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船乗り猫のアポロ

作者: ポガ

冬の童話祭りに参加する為に書いたお話しです。童話風に(?)やや教訓じみていますが、読んで頂けると嬉しいです。




 昔々、地球とよく似た別の星がありました。

 その星の、とある海のとある船の上で、一匹の猫が働いていました。

 その猫は白と黒の毛並みを持った小柄な猫でしたが、他のどの猫よりもネズミを捕まえるのが得意でした。名前はアポロと言います。


 彼は沢山の船乗り達に愛され、海に愛され、戦いの神様に愛されました。


 いつの日かアポロは『小さき甲板の覇者』と呼ばれるようになり、体の重さと同じ黄金ぶんの価値があるとまで言われる様になりました。海軍の提督や、貿易船団を持つ大商人、お城に住む見栄っ張りの貴族達などがこぞってアポロを欲しがったからです。


 これは大砲の硝煙と大航海の時代を駆け抜けた、1匹の強き猫のお話。





 その時代の海の男達にとって1番恐ろしいものは、紛れもなく嵐でした。では2番目は何かという話しをやりだすと、男達は仕事も忘れてついつい大騒ぎをします。最新鋭のメル式カノン砲が恐ろしいと言う者がいれば、別の者は座礁が怖い、遭難が怖い、船長が恐ろしい、いやいや真夜中の海戦の方が怖い、それを言うなら港娘から貰った時限爆弾が1番怖い。あれやこれやと言い合う内にケンカを始める者も出てくる始末。


 しかし、思慮深い誰かが嵐の次に恐ろしいのはネズミだと言うと、ケンカをしていた者は握手をし、間抜け面の男は股ぐらの爆弾の事も忘れて、そうだそうだネズミが怖いと相槌を打ちます。


 船乗り達はネズミのせいで全滅した船や、半年掛けて運んだ積荷がパアになった話をいくつも知っていました。どれだけ注意に注意を重ねてもネズミは抜け目なく入り込みます。指2本の隙間があればどこにでも潜り込み、停泊中の船に海を泳いで忍び込むネズミすらいるのです。そして侵入に成功したネズミどもはあっという間に繁殖してチームを増やし、大切な食料を荒らし、代えの利かないロープや木材を齧り、最後には疫病を蔓延させて船を滅ぼしてしまうのです。これほど恐ろしいことは嵐以外にはありません。


 その為当時の船には、ネズミを退治する猫が必要不可欠だったのです。

 気の荒い甲板長が新入りの船乗りを蹴飛ばすことはあっても、猫を蹴飛ばすことは決してしません。


 7つの海で最高傑作とまで言われた船乗り猫のアポロは、その気になれば生意気な下級船員のお尻にガブリと噛み付くことも出来ましたが、もちろんそんなことはしません。あまりにも誇り高く、並ぶ者のない強さを持っていたアポロにとって、弱き者などは机や潮風などと大差のない備品や環境の一部でしかなかったからです。




 アポロは小さな船の上で生まれました。その船にはすでに数匹の傭兵猫が住んでいたので、貧弱なアポロの体を見た船員達は、アポロのことを海に投げ捨てようとしました。振りかぶられた男の腕に、もしもアポロが必死になってしがみ付かなかったなら、そこで未来の甲板の覇者の命は終わっていたことでしょう。しかし黒と白の毛並みを逆立たせて一生懸命に爪を伸ばしたアポロは、なかなか根性があるじゃないかとチャンスを与えられました。


 幼くして船上の戦場に放り込まれたアポロは、自分がネズミを狩れなければ生きてはいけないことを、完全に理解していました。他の猫より小さな自分が、どうすればネズミを先に捕まえられるのかを寝る間も惜しんで考え、少しでも体を大きくする為に無我夢中で与えられたエサを食べました。そこはあまり良い船ではなかったので、全員分の猫のエサが桶1つで乱雑に与えられていました。その為アポロは傷だらけに成りながら、我先にと桶の中に頭を突っ込みました。


