第2話:ウォスリー漂流記~前編~
目を覚ますと極寒の寒さに襲われた。寒い。ここはどこだろう。いつの間にかベッドに横になっているようだ。コンクリートに囲まれている部屋……いや、これは俗に言う牢屋というものだろう。正面には鉄格子が張ってあった。誰かに捕らえられてしまったのだろうか。目は覚めたが何一つ記憶が戻ってこない。
ベッドから立ち上がり、ボーッとしていると鉄格子の向こうに人が見えた。
男の子である。13歳ぐらいの子供だろうか? 分厚い上下茶系統のつなぎを着用して、腕を組み、こちらを悠然と覗くサマはまるで軍人だ。金髪の髪は長くなっていて邪魔だからか、オールバックにして後ろで一つに括っている。そのおかげで顔がハッキリと目に写る。青い瞳が愛くるしく、可愛らしい顔をしている少年である。しかしこの状況、決してこの少年を馬鹿にしてはいけないようだ。鼓動が次第にドクドクと高鳴りを始める。そうである。自分は今捕らえられているのだ。そう肝に銘じた瞬間に、小さな軍人が話かけてきた。
「名前は何だよ?」
「へ?」
「名前は何だと聞いているんだ。言葉がわからないのか?」
「いや……その……じ……自分が誰だかわからなくて」
「記憶障害なのか? 本当に何もわからないのかよ? 年齢は?」
「多分18歳かと思います!」
「…………」
看守の少年が首を傾げた。ここには鏡もないので自分の姿を確認できないが、何故だか自分の年齢は即座に答えることができた。完全に記憶がなくなったワケではないようだ。それにしてもここがどこで、自分がいつ生まれて、今まで何をしてきたのか全く思い出せないのは不思議な感覚である。
「お腹は痛くないか?」
「はい?」
「痛くないのか? たいしたヤツだ。リンの蹴りを喰らって痛みもないなんて」
「え? 僕蹴られたのですか?」
「ああ。敵だと思ったらしいぜ。ただでさえ警戒心の強い女だからな」
「そんな……どこも痛くなんか……」
薄手のシャツを1枚捲りお腹の状態を見る。特に変わった状態ではなさそうだ。それよりも、こんな寒いところにシャツ1枚と適当な下着とズボンでいることに改めて何とも言えない侮辱感を感じるハメにあった。まるで囚人。しかも酷い待遇だ。鉄格子の方に視点を戻すと、小さな軍人は腹を抱えて無言でケラケラと笑っていた。先ほどまでの硬い表情ではなくなっている。
「おいおい、痛くもないのにわざわざ確認なんかするのかよ?」
「いや、怪我とかしてないのかと思って……」
「ああ。心配はいらないな。おそらくお前も“旅人”なのだろう」
「旅人?」
「感じからして……にしても、いきなり蹴りの洗礼をくらうとは災難だなぁ」
「あの旅人って何ですか? 何がなんだかわからないですよ! 教えて下さい!」
「まぁ落ち着け。アイザックを呼んでくるから大人しくここで待っていてくれ」
小さな軍人は組んでいた腕を外してズボンのポケットに手を入れると、すぐに消えていった。どうやら自分は何者かと出くわし、何者かに腹部を蹴り込まれたらしい。まさに踏んだり蹴ったりの状況であるが、自分には何もできないのだから文句を言えたものでもない。
ある程度時間が経つと、鉄格子の向こう側に先ほど話した少年と、何とも恰幅のいい眼鏡をかけた壮年がやってきた。壮年は顔中に髭を生やしており、その体格からか迫力がある雰囲気があるも、眼鏡の奥からくる穏やかな眼差しは何だか安心感がある。いや、安心はできない。気を引き締めて言葉を待とう。
鉄格子の前に立った壮年も、上下茶色のつなぎを着ていた。今気づいたのだが、彼らの胸ポケットには同じ白い羽マークのロゴが刺繍されていた。何かの団体、あるいはやはり軍隊のような組織なのだろうか。一瞬の安堵も許されない状況にまた鼓動が早まっていく。自分はこの牢獄から出してもらえるのだろうか? 不安が募り、鼓動とともに胸が引き締められるように痛みはじめた。
「うむ。君はどこからやってきたのか覚えてないのかね?」
監獄中に見事な低音が響いた。その声は、まるで何かの指揮官には打ってつけのものに違いない。おそらくはこの壮年こそ、彼らのリーダーにあたる人物になるのだろう。そんなオーラを感じたからか、首を縦に振って返事を返すことにした。
壮年は胸ポケットから古びた煙草を取り出し、煙草を吸い始めた。
どこか余裕があり嬉々としているようだ。何が嬉しいというのだろうか?
