プロローグその2
そんな乙女は私、神石奈々。明日で華の二十歳になる、小さなパン屋でバイトする頑張りやさんだ。
容姿は美男美女の両親の血を受け継いで……いるかもしれない身長150センチと小柄で、母親似の幼顔。長かった黒髪は最近ショートボブにヘアチェンジしたけれど、真っ黒の目は純日本人そのものだ。
小さい店構えにもかかわらず結構な客層に恵まれているのは、叔父さんと亡き父の妹の秋子叔母さんが営んでいるパン屋さん。黄色いペンキで壁を彩り、パンの甘い香りとキュートな看板娘のおかげで今日も繁盛万歳だ。そして今日も叔父さんと楽しく口喧嘩し、秋子叔母さんと他愛もないおしゃべりをしながら住宅街のど真ん中を陣取る小さなパン屋で売り子に勤しんでいた。
それもあと数十分で終わりを告げる頃、秋子叔母さんに明日の予定を何度目だろう話を持ちかけられた。
「奈々ちゃん、本当に明日は来ないの?一人で寂しくない?やっぱり心配だわ、明日は私もお休みしていいかしら」
「秋子叔母さん、私明日で二十歳だしね。ご飯もちゃんと食べるし心配し過ぎ。叔母さん休んだら店に誰が出るのよ。叔父さんが店に出たらお客さん居なくなっちゃうじゃない」
過剰なまでに心配する秋子叔母さんを落ち着かせようと、叔父さんに応援を頼むために視線を動かせばこちらも眉間に皺を何本も寄せ、渋顔を私へと一直線に向けていた。
「ちょっと叔父さんまで!大丈夫だから!何かあったらすぐ連絡するし、明後日はここに来るんだから」
渋顔を崩さない叔父さんを説得しつつ、一人にさせまいと奮闘する秋子叔母さんを宥めながら今日の晩御飯にと物色中の惣菜パンをトレーにのせようとしていた手を止め、早急にバイト終了の時刻がくることを黄色い壁に掛かる時計へ念を送る。少しだけうんざりとしながら、それ以上に叔父と叔母の愛情に感謝しつつ、窓に浮かぶ真ん丸のお月様に切に願った。
早く帰りたいと。
親もいなければ賑やかな兄弟もいない。
でも、寂しいなんて思ってる暇もないくらいだ。むしろ甘味を餌に私を連れ出し、ちょっと今日は勘弁してよと思うくらいに秋子叔母さんとその旦那様の叔父さんが可愛がってくれている。
高校を卒業して大学に入学し、慌ただしさも落ち着いた頃だった。大好きで大好きで優しかった両親は高速の追突事故に捲き込まれ、呆気なく死んでしまった。
なんで私の両親なんだろう。
この広い世界の中で、優しくて一人っ子の私を過保護なくらいに可愛がってくれた大好きなお父さんとお母さんが。
泣いて泣いて泣いて。
気がつけば通夜も葬式も何もかも、唯一の親戚、秋子叔母さん夫婦が段取りをしてくれていた。
両親が残してくれたのは私には余るほどのお金。
秋子叔母さんに形見分けをして、生活に困らないほどの荷物を持って私は秋子叔母さんの住むパン屋の近くにある小さなアパートを借りた。
一人で住むには広過ぎる二階建の一軒家、免許を持っていないのに8人乗りの大きな車、両親が使っていた家財家具などは全て売った。
そこまでしなくても、と秋子叔母さんは言ってくれたが、そこまでしなくては私がダメだった。
もう居ない両親の面影にすがって泣いて、何も出来ないダメな子になりたくなかった。
何よりもの凄く、私より顔色悪く痩せ細るまで心配してくれた叔父さんと、痩せていく私と叔父さんを見ては涙ぐむ秋子叔母さんを心配させたくなかったから。
家から二駅ほどにある大学は辞めた。かなり……いや、もの凄く勉強して受かった大学だったのだが。わりと守銭奴な私、両親の残してくれたお金を使うのは嫌だった。