 小さなアポロは他の猫にいじめられたり、何度か船員に捨てられそうになりましたが、徐々に頭角を現し始めました。ノーベル賞を取ったり立派な大統領になったりする人達を思い浮かべると、子供の頃に何かの障害を抱えていたり、過酷な環境で育った人が少なくないのは、決して偶然ではありません。彼らは子供の頃から、他の人の何倍も生きることに一生懸命だったのでしょう。

 アポロもそれと同じでした。


 やがてアポロは、その船のネズミどもをほとんど1人で狩り尽くす様にまでなりました。


 ネズミに荷物を荒らされることがなくなった船員達はアポロを非常に可愛がり始め、アポロにだけは専用のお皿にエサを山盛り与えて、他の猫には汚れた桶で与えました。他の猫がテーブルの上やベッドに乗ると追い払われましたが、アポロは頭を撫でられました。


 相変わらず小さいままだったアポロはその時に学んだのです。

 自分の役割をきちんと果たせば飢えることはない。それを他の誰よりも上手にやれば、人間すらも自分のことを尊敬し、賞賛を惜しまない。アポロは自分のネズミを狩るという仕事に誇りを持ち、他の事はさておき、狩りに関しては決して手を抜くことはありませんでした。必要ならば三日三晩でもネズミを待ち伏せ、心臓が破れそうになっても走ることを止めませんでした。


 しばらくして、偶然その船に乗り合わせた商人がアポロに目をとめて、銀貨3枚でアポロのことを譲り受けました。数年後その船の男達は『小さき甲板の覇者』は俺達の船で生まれたんだぜと、酒場で自慢する様になりました。そして、たったの銀貨3枚で売ってしまったことを、いつまでも悔しがったそうです。





 アポロの次の仕事場は、世界中の海を航海する中ぐらいの貿易船でした。多種多様な辺境国を回って珍しい品物を山ほど買い付けては、大きな街までそれを運ぶのです。アポロは、何の役にも立たない石ころを(それは宝石の原石でした)人間達が大切に船に積み込むことが少し不思議でしたが、その船でも瞬く間に海の男達に信頼されるようになりました。


 南の海のネズミは凶暴で、人差し指ほどもある残忍な前歯を持っています。徒党を組んで戦いを仕掛けてくる南方ネズミには、さすがのアポロもしばらくは苦戦していましたが、独自の戦い方を見つけてからは、ネズミたちはアポロから逃げ出す様になりました。他の船乗り猫たちもアポロの戦い方をマネし始めたので、貿易船に巣食っていたネズミどもには悲惨な末路だけが待っていました。



 その船に居た頃にこんな事件がありました。


 とある日にアポロがあくびをしながら甲板に出ると、何故だがいつもと様子が違いました。普段はニコニコ顔の太っちょ船長が険しい顔になり、全員の船乗りたちを整列させて怒鳴っているのです。人間の言葉が半分ぐらいは分かるアポロは、退屈しのぎに船長の横に並んで海の男達の不安そうな顔を見物しました。

 どうやら積荷の石ころの数が足りないことに船長は怒っているようです。


 アポロは、たぶん誰かが海鳥を捕まえる為に石ころを投げたのだろうと思いました。それ以外にあの石ころの使い道が思い浮かびません。ああ、ボクにも石を投げることが出来たらいいのにな、とアポロは思いました。


 太っちょ船長は、犯人が名乗り出るのを長い間じっと待っていました。

 お日様も怒っているのか、お揃いのセーラー服をきた船乗りたちに、強い日差しが容赦なく降り注いでいます。滝のように汗が流れ、夏風邪をひいていた数人の男がフラフラとたたらを踏み始めました。

 アポロは、船長の丸いおなかが作る影の中に入って、うつらうつらと眠っています。


 誰も名乗り出る者はいませんでした。船長は意を決したように腰の拳銃に手を置き、体や服を調べるために全員に服を脱いで四つん這いになる様にと命令を出しました。海の男達は屈辱に震え、怒りで目を滲ませながらも仕方なく服を脱ぎ始めます。