「申し遅れた。私はアイザック・ドーハと言う。ここに来て10年ぐらいになる人間だ。私もここに来た時は何がなんだかわからなかったが、そんな人間がこの地に来ることが稀にあるようだ。まさに今の君もそうだな。わかってくれるか?」
「はい。本当なにがなんだかわからなくて……」
「無理もない。私もここの住人に拾われてここで生きてきた。ここに来たときは右も左もよく分からなくて苦しんだよ。さて、私のお話を聴いて欲しいのだが、よろしいかな? 来訪者いうならば“旅人”になる君よ」
ただ「はい」と言わざる得ない状況のままそう答えた。それからアイザックの話が進むこととなった。今はこの人間たちを信じるしかない。これでも唯一の救いだ。
「この世界にいる人間は私とこちらのベン・ウオッカ。そしてリンに君。全員で4人だ。4人しかいないと思ってくれ。みんな君と同じように、記憶がないままにこの地に足を踏み入れた人間ばかりだ。そして、そんな人間を旅人と呼んでいる。まぁその話はまだいいが、先に言っておくと外は雪と氷ばかりの世界になる。これしきは外に出てみて実感することだが……ひとまずわかってくれるかな?」
「そうなのですね……」
アイザックの話を聴いているうちに、段々と何かを思い出してくるようではある。そう、確か自分は船に乗っていた。自分以外誰も乗船していない舟。しかし、今はアイザックの話に耳を傾けた方が利口なようだ。余計な事を喋るのは控えた。
「よくわからない世界であるのは確かだが、決して生きていけないワケではない。私たちは数が少ないが、手をとりあって生きている。それにこれだけ寒いのに、多少寒いと我慢すればやっていける。不思議だがそんな世界だ。さて、話が長くなったが、よろしければ私たちとここで手を取り合って共に生きていかないか?」
「はい……生きていけるのであれば」
アイザックが隣にいるベンにアイコンタクトを送ると、ベンが右ポケットより鍵を取り出し、牢屋の出入口に挿して出口の扉を開けた。長いことなんの食事もとってないからか、足元がふらつくようであった。とりあえず救われたようだ。アイザックたちを完全に信頼すると決めたわけではないが、状況的にも彼らの言うことを聞くのがベストな判断なはずだ。「生きる」という選択肢を選んだのだ。そう言い聞かして牢屋を出ることにした。牢屋を出るとベンが真横について来た。
牢屋を出ると、広大に広い空間が広がっていた。それから長いトンネルのような空間を歩いたりもしたが、どうやらこの建物は全てコンクリートで造られているものであるようだ。何かの基地なのだろうか?絶え間なく広がる空間に幾多ものわかれ道があった。とてもじゃないが、どんな大人でもアイザックたちの案内がなければ迷子になってしまうだろう。そう感じずにはいられない。
やがてこの空間の終着点らしき場所に辿り着いた。数時間は経っただろう。トンネルの末端のようで、大きな坂道になっているようだ。その坂道の底辺部分にあるマンホール。そこをベンが開けてみせた。どうやらこの中の下に、彼らの秘密基地があるようだ。こんな所まで……よく考えている連中である。
アイザックが「私の後に続いて入ってくれ」と聞いたので、その通りにすることとなった。マンホールの通路はなかなか狭く、アイザックでギリギリ入る程であった。さらに暗い場所でもあるので、声のみが頼りであった。そのことをよく分かっているからなのか、アイザックが下の方でこちらに声をかけてくれるのが非常にありがたかった。どうやら、このアイザックという男は親切な人間のようだ。
梯子で最下部まで降りるのに15分ほどかかった。最下部に降りると、下水道のような場所に到着した。いや、間違いなく下水道であるのだが、溝の部分は全て凍っていた。いや、全体的にと言うべきか。梯子を降りてすぐの所にドアがあり、3人揃ったところでベンが鍵を取り出し、ドアを開けて中に入ることとなった。ベンという少年は様々な鍵を所有しているようだ。そういう役目なのだろうか。
