帰還
────ここは……どこだ?
見たことも無い、天井が眼前に広がっていた。白い、白い、自分の部屋とも、あの世界とも異なる天井が。
「……よかった」
小さな安堵の声が聞こえた。声のするほうに少し首を傾けると、キキョウが居た。
「……キキョウ?」
「……待ってて。……先生呼んでくるから」
キキョウは小さな声でそう言って、何処かへ行ってしまった。会話内容と見える光景から自分が病院に運ばれたのだと気付く。
「また……ここか……」
一周目の世界で訪れたのと同じ、大学病院の一室だった。
不意にメアの事が気になった。一周目の世界でアイツは寝ていた。何本もの管やコードが付けられ、辛うじて生きて居るような状態でこの病院に居た。あれが何だったのか、ふと考えてしまった。
どれくらい寝ていたのだろう。いや、それよりも、また失敗してしまったのか。原因が俺の意思の弱さか、悪運の強さか、それともあの女の仕業なのかはわからないが、俺は一命を取り留めてしまったようだ。次の世界に居るとも思えない。
「目が覚めたみたいね。体調はどう? どこか痛かったり苦しかったりしない?」
「……大丈夫っス」
「じゃあ、タクト君の今の状況を簡単に説明するわね。栄養失調と睡眠不足、そして貧血が同時に起こってるわ。頚動脈を切ったから血が足りなくて、輸血までしたの。栄養失調と睡眠不足は生活習慣の乱れからのものね。何かあったの?」
「……話したくありません」
「そう。じゃあ、病院に居る間は安静にしてゆっくり休んでね」
医者はそう言うと病室を出て行った。
「……痛いところ、本当に……ない?」
医者と入れ替わる様に部屋に入って来たキキョウは、俺に再度痛む所は無いかと訊いてきた。
「本当に、大丈夫だ。何処も痛くねえよ」
「……嘘。身体は大丈夫でも、タクト、心で泣いてる」
核心を突かれて俺は言葉を失う。
「……独りになったんだ」
「……うん」
「……傷つけないようにってメアを遠ざけた。そしてら俺、独りになった」
「……うん」
「俺の力、呪いなんだ。言葉の呪い。いつ暴走して、人を殺すかわからないから、誰にも会いたくなかった。でも、独りになるのも嫌で、早くこんな力捨てたくて、俺、自殺しようとした」
小学生に聞かせる内容でない事は重々承知していた。けれども俺は誰かに話を聞いて欲しかったのかもしれない。
「メアには俺の力があんまり効かないみたいだった。でも、いつ俺の言葉がアイツを傷つけるかわからないから……俺……っ」
嗚咽がこみ上げる。居の中なんて空っぽなのに、俺は何かを吐き出しそうだった。
「……タクト……落ち着いて聞いてね。メアは今、美影の所に居るの。行く場所が無くて、苦しそうに美影を頼ったの」
「メアが……美影を?」
信用できないと言っていた相手の所に滞在するなんて、メアはよっぽどの事が無い限りはそんな事しない。いつだって信用できる相手にしか頼らない。それはこの世界に来るまでに一緒に過ごして何となく知った事だ。つまりメアは今、何らかの不足の事態に陥っている。
「……メア、苦しそうだった。胸を押さえて、息をするのも大変そうで……。でも……他の人に見えないから病院に連れてくることも出来なくて……美影しか頼る人が居なかったの……」
キキョウは自分の事の様に、メアに起こったことを語った。俺は何故だかそれが腹立たしかった。
「お前がメアの事を解った様に語るなよ」
「ヒッ……」
俺の怒気を孕んだ低い声に驚いたキキョウは小さな悲鳴を挙げた。
「ごめんなさいっ……」
反射的に謝罪の言葉を口にする。
「許して……」
その表情は恐怖に慄き、俺ではない何かと対峙している様だった。
「二度とお前がメアの事を語るんじゃねえよ……」
「ごめんなさいっ……ごめんなさいっ……ごめんなさいっ……」
何度も何度も謝罪の言葉を口にするキキョウ。それはもう、狂っているというか、壊れているかのようだった。俺はまた、やってしまったのか。
「──キキョウっ」
部屋にもう一つの声が響いた。足音と共にキキョウに駆け寄ってきたのは、シンイチローだった。
「──大丈夫だ、キキョウ。怖いものは何も無いから、落ち着け。ゆっくり息を吸って──」
シンイチローに促される通りに深呼吸をしたキキョウは、少しずつ平静を取り戻していった。
「──そろそろ交代の時間だから、お前はみんなの所に行け」
「……うん」
キキョウは小さく頷くと、パタパタと部屋を出て行ってしまった。
「──キキョウに何を言った」
「別に。少し腹が立っただけだ」
「──答えになってない。怒鳴ったか」
「声を荒げちゃいない。ただ、アイツがメアの事を知った様な口を利くから……」
「──キキョウは他人の感情に敏感なんだ。あまり刺激するな」
「ああ。悪かった。今度会ったら謝っておく」
「──そうか。──何故自殺しようとしたんだ」
シンイチローは唐突に話を変えた。
「解るのか?」
「──ああ。まだ少し、死に対して未練がある様に見受けられる」
「あるかもな。未練」
「──自殺の理由を聞いても──良いのか?」
「俺が弱かっただけだ」
「──そうか」
シンイチローは多くを訊ねなかった。小学生の癖に、俺よりも強いという印象を受けた。
「──皆で交代でお前に付き添っていたんだ。夜はツバサやナツメ、ランに頼んで、昼間はなるべく俺達もここに居る様に努めた」
「ナツメやツバサは解るが、どうしてランまで夜遅くにここに居たんだ?」
「──ランの両親はこの病院で働いている。夜勤が多いらしい。保護者が居るのだから問題ないというマリの判断の元にランにも頼んだ」
「そうか──」
「──いつ、退院できそうなんだ?」
「解らない。医者は何も言っていなかった」
「──なら、俺が聞いてくる。なるべく早くないと、少し困ったことになる」
「お前がか? どうして」
「──俺じゃない。メアがだ。──消えそうなんだ。美影がそれを少し遅らせているが、いつまで持つか解らない」
メアが──消えそう?