 その時、目を覚ましたアポロが船長の前に立ちました。


 そして白と黒の毛を僅かに逆立たせながら太っちょ船長を見つめ、激しい声で「ニャー」と1つ鳴きました。アポロが何故そんなことをしたのか、なんと言ったのかはわかりません。単にお腹が減ったよと言ったのかもしれません、船長の影が動いて日差しが当たったことに怒ったのかもしれません、あるいは誇り高き海の男達に同情をしたのかもしれません。


 船長は少し驚いた後で、不快感も露にアポロを睨み付けました。しかし気持ちを押さえ込む様にきつく腕組みをし、心の中で色々な物事を天秤に掛け始めました。太っちょ船長は決して無能な男ではなかったのです。やがて少し表情を緩めた顔でアポロのことを見てから、大きな声で言いました。


「いいだろう。猫に免じて、宝石を盗んだ者にチャンスをやろう。もし今日中に自分から名乗り出れば、本来の刑罰よりは軽い罰で済ませてやろう。だが名乗り出なければ、例え全員が港の目前で餓死することになったとしても、追求はやめないぞ」


 船長はそれだけ言うと、踵を返して部屋に戻っていきました。


 パラソル代わりの船長がいなくなってしまったので、アポロは食堂で肉の切れ端でも貰えないかなと期待して歩き出しました。タフな海の男たちが大切な仲間を見る目付きでアポロを見送っていたことに、アポロは気が付きませんでした。



 その日の夕方、船長室に名乗り出た宝石泥棒は死刑は許されて、10の棒叩きと片耳を削ぎ落とされただけで、船に残ることが出来たそうです。


 貿易船に数年間いた頃に、誰かがアポロのことを『小さき甲板の覇者』と呼び始めました。ネズミの被害に悩んでいた船の持ち主たちがアポロの噂を聞きつけて、二ヶ月でいいからアポロを貸してくれと頼みに来るようになったため、アポロは色々な船に乗ることになったのです。




 高度な技を持つ職人として、アポロは船から船へ渡り歩きました。カボチャを満載にした商船や、カボチャの様な金持ちを満載にした豪華客船、最新式の風神魔法石を積んだ高速漁船(これはアポロのお気に入りでした)そしていくつかの軍船。

 どの船でもしっかりとネズミを殲滅して、惜しまれながら次の船に移ります。

 その時期に、アポロは様々な冒険をしました。


 船を襲ったワイバーンと知恵比べをしたり、探険船の男達と一緒に無人島の迷宮に出かけたこともあります。乗っていた客船が海賊団に襲われて、なんとキャプテン・スパイラルの船にしばらく居たこともあるのです。その時には、海賊たちの宴席の見世物として様々な猛獣と一対一の決闘をさせられました。謎とされている大海賊スパイラル船長の突然の死は、実はアポロの仕業なのです。


 沢山の出会い、いくつかの恋。『西のスピードスター』と呼ばれていた、アポロと同等の力を持つ船乗り猫との、数度にわたるネズミ狩りのバトル。戦艦クルバルスの甲板で行われた御前試合では、世界中の人々が固唾を呑んで勝負を見守りました。


 しかしそれらの物語りは、また別の夜に話すことにして、話しを進めましょう。






「へいキャノンボーイ、ハムでも食うかい?」


 甲板で壁に寄り掛かってサンドイッチを食べていた黒い肌の男が、アポロを呼び止めました。アポロは口の中に涎が溢れ出るの感じましたが、わざと素っ気無い態度を取ります。


「さあ食べておくれよ、リッチボーイ。俺の作ったハムの感想を聞かせておくれや」


 アポロは仕方ないという顔を装いながら、小走りで男に駆け寄りました。


 この男は黒い肌の人間でしたが、弱き者ではないことをアポロは知っていました。他の黒い肌の人間はほとんどが弱き者です。なぜだかは分かりませんが、黒い肌の人間は他人に蹴っ飛ばされても文句を言わず、掃除や単純な力仕事しか出来ないのです。でもハムをくれたこの男は、誰にも真似できない様な美味しい料理を作るので、船乗りたちにコック殿、コック殿と尊敬されています。

 物を知らない新入りが、いつもの調子でコック殿の黒いケツを蹴っ飛ばそうものなら、ベテラン船員たちがそいつを海に放り投げるでしょう。


 アポロにしては珍しいことですが、この男には好意を持っていました。海軍の旗艦であるプリンスモイラ号には千人近い人間と沢山の船乗り猫が乗っていましたが、アポロとコック殿は共に有名人です。コック殿はハムのないサンドイッチを食べながら、アポロに話しかけます。


「なあバトルボーイ、もうすぐバッカでかい海戦がはじまるぜ。こっちが300隻で向こうが280隻、大砲の数を全部足したら5000門を超えるかもなあ」

「……」

「まあ俺達には関係ないやな、ゴールデンボーイ。ただ自分たちの仕事をやるだけさね。お前さんがいるから、俺は安心してハムを作り置きすることが出来るのさ」


 コック殿は手を伸ばして、アポロの白と黒のおでこを優しく撫で上げました。プリンスモイラ号でアポロのことを気安く撫でることが出来るのは、コック殿と提督と大砲長の女性将官のたった3人だけでした。


 やがてコック殿の言った通り、トライベルガー岬から二日の距離の海域で前代未聞の大海戦が始まりました。




 それは国と国との命運を掛けた、その後の世界地図の色を決める戦いでした。両軍とも士気が高く、中距離からの大砲の打ち合いがいつもでもいつまでも続きました。アポロの乗っていたプリンスモイラ号も多くの弾が被弾して、甲板は血で汚れ、硝煙が霧の様に立ち込めました。大砲の弾を運んでいた少年兵が右足を吹っ飛ばされ、タフな男達が次々と死んでいきます。


 太陽が、海のベッドに手を掛け始めた頃に、全軍の指揮を副官に任せた提督が甲板に下りて来ました。提督は見事な髭が火の粉で燃えるのも構わずに、世話係りの士官と従軍記者だけを連れて、兵隊たちを鼓舞して回りました。疲労で動きの落ちていた男達が最後の力を振り絞ります。


 とても広い甲板を悠々と一周した提督は、奇妙なものに目を留めました。

 最初は部下の血塗れになった死体の一部かと思いましたが、近づいてよく見ると生き絶えたネズミどもの小山でした。


それはアポロが兵隊の邪魔をしないように注意しながらも、狩りをし続けた一日の成果でした。


 普段は奥深くに隠れているネズミどもが大砲の被弾に驚いて飛び出したので、アポロにとっては素晴らしい一日でした。しかしいつもならば一匹ネズミを捕らえると、将官の足元や膝の上に死骸を放り投げて報告をするのですが、今日はみんなが忙しそうなので、仕方なく甲板の隅に積み上げていたのです。


 提督がまじまじとネズミの山を見ていると、ちょうど新しいネズミを捕まえたアポロがやって来て、よっこらしょと山に加えました。提督がガッハッハと大声で笑います。

 何事かとアポロが提督を見上げていると、あちら側から悩んだ顔のコック殿が歩いて来ました。


「あのう提督様、お邪魔して申し訳ないのですが……」

「なんだ」

「実は夕食の仕込みがほぼ終わったのですがソースを何にするか迷っていまして、提督様のご意見を頂戴してもよろしいでしょうか」


 提督は鬼の様な顔でコック殿を睨み付けてから、一転してニッコリと笑いました。


「では、スペンムージュ風のソースにしろ」

「かしこまりました」


 それは交戦中の敵国の郷土料理のソースです。船長はもう一度大きな声で笑うと、後ろに控えていた士官を呼び寄せて、指示を出しました。それはアポロの戦果と旗艦の晩御飯のメニューを、全軍に伝えろと言う命令でした。従軍記者が転写石のカメラをいそいそと構えて、写真を撮ります。