ドアの中には、想像よりも広々とした空間が広がっていた。部屋の奥には、キングサイズのベッドが置いてあった。横に彼らが着用する茶色のつなぎが、ハンガーに5着ほどかけてあった。部屋の隅々には物置が設置してあり、ベッドの逆側には特に使用してはなさそうなキッチンがあった。何でもありそうな場所である。ここが本拠地だと言われれば納得だが、そう思った途端にアイザックからそんな説明があった。人間の意思とはどこかで通じるものである。
アイザックが説明をしている間に、ベンが「着なよ」と言って茶系統のつなぎを投げ渡した。受け取ってすぐに着替えることにした。着用をしてみると、思ったよりも軽い服であるのにも拘らず、不思議にもどことなく体が温まる服であることに驚きを感じた。どのような繊維で作られているのか分からないが、まるで魔法のつなぎであった。感動がひとたび止まると、アイザックの熱い視線が飛び込んできた。やや怒っているのが目つきで感じることができた。
「おい。人の話を聞いているのか?」
「え……ここが拠点だと言うことですよね?」
「その話は終わっている。いま話しているのは仲間の話だぞ」
「す、すいません。いま服が着られて温かくて嬉しくて」
穏やかな口調ではあったが、確かに苛立っている。このアイザックという男を本気で怒らせたら、とんでもなく恐ろしい罵声を浴びるのだろう。そんな想像をしてしまうが、体温的な生き心地が戻ったので、つい服を着られる喜びを露わにしてしまった。アイザックの怒りを余計に買うのではないかと思ってはいたが、我慢ができないことだってある。アイザックがため息をついて話を続けた。
「無理もない。リンに身包み剥がされてからはずっとあの格好だったからな……」
「身包みって……ここに着た時に何か着ていたのですか?」
「ああ。何でも分厚い毛皮のコートとかを着ていたとか?」
「こんなところで裸でいたら死ぬだろ? 面白いなぁ。お兄さんよぉ」
「オレ、そのリンって人に何かしたのですか?」
「いやいや。謝るべきはこっちだ。まとまらないなぁ。ベン、一旦まとめてくれ」
アイザックは困った顔をして、ベンにアイコンタクトを送った。ベンは椅子の上にあぐらをかいて座り、顎に手をあてて先程からこっちを見ているようである。アイザックはしばしばベンにアイコンタクトを送り、ベンがそれに頷いて何かしているのだが、相当な信頼関係がこの2人の間にはあるようだ。
「さて、どうしようかな? とりあえず名前決めない? これからずっと一緒ならさ」
「それは今、することなのか?」
「別にしなくてもいいけど、オレはその方が助かるし、一旦まとまる。いいだろ?」
「うむ。ベンが言うのなら。しかしせっかくの名前だ。少年、何か希望はあるか?」
「希望?」
そう口にした途端に頭の中で何かが閃きそうな感覚を覚えた。いや、何かと何かが繋がるような感覚と言った方がいいか? うまく言葉では表現できないが、この感覚を「思い出す」というのではないだろうか。「希望?」と言ってから、1分近く無意識で謎の言葉を小声で吐き続けた。何か閃くような感じだ。アイザックとベンが心配そうにこっちを見ていると感じ、一旦止めることにした。人間の意識とは複雑なものである。
「どうしたお兄さん? 思いつき過ぎて悩んでいるのか?」
「いや、こう……うまく言えないのですけど……何か思い出しそうで……」
「ふむ。ベン、これは“旅人でよくあるケース”だ。少年、そこに集中をしろ!」
「え? 集中?」
「目を瞑って、いま頭の中で浮かび上がる言葉を伝えるのだよ。やってごらん!」
「え……え……ウォ……ス……イ?」
咄嗟のことではあったが、目を瞑って、瞑想をするように言葉を思い浮かべた。そうだ! そうである! 「希望?」と言った瞬間に頭の中でいくつもの言葉が浮かび上がったのだ。ほんの一瞬躊躇はしたが、一つ大きな成果が得られそうだ。自分の名前を思い出せるのかもしれないのだ。集中力をさらに高めていく……。
「シュ……シ……チ? シュイッチ?」
「アイザック、これ意味あるのか?」
「この世界での科学的にはな。少年、もういい。よくやった」
「え? これでいいのですか? 思い出せたのですか?」
「残念だが……そこまでは。だが、我々としては前進した」
「どういう意味ですか? 前進って何が?」
なんとなくの感覚ではあるが、この寒地に来るまでは名前があって、何処かで何かをして生きていた人間であったことは確からしい。それを薄々ながらも確信できたのだが、どうやら完全に自分を思い出すことはできなさそうである。
「ウォスリー・スウィーニー」
「?」
「ウォスリー・スウィーニーだ。今日から君の名前だ。如何かね?」
「あの、すいません。いまの完全に思い出したわけじゃないのですが……」
「わかっているよ。では君の本当の名前がわかるまで、使ってみてはどうかね?」
心の中で沸々と感情が湧いてきた途端にアイザックが思いついたように命名をしてきた。突然のことであり、名前を思い出す作業にしても集中力を高めれば、もっとハッキリと浮かび上がるのではと思っていた矢先だったので、スグに受け入れることはできなかった。しかし、真っ向から歯向かうことができない立場なのも確かだ。それをわかっているかのように、アイザックが追い打ちをかける。
「おお、そういえば、さっきの質問に答えてあげられなかったな。何が前進か? と君は聞いてきたが、我々はただなんとなくここで生きて生活しているわけではない。様々な場所に向かいながら“研究”をしているのが事実だ。もちろん目的はこの世界を“脱出”するために他ならない。そのうえでわかって欲しい。今まで“旅人”としてここに来た人間は過去に何人もいた。詳しくはまた話すが、その誰しもに共通することがある。それは『ここを出たい』という気持ちだ。ウォスリー、君もそうなのだろう? 違うか?」
アイザックの問いかけに頷き「おねがいします」と返答を返した。
こうしてウォスリー・スウィーニーはこの世界に誕生した……ことになった。
「うむ。宜しく! さてウォスリー、早速だが、ベンと二人でここの生活に慣れて欲しい。そこでベン、ウォスリーの教育係をしばらく頼んでもいいか?」
「え~面倒だなぁ。まぁ、いいけどよ……よろしく頼む。ウォスリー」
「あ、うん。よろしく」
ベンが手を差し出してきたので、それとなく合わせるように手を出して握手を交わした。相手は自分よりもかなり年下の子供だ。見た目からしても、可愛い弟のようである。そんな男の子が自分の先輩になるというのは何だか不思議な感覚だが、これも何かの縁、あるいは運命なのだと受け止めることにした。人間とは、いざとなればどんなことでも受け入れられる生き物である。そう考えた。
ベンと協定を組んでから、ベンより「しばらく休めよ」と指示があったので、ベッドで休むことにした。ここに来るまで充分休んだはずであったが、不思議と特別に休めるようであった。これまでの不遇を考えてみれば、たいへんな疲労があったのである。心身共に最高にリフレッシュできるのは当然なのかもしれない。
フカフカの毛布に入り、ウトウトした後に睡眠に入った。
どのくらい休んでいたのだろうか? 目が覚めると、子供たちの話し声が聞こえてきた。目を覚まし声のする方へ体を起こしてみると、目の前にベンと小さな女の子が立ってこっちを見ていた。どこかで見た女の子だ。髪は長く白い。笑顔が浮かばない凛とした顔が特徴的だが、ベンより確実に若く幼い正真正銘の子供である。ウォスリーたちが着ているユニホームと同じものを着ている。
ベンは何かを知っているかのようにニヤニヤしているが、少女の方はこちらを申し訳なさそうな顔で見ていた。この少女がアイザックの言う「リン」になるのだろうか? そうだとしたら、ウォスリーを意識不明のKOにさせた蹴りを放った張本人だとでもいうのだろうか…………この幼い女の子が?
「ごめんなさい。あなたを傷つけたのは私。お詫びはする」
「え?」
「だからコイツはお前に蹴られたことも覚えてないって。おはようウォスリー」
「ああ。おはようベン。君は誰?」
「リン・ハサウェイ。あなたの仲間の一人だ。コートは後で返すよ」
「え、いやぁ……覚えてないから、いいよ。ウォスリーです。宜しく」
リンが微かではあるが微笑んだように見えた。蹴りの件を気にしていたらしい。
……だとしたらやはりウォスリーを撃退したのはこの少女になるのだろうか?
疑問は尽きないが、謝ってくれるのは悪い気持ちがしなかった。その口調から、無感情の子供にも見えてしまうが、心優しい部分がある女の子のようだ。しかしベン同様に妙に大人びている雰囲気があり、その点は年齢不相応と言った方がいいだろう。この華奢で小さな体から放たれる蹴りなど想像してもたいしたことないが、ここは常識の通らない世界だ。そう考えて頭の中の疑問を一掃した。
リンの紹介のあと、しばらくベンの話が続いた。ここがかなりの寒地であり、辺り一面が氷と雪で形成されている島であること。この本拠地を拠点として、アイザックを中心に研究を進めていること。火を起こすことができるようであり、それを使用して外に生息する熊や狼の肉を食しているらしい。さらにその火力を用いて、本拠地近くのお風呂場で定期的に入浴もできるらしい。その火を起こす方法が『能力』にあるというところで、ウォスリーの思考回路が止まった。何かの道具を使って火を起こすのではなく、『能力』を使用すると言うのだ。すぐにその疑問をベンたちにぶつけてみることにした。
「ああ、わかんないだろうな。火を起こすのは誰にでもできる簡単な能力だよ。訓練次第でウォスリーにでもできる。いいか。よく見とけ。目をつむって、火を起こすイメージを浮かべるのさ……そして力を込める……!」
ベンが両手を広げて小さな空間を作った。すると、その空間にボッと小さな火が点いて消えた。これを魔法というのだろうか。ウォスリーも真似てやってみたが、何も起きたりはしなかった。やはりベンの言うように、訓練が必要なようである。
着火のマジック後もベンの説明が続く。ここに来た旅人は誰しもが何かしらの『能力』を持っており、それをこの世界の生活で活かしているらしい。ベンには優れた腕力があり、その腕力を駆使して熊や狼を退治したり、物を作ったりなどしているようだ。一方でリンには優れた脚力があり、遠い場所までの遠征や食用動物の撃退を兼ねてその力を活かしているようである。ウォスリーにも何かの特殊な『能力』が秘められているというが……。
ここにきてウォスリーも話についていけなくなった。
話がついていけないと言うのも、どうにもウォスリーの脳内でこれほど小さな子供たちが『能力』を使用して活躍する姿が浮かばなかったのである。先ほどの炎の手品にしても実に小規模なもので、まさに子供ならではのショーであった。
この態度に怒ったベンは「疑うのならば実際に見せてやろうじゃないか!」とウォスリーたち二人を引き連れ外に出て、能力を披露することを提案してきた。リンはベンの発言後、即座に「ウォスリーにはまだ危ない」「ここで能力を使って見せればいいだろう?」などとベンを宥めたが、一度火のついた男たちの喧嘩を止めることは到底できなかった。結果、ウォスリーたちは基地から一旦外出することになった。人間の興味とは、時に下らない争いに発展するものである。
ウォスリーたち3人はベンの強引な牽引のもと、本拠地を発つことにした。こう年下の子供と喧嘩腰でムキになってしまうのは情けないことだが、外に出られる丁度いい機会だ。ベンの能力とやらより雪と氷に溢れた世界に興味が沸いてきた。
長い梯子を昇り、見覚えのある大きい坂道に出た。やはり外はこの坂道の先にあるようだ。ベンがそのような説明をすると、リンの方を向いて、「思いついた! あそこまで飛んであげてくれよ」とだいぶ先にある坂道の上部を指さした。「まさか……」とウォスリーが口にした刹那、リンが地面を軽く蹴り上げ、ものの数秒ではるか上の場所に到達していた。その数秒間「ボッ」というような音が聴こえたが、先ほどまでリンが立っていた所から蒸気がたっていた。先ほどまで間近にいたリンも、今は豆粒のような大きさとなって手を振っている。これがウォスリーの最初に感じた『能力』の衝撃であった。
ウォスリーが唖然とするも、ベンが「さて、歩いてこうか?」と嫌味交じりで言ってきたので、ゆっくり坂道を登ることにした。いざ登り出してみれば実に長く険しい坂道で、リンのいる位置まで軽く15分はかかるほどであった。ベンもウォスリーも少々息を切らしていたが、リンはそれを無表情で見ていた。
それからさらに5分ほど登り続けると、トンネルの出入口のような場所に着いた。外では雪が絶え間なく降り注いでいる。地面は氷となっており、奇妙にも地面の氷が雪を吸収しているようだった。無論、辺り一面が真っ白な世界である。一度入ってしまえば……それこそ永久に戻れなくなるのではと不安にもなるが、ベンの悠然とした態度やリンの異様な落ち着き様を信じるに他ならなかった。何とも情けない年上だ。そう心の中で呟いたことはずっと内緒にしたい。
外に出てから、顔に当たる雪を手で払いながら前へ前へと進んだ。想像していたよりも寒さは感じなかった。着用している服の保温効果が余程高いものなのか、やはり寒さは気にならなかった。歩き出してから5分ほどして、数匹の動物が数メートル先に見えた。犬なのかと思ったが、目を凝らしてハッキリとわかった。
それは狼そのものだった。数えてみれば6匹もいる。
狼が吠え出す。リンは無表情。ベンは肩をまわしながらニンマリしている。
狼たちの咆哮が重なった時に、ウォスリーの足元がすくんだ。そして氷の地面に尻もちをついた。簡単に言えば、つまり怖気づいたのだった。その瞬間、目前の狼たちがウォスリーたちを目がけて飛びかかってきた。
秒速的感覚の出来事であった。狼たちのほとんどがベンの殴打、もしくはリンの蹴り込みによって100メートル以上先に吹っ飛ばされた。その光景は瞬間的な出来事であり、実に圧巻的な場面であったが……その次の瞬間にウォスリーの左横腹に異常な激痛が走った。
腰付近を見ると、狼がウォスリーの左横腹を噛み締めていた。少し離れた位置にいるベンとリンが、目を見開き驚愕している。その数秒後、狼はウォスリーの顔に噛みつこうとしたが狼の牙が顔面に迫ったまさにその瞬時、何かの攻撃を受けて、狼が忽然と消えた。目の前に現れたのは、無表情ではないリンの顔だ。
リンが患部に手をあてている。その箇所から、おびただしく血がドクドクと流れ出す。究極の痛みというものがあるのだろうか。ウォスリーはまともに声を出すこともできない状態でいた。やがて、段々と意識が遠のく。体が冷たくなるようだ。つい先ほどまで体を温め続けていたこの防寒着も、ついに役に立たなくなった。そうか。いよいよ自分は死んでしまうのか……
少しして、何かが落下した音が聴こえた。さっきの狼がのたうちまわっている。リンかベンが倒してくれたのだろう。「しっかりしろ!」と声が聞こえてくるが、どっちの声だか分からない。口元から濃い液体が垂れる。もう駄目だ。そんな言葉が脳裏に浮かび、やがて目を閉じた。そして意識が暗闇の中へと入っていく。気のせいかもしれないが、目を閉じる前に黄色い灯りが見えたような気がした。人間が死ぬ前にそんなことがあるのだろうか? 走馬灯のようなものが見えるとは聞いたことがあるが、それも記憶のない自分には無意味なことだ。そして意識は完全に暗闇の中へと入った――
自分は誰なのだろうか? なんの為に生まれてきたのだろうか?
何もわからないというのは本当に辛いですね。しかもそのまま死ぬなんて。
でもわからないのならばわかるまで向き合ってみてはどうだろう?
それで思い出せるなら、苦労なんかしませんよ。
ちょっと待て。思い出すって一体何を? それが出来ないから苦しいのに?
……というか1つ気になる。さっきから話しかけているアンタは誰だ?
「ボクです。思い出してください。じゃないとボクもこのままです」
どこかで聴いた馴染みのある声。思い出せそうで思い出せない。
目を覚ますとバチバチと何かが鳴っている音が聴こえた。これは火を焚く音だ。