叔父さんには猛反対されたが、パン屋の看板娘として毎日手伝うことを条件になんとかクリアした。もちろんバイト代はしっかりといただく。お金は一先ず生活に困らない程と、引っ越しにかかる費用を残して後はパン屋の金庫に入れてもらった。
秋子叔母さんと叔父さんに毎日心配され、ご飯を食べないと子供みたいに叱られる。本当の娘のように接してくれたおかげで私は今日も生きている。ありがたい事だ。
「だから本当に遠慮なんかしなくていいのよ?」
「奈々」
「本当に大丈夫だから」
何度目かの問答を繰り返す。叔父さんが寂しそうな表情で見つめてくる。いつの間にか眉間の皺は解れていたのは幸いだが、厳つい眉毛がハの字に下がるのに少しだけ胸にチクンと刺さる。
ここまで過保護になるのも私の可愛らしい背格好と童顔のおかげなのか。叔母夫婦にとっては、どうやら私はまだまだ頼りない子供に見えるようだ。
これに至っては叔母夫婦に限らず、普段からパン屋のお客さんや宅配のおじさんにうんざりするほど本気で子供と間違えられていた。そんなかなりの確率で子供に見られてしまう私は、そう見られることに慣れてしまっているとはいえ、子供扱いされることに抵抗を感じないわけではない。
しかし子供がいない叔母夫婦。二人は両親が健在な頃から可愛がってくれ、両親が亡くなってからはきっと本当の両親のように、いやそれ以上に過保護になってしまった。そんな二人だからこそ、私も甘えてしまう。
しかし、そんな二人にしてしまったのは他でもない私の所為であるから、今までは二人を安心させたくて言うことを聞いてきた。
両親が亡くなってから、誰にも会わず大きな家に一人引きこもり食事も取らず、二人に発見された時には泣くことも出来ず放心状態でいたところを保護された。気付けば一人で立つこともできなくなるほど痩せ細っていた。所詮栄養失調というやつだ。
二人が見付けてくれて、私は叔父の車で病院に運ばれた。
秋子叔母さんは目が無くなるくらいに号泣しながら、一人にしてごめんねと謝り続けた。
叔父さんは顔と目を真っ赤にしながら、耳を塞ぎたくなるほど怒鳴り怒った。実際叔父さんの剣幕に吃驚し過ぎて本当に塞いだが。でも、私を抱きしめるその腕は、当分離れることはなかった。
あぁ、私は一人じゃなかった。まだこんなにも心配してくれる叔父と叔母がいたじゃないか。
……でも、基本一人でマッタリすることが好きな私は、たまには一人でのんびり過ごす時間も欲かったりするのだ。
高校の頃からなんとなく腐れ縁の友達はいるし、たまには素敵カフェでお茶をしたりもする。休日に一人暮らしのアパートで陽当たりのいい窓際の畳に寝そべり、読書をするのもありだ。
たしかに一人では一食二食抜かすことはあるが、前の時のようにはならないように気を付けてはいる。
一緒に暮らそうと、一緒においでと手を伸ばしてくれた優しい叔父と叔母。半分だけ指を緩く握り、パン屋にほど近い1DKのアパートに一人暮らしをすることを私は選んだ。
一緒に暮らしていたら賑やかで毎日が寂しくないだろう。しかし、それこそ優しい秋子叔母さんの温かな食事と口煩いがちまちまと食事している私を見ては目を細める叔父さんに甘やかされて、きっと一人では生きていけなくなっていたかもしれない。
「だから、明日は大丈夫だからね。心配しなくてもご飯はちゃんと食べるし、買い物にも行きたかったし。たまには二人でのんびりしてよね」
「奈々ちゃん、何かあったら電話してね。明日は楽しんで。……一日早いけど、お誕生日おめでとう」
どうにか諦めてくれたらしい秋子叔母さんはエプロンのポケットからそっと小さな四角い箱を取り出すと、手に持っていたトレーを引き取り、空いた手に箱をゆっくりと置く。
「わぁ!今開けていい!?」
ガサゴソときれいに包まれた包装紙のシールを丁寧に剥がし、可愛らしい箱の蓋をゆっくりと開ければ、そこには光輝きそうなほどの白い真珠を一粒ほど付けているネックレスが入っていた。
「すごく綺麗。秋子叔母さんありがとう!」
「それ、奈々ちゃんのお母さんの形見分けでもらったネックレスの一部なのよ。紐が切れていたのね、頂いた時には真珠がバラバラになってて。処分してしまおうと思ったんだけど、その真珠だけ凄く綺麗だったの。奈々ちゃんにいつか渡したくてね」
ネックレスにしてみたのよ。遅くなってごめんね。と秋子叔母さんは少し申し訳なさそうに話してくれた。隣では叔父さんが早く付けろとばかりに大きな手で慎重にネックレスを箱から出し、不器用ながらも鎖を私の首に付けてくれた。
「奈々、似合うよ」
「叔父さん、秋子叔母さん、ありがとう。本当にありがとう!」
形見分けでお母さんの宝石類はすべて秋子叔母さんに譲ってしまっていたので、今更ながら叔父さんと秋子叔母さんの心使いにとても感謝した。
お母さんを思い出してしまうからと自分から遠避けていたあの頃の私は本当に馬鹿だ。大馬鹿者だ。
「大切にする。毎日付ける。絶対に外さなっ、」
最後は声にならなかった。涙という目からの大雨が邪魔をしたのだ。泣いたのなんて何時ぶりだろう。それに感染したかのように叔父さんと秋子叔母さんと三人で、暫く優しい雨を降らし続けた。
暫く泣き続けた私達は漸く解散となり、私もアパートに帰ることができたのだった。
暗い夜道もほんわか暖まった心で寂しくなんてない。ちょっと顔が粉だらけだけど、秋も深まり夜は冷たい空気で浄化され手が冷たくなってるけど、ここにお母さんがいる。
首の少し下くらいで揺れている真珠の粒を指先で撫でながら、私の小さな脳は誕生日の予定と鼻歌ご機嫌メロディーで埋もれ、慣れた街並みと街頭の下をのんびりと歩く。
あと少し、あの角を曲がり赤い屋根の可愛らしい犬小屋の前を通り過ぎ、滑らかなアスファルトの上をまっすぐにひたすら歩いていればアパートに着くはずだった。
赤い屋根がよく似合う、その可愛らしい家の持ち主の人懐こいわんこはおかえり!と尾っぽを振ってくれる可愛らしい柴犬だ。
漸くわんこの家の前までたどり着き、今日もほんの少しだけお話をする。長話して不審者通報されたらいけないしね。
「今日も私頑張ったよ。今日は素敵なプレゼント貰ったよ!」
見て!素敵でしょ!と真珠をかざしてみれば、良かっね!とばかりにキュンキュン鳴いて尾っぽを振ってくれる。本当に可愛らしいわんこだ。
そろそろ帰ろうかと財布と携帯の入った小さな鞄と、叔父さん力作のパンが入ったビニール袋を片手に持ち、もう片方の空いた手でわんこのふわふわな耳を撫でようと手を伸ばした時だった。
「うわわ!な、なに?……え--ちょ、うわっ--」
キーーン……キーーン……
突然の耳鳴りと目眩に私は強く目を瞑り、何故か遠くに引っ張られる感覚に身を震わせた。思わず両腕で自分の身体を抱き締めて、アスファルトの上に蹲った時だった。
「--ワンワンワ……ワ--…」
え--…?
目の前にいるはずのわんこのけたたましく吠える声が、何故か遠くに聞こえる。
秋の夜空が静けさを呼び戻すそこには、赤い屋根の可愛らしい家の持ち主の柴犬と、私が手に持っていたはずの小さな鞄と叔父さん力作のパンが入ったビニール袋だけが残され、私の姿は多分もう、どこにもなかった。