 記者が撮ったのは、ネズミの山の前で煙たそうに目を細めるアポロと、満足げに笑う提督が横に並んだ写真でした。



 暗くなり始めた頃についに歴史的な大海戦の決着が付きました。プリンスモイラ号の大砲が相手国の旗艦を撃沈し、新しい時代の幕が切って落とされたのです。次の日の世界中の新聞の一面は、プリンスモイラ号の雄姿で飾られました。そして、多くの新聞ではその裏側に、白と黒の小さな猫の姿が載ったのです。新聞には『小さき甲板の覇者と1人のコックが自分の役割を果たし、全軍の士気を大いに上げた』そんな風に書かれました。


 海の男達ならば知らぬ者のいなかったアポロですが、この日を境に陸の者たちもアポロの名前を知るようになったのです。しかし、それはアポロにとってはあまりよいことではありませんでした。





 いよいよ名声の高まったアポロは、王族に連なる大貴族の城で暮らすことになりました。提督はアポロを手放したくはありませんでしたが、王家の威光をかざされては仕方がなかったのです。


 アポロにとって始めての陸上での生活は、何1つとして不自由のないものでした。朝昼晩と豪勢な食事がアポロの前に運ばれて、清潔で暖かい部屋でいくらでも眠ることが出来ました。専属の世話人がアポロに付き従い、毎日欠かさずに毛並みの手入れをしました。


 最初のうちはご馳走を食べて眠るだけの暮らしを、アポロは満喫していました。

 でも休息を終えた戦士が剣を再び手にする様に、やがてアポロはネズミを探してお城の中をうろつくようになりました。しかし居るのは沢山の使用人ばかりでネズミは一匹もいません。ある日、やっと見つけたネズミを口に加えていると「もうそんなことをする必要はないのよ」とメイド長にたしなめられてしまいました。


 アポロは何もやることがなくなりました。唯一の仕事といえば、城の主人が毎週開く煌びやかなパーティーで見世物になることだけです。純金と宝石が散りばめられた檻の中に閉じ込められて、テーブルの上に飾られました。


 お城での暮らしが長くなるにつれてアポロはだんだんと痩せ始めました。もうどんなご馳走もアポロの興味を引くことはなくなりました。

 何度か脱走を試みましたが、高い城壁と監視の兵隊によりそれは叶いませんでした。そのうちに部屋に鍵が掛けられるようになり、アポロは目をつぶってほとんど身動きすらしなくなりました。


 何人かの獣医が診察にやってきましたが、誰もアポロの衰弱の原因が分かりません。

 小さき甲板の覇者と呼ばれ、黄金と同じ重さの価値があったアポロの体は、どんどんと痩せて小さくなっていきました。そのお城には何一つとして不自由はありませんでしたが、もっとも大切なものが1つ欠けていたからです。


 それは、アポロが持てる力のすべてを注ぎ込んできた、ネズミを狩るという生涯の仕事でした。


 誰かから仕事や役割を奪うということは、単にパンを買う為の銅貨を奪うだけではありません。仕事を奪うということは誇りを奪うことと同じです。そして誇りを奪うことは命を奪うことと同じなのです。


 仕事を奪われたアポロの小さな命は、冷たい床の上で少しずつ少しずつ死に向かっていきました。





 その夜、小枝のように痩せた少女がアポロの部屋を訪ねました。


 その少女は城の持ち主の3番目の娘で、アポロがこの場所で心を許した唯一の人間でした。でも少女はとても病弱で、ベッドから起き上がれる日がほとんどありませんでした。体調の良い日にアポロに会いに来ることが、少女の数少ない生きる喜びだったのです。


 金色の髪の毛と水色の目をした少女が手を伸ばすと、アポロは少女の指をペロリと舐めましたが、すぐに力無く目を閉じてしまいます。少女はしばらくの間、愛しげにアポロの頬をくすぐっていました。