悪い冗談だと思った。幻想、夢、妄想……そんな風に思えるほどに認めたくない事実だった。
「俺が病院に運ばれてから、どれ位経った?」
「──三日だ」
メアが消えそうになっているのは多分、俺が放ったあの言葉の所為だ。メアにとっての消えると言うのは、死ではなく、まさしく消滅。アイツは元々俺らとは違う仕組みで生きて居るから、その存在を繋ぎ止めるのも難しいのだろう。
三日──。
それほどの間、アイツは必死にこの世界にしがみついていたというのか。
それは俺からしても結構な長い時間だった。
苦痛を感じる時間と言うのは、普段よりも長く感じてしまうと言う。それは俺にとっても体験のある事だから、痛いほどに良く分かる。熱を上げて苦しんでいる間は一分一秒が果てしなく長く感じた。メアはそれに三日も耐えたというのだ。賞賛に値する頑張りだと思う。
「……行かねえと」
「──無理をするな、と言っても聞かないのだろう。事態は一刻を争う」
シンイチローは俺を止めることを最初から諦めていた。
俺はベッドから降りると点滴を抜いた。テープを剥がす瞬間に痛みが走ったがそれも一瞬のものだった。
「──これに着替えろ」
シンイチローは俺がこの選択をする事を見越していたのか、やけに用意が良かった。俺の着るものまで持ってきている。
「お前これ──どこから……」
「──そんな話は後で良い。とにかく早く着替えろ」
「分かった」
着慣れたラフな服装に着替えるのに時間は掛からなかった。俺は新たに用意された野球帽を深く被り、病院をこっそりと抜け出す。
病院を出てからは一気に走る。体力の無い俺だが、状況が状況なだけに疲れを感じなかった。病院から旧市街までは歩いて二十分ほど掛かる。しかし走ればその半分程度で着ける。俺らは神社の前まで全速力で駆け抜けた。
*
「ハァ……ハァ……。あと少しだ。急げ……!」
シンイチローの声は、微かに意識の奥に引っかかった程度だった。俺は一度深呼吸して石段を駆け上がる。苔が覆っていて滑る為危険だが、今はそんな事に構ってなんか居られない。消えそうな生命の前では怪我の一つや二つ、軽いものだった。
間に合え……! 間に合ってくれ……!!
俺の祈りは果たして届いているのだろうか。俺はとにかくアイツに消えて欲しくない。俺をあそこまで慕う存在を失いたくない。
光が見えた。
木々に覆われた石段には日光なんて届かない。光が見えたら神社が近いということ。
「──メアっ!!」
石段を昇り終えた瞬間、俺は目を見張った。そこには今まで見たことも無い姿をした「何か」が居た。
まるで文字化けしたバナーの様に曖昧で、テレビの砂嵐の様に不安定なその存在を俺は何と呼べば良いのか分からなかった。
「な……」
「遅かったですね、タクト君。メアさんは遂に形を上手く保てなくなってますよ。本当に白状ですね。自分に慈悲深く接してくれた存在を無碍に扱い、あまつさえ消し去ろうとするなんて。メアさんの出自が私達と異なること位、貴方ならとっくに気付いていた筈。それなのにどうしてあんな呪いを次々に浴びせたのです? 私には理解できませんね」
「あ……あれが……メア……なのか……?」
美影の言っていた事が俺には理解できなかった。いや、理解したくなかった。あんなのがメアな筈ない、と頭の中で激しく否定していた。
「彼女は今、実体を持たない不安定な存在。些細な呪い一つで消えてしまうