、それなりに高価な油を無償で譲ったのも、押しかけてきた彼女を追い出さなかったのも、そのままずるずると家に置いていたのも。
本当の本当に、それだけだった……はずだった。
僕にとって人間は、誰もが記憶に残ることなく通り過ぎていく存在だった。
魔法使いという存在が、普通の人間とは相容れないものだとおぼろげに理解していた。
僕に親というものがいたのかどうかも定かじゃない。気づいたときには一人だった。一人で生きていけるだけの力が僕にはあった。
それを魔法と意識することもなく操って、ただただ興味の向く植物とだけ戯れる日々を、たぶん百年以上続けていた。
研究のために、必要最低限だけ人間と関わる。そうしているうち、西の森の隠者とか賢者とか守り人とか、いつのまにか好き勝手に呼ばれていた。
どうせ百年も生きられない彼らだ。次に人里に降りたときにはもう土の下で眠りについているかもしれない。
顔も、名前も、会話の内容も、何ひとつ記憶にとどめておく必要なんてない。
僕の世界は平面だった。山も谷もなく波風も立たず。それに特に不満もなかった。
そうやって、ずっと生きてきた。
だから、彼女の第一印象なんてものも特に覚えてはいない。
必要になったから知り合っただけ。必要になったから話しただけ。
ただ、ふんわりとやわらかなパンの優しい甘みに、それほどグルメというわけでもない自分の舌が反応したのは、少し予想外で。
手荒れを改善できる花の油を無償で渡したのは、本当に久々に研究以外で心を動かされたお礼でもあったかもしれない。
まさかそのお返しが押しかけ女房とは、一番の予想外だったけれど。
きっとそれだって、またすぐに通り過ぎていくものだと、そう、思っていた。
そもそもが百年以上も歳を重ねている僕からしてみたら、十代の少女なんて赤ん坊のようなものでしかなくて。
好意を持たれるようなことをした覚えもないから、好きだなんだと言われても意味がわからなかったし、応えるつもりもさらさらなかった。
実のところ、“好き”という感情も理解できない。理解したいと思うほどの興味もないのだから、平行線でしかない。
毎日作ってくれるご飯がおいしかったから。欲しいタイミングで淹れてくれるお茶もまあ及第点だったから。彼女が家のことをしてくれると研究の時間が増やせるから。
面倒になったらいつでも追い出せるし、と100%損得勘定で、彼女の存在を許容した。
傍にいることを許容した人間は彼女が初めてだということに、そのときの僕は気づいていなかった。
一年が経って、二年が経って。
三年が経って、四年が経って、五年が経った。
それでもまだ彼女は僕の家にいた。
このときになると、さすがに、あれ? と思わなくもなかった。
人間にとっての五年が短くない年月であることは、さすがの僕もなんとなく理解している。
百年以上生きている僕からしても、一瞬とは言いがたい時間だった。
五年かけて彼女は僕の生活に紛れ込み、混ざり合い、分離の方法がわからないくらいには日常に溶け込んでいた。
毎日、ふんわりとしたパンを食べて、毎日、研究に没頭して、毎日、ふんわりとした彼女の笑顔を見て過ごす。
最初はまずかったお茶は少しずつ僕好みの味になっていった。彼女の下手な絵が描かれた湯呑みは何を飲むときでも使っている。
僕の中での、当たり前、が姿を変えていることに気づく。
ヴィー、とうれしそうに僕を呼ぶ声に、身体のどこかがざわざわとした。
それでも僕は、まだ自分の気持ちには気づいてはいなかった。
月が空から姿を消し、満天の星の主張が激しすぎる、ある夜の日のこと。
依頼の報酬として受け取った上等な酒が、どうやら彼女には強すぎたらしく。
笑いながら外に出ていったと思ったら、家のすぐ前の木にもたれかかり、すやすやと寝こけていて。
おまけに服は点々と脱ぎ捨てられていて、身にまとっているのは下着と薄手の肌着のみ。
人と関わることなく生きてきた僕は、酔っぱらいの面倒さも、知らなかった。
ただ、一層ざわつく心のままに、彼女へと手を伸ばした。
ヴィー、ヴィー、と甘く響く声に思考は溶けて、僕は彼女が泣いても、最後まで放すことはできなかった。
人を呼ぶ声が変に耳についたのは、連れ立って彼女の村へと行ったときだ。
あまり栄えているとは言えない村だけれど、ここで育てている赤い花はいろんな研究で使うことができる。彼女から買い取ったことをきっかけにして、定期的に状態のいい赤い花を融通してもらっている。
村人の一人が、女性の名前を呼んだ。
それに反応して振り返ったのは、僕の横で村長と話していた彼女だった。
アーシャ。
ああ、そうか、たしかそんな名前だった。
家では僕と彼女しかいなかったから、彼女の名前を呼ぶ人もいなかった。呼ばなくともなんの支障もなかった。
これまでこうして一緒に外に出たときには、きっと今のように名前を聞いてはいたのかもしれないけれど、記憶にはまったく残っていない。
今、その名前を耳が捉えたのは、いったいどういった理由があるのか。
わからない、けれど、きっともう忘れないだろうと思った。
アーシャ。
少しくすんだ蜜色の髪と、それより鮮やかな花のような瞳を持つ彼女の名前。
僕が、生まれて初めて覚えた人の名前。
またひとつ、僕の中に彼女が増える。
名前。年齢。誕生日。
好きな食べ物。嫌いな食べ物。好きな色に好きな花。
人差し指より長い薬指。うなじにふたつ並んだホクロ。触り心地のいい髪の毛の先のほうには少しの枝毛。
僕にだけ向けられるふんわりとした焼きたてのパンのような笑顔。僕を呼ぶときだけ砂糖菓子より甘くなる声。僕を映すときだけ輝きを増す瞳。僕がボタンを外すときに毎回引き結ばれる唇。分け入る瞬間、ぎゅっと力のこもる指先。
ひとつ、ひとつ、アーシャを覚えていく。僕の中に刻まれていく。
胸の奥のざわつきは増していくばかりで、けれどその訳を知るのはなぜか恐ろしくて。
目をそらしたまま、ぼんやりと時間だけは流れていく。
アーシャと重ねた月日が、ゆるやかに重みを増していく。
そうして、その重みに、ついに耐えきれなくなって。
落ちて、割れて、壊れてしまったそれを見て、僕はすべて気づいてしまった。
気づくと同時に味わった絶望感を、きっと僕はこの先一生忘れない。
僕の世界は平面だった。何ひとつとして飛び抜けたものはなかった。
興味のある植物だって、言ってしまえばただの暇つぶしのようなもの。
強く深く心を揺さぶる存在は。いずれ失うくらいなら今すぐ手放してしまおうと思うような存在は。
ふんわりと笑う、おいしいパンを作る、蜜色の髪と花の色の瞳を持つ、アーシャと呼ばれる。
たった、一人だけ。
十年、一緒にいた。
思い返せば瞬きのような時間だったような気もするのに、今まで生きてきた百年よりもずっと重みのある年月だった。
五年も共に暮らしていてようやく名前を覚えるような奴を、十年一緒にいて一度も名前を呼んであげたことのないような奴を、彼女は変わらず慕ってくれた。
きっとアーシャはこの先もずっと一緒にいてくれるだろう。ずっと僕だけを見ていてくれるだろう。
他の、名前も覚えていない人たちとは違う。一瞬で通り過ぎることのない存在。
けれど、アーシャと僕は相容れない。人間と魔法使いは、決定的に、違う。
彼女のずっとは、彼女にとっての“ずっと”だ。
いつかは失われてしまう存在。
それなら、いっそ。
「終わりにしようか」
大きく大きく見開かれるその瞳は、変わらず僕をまっすぐ映していた。