「あなたの苦しみが分かるのは、きっとお城で私だけだわ。お父様にあなたを海に戻して欲しいと何度もお願いしてみたのだけれど、聞いてはくださいませんでした。お母様が亡くなって以来、あの人は誰の言うことも、もはやまともには聞いていないのです。無力な私のことをどうか許してね」


 少女はそう言うと、アポロの痩せた体を抱き上げました。そして寝静まった夜のお城の中を、足音を立てないように裸足になって走り抜けました。アポロは、少女の胸の温かさを感じながら、うつらうつらと夢を見ています。


 凍えるような寒さでしたが、少女は一生懸命に走って、お城にある秘密の裏口に辿り着きました。でもあまりの息苦しさと眩暈のせいで、冷たい土の上に突っ伏して動けなくなってしまいました。たったそれっぽちの距離を走ることが、病弱な少女にとっては大変なことだったのです。


 目を覚ましたアポロは、友達の少女が苦しんでいることに気が付いて、誰かを呼ぶ為に立ち上がりました。しかし、そんなアポロを少女が呼び止めます。


「いいのアポロ、私は大丈夫よ。それよりもよく聞いてね。そこの扉の向こうにある細い道を真っ直ぐに抜けると、森に出るの。そこはもうお城の外よ。何日掛かるのかは分からないけれど、お月様の沈む場所を目指して進んでいけば大きな港に着くはずよ」


 少女はなんとか体を起こすと、食料の入った風呂敷袋をアポロの背中に結び付けました。


「ごめんなさい、他にもっといい方法があれば良かったのだけれど……さあ、行って『小さき甲板の覇者』は海に戻るのよ」


 アポロは少女のことをじっと見つめて動きませんでした。少女は早く行けと何度もいい、それでも行かないので石を投げ付けましたが、アポロは微動だにしません。少女の口の端から大量の血が流れていたからです。

 やがて覚悟を決めたアポロは、月に向かって大きな声で鳴きました。


 喉が潰れるのも構わずに、森の獣さえも怯えるような声色で鳴き続けました。

 お城の窓のいくつかが開き、うるさい猫のことを見下ろしました。アポロと少女は見つめ合い、少女は震えながらもにっこりと微笑みました。そして少女も掠れた声で猫の鳴きまねをしました。


 こちらに駆け付けてくる誰かの足音が聞こえた時、アポロは鳴くのを止めて、自由に向けて全力で走り出しました。





 アポロは昼も夜も走り続けました。森には海とは違うルールがあったので、アポロは何度も危険な目に会いました。ガラガラ熊の縄張りを通り抜け、流れの速い川を泳いで渡り、立ち寄った街で食べ物を盗みました。薄汚れたアポロを見た街の人間達は、顔をしかめて悪態をつきます。


 喉がからからに渇くまで走り続けて、葉っぱに溜まった雨水を飲んで再び走り出します。アポロは走りながら海のことや船乗りたちのことをずっと思い出していたので、潮の匂いがした時は自分が匂いまで想像したのだと思いました。しかしどんどん強くなる海の匂いは、もう勘違いではありません。

 アポロはついに港に辿り着いたのです。




 葉巻を咥えた船乗りがみすぼらしい猫を一瞥しました。

 やたらとうるさく鳴いているので、ポケットの干し肉を投げ与えましたが、猫は見向きもしません。船乗りは舌打ちをして立ち去りました。今にも死んでしまいそうなぐらい貧弱なその猫は、通りを歩く船乗り達にニャーニャーと何かを訴えかけていますが、誰も見向きもしません。


 通りの向こう側から、両手一杯に紙袋を抱えた男が歩いて来ました。

 その男は黒い肌をしていました。

 男は必死に鳴き続ける白と黒の猫に後ろから近づくと、驚いた声で話し掛けました。


「なんてこった……久しぶりじゃないかキャノンボーイ、お前さんがいなくなってから俺の特製ハムがえらい目にあったんだぜ……でもハムなんてどうでもいいのさ、会いたかったよアーネストボーイ(ひたむきな少年 )





 アポロは再びプリンスモイラ号の船乗り猫に戻ることが出来ました。


 これはアポロの知らないことですが、小さき甲板の覇者が船に戻ったことは徐々に世間に広まっていき、やがて持ち主の貴族の耳にも入りました。持ち主は返還を求めようとしましたが、アポロのことを逃がした幼い姫が短剣を自分の胸に当てて懇願したおかげで、アポロは船に残れることになったのでした。


 アポロとお姫様の脱出の物語りは、酒場や井戸端や子供が眠るベッドの傍らなどで語られていき、新聞に載ったり学芸会で演じられたりするようになりました。


 また、世の中の急激すぎる変化についていけずに、先祖代々の畑を失った農民がその時代には沢山いたのですが、アポロに勇気を貰った彼らは皆で集まってデモ行進をしました。

 アポロの似顔絵が描かれた旗と『無料のパンはいらない、我らに仕事と誇りを返して』というプラカードを掲げて、アポロが走った距離と同じ距離を行進しました。

 しかしこれもアポロの知らないお話です。



 アポロはプリンスモイラ号で幸せに暮らしました。


 コック殿や家族同然の海の男達と仕事に励み、お腹一杯にご飯を食べて眠りました。アポロはとてもとても幸せでした。相変わらず船乗り猫のエースの座は誰にも譲りませんでしたが、色々な経験をしたアポロは少しだけですが考え方が変わっていました。


 以前のアポロにとっては、強さだけがもっとも大切なことでした。ネズミを狩れない弱き者は生きる価値がなく、物事の多くを勝ち負けだけで考えていました。しかし今のアポロは、ぼんやりとですがこんな風に思っています。


 自分は沢山の人達に生かされている。自分を逃がしてくれた少女や自分を褒め称えてくれた船乗り達、コック殿にいろんな船の船長達。いくらネズミを捕まえても、見ていてくれる人がいなくては何の意味もないのです。そして、自分に好意を抱き、困った時に力を貸してくれた人の多くは、自分が強かったから助けてくれた訳ではなかったのです。

 自分が弱く、それでも一生懸命やっていたから助けてくれたのです。


 アポロはそう思うようになっていました。


 新入りの船乗り猫が入って来た時は、アポロはネズミの狩り方を教えてやり、下っ端船員が話し掛けてきた時も(しぶしぶですが)相手をしてやるようになりました。コック殿以外の黒いケツの男達ともずいぶん仲良くなりました。


 強く、気高く、優しさまでも手に入れたアポロでしたが、いざネズミどもが現れた時は、仲間を押し退けてでも夢中になって狩りをしてしまうのでした。そんなアポロを見て仲間たちは親しげに笑うのです。


 アポロはとてもとても幸せでした。




 これは大砲の硝煙と大航海の時代を駆け抜けた、強き、そして弱さを知った一匹の猫のお話。



 おしまい





読んで頂き、ありがとうございました。


実は、もう1人のアポロが登場する長編を連載中です。そちらでは主人公とアポロのコンビがモンスターと戦います。だいぶ雰囲気の違う作品ですが、ぜひそちらの方もよろしくお願い致します。


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― 新着の感想 ―
[一言] ツイキャスラジオ内の、読み聞かせ企画で紹介させていただきました。練習不足で噛んだり読み間違えたりしてしまいましたが、こちらで報告させていただきます。
[一言] 貴族のところに行ってネズミをとらなくなったらぶくぶくと太っていくのかなと思っていたら、まさかの逆の結果でした。 昔のゲームのセリフに「生きていない、死んでいないだけ」というものがあります。…
[良い点]  読み終わってじ~んと来る、とてもいいお話でした!  気まぐれでプライドが高くて、いつでも自分が世界の王様だと思っているネコの雰囲気が全編通じてすごく伝わってきます。  アポロの行くところ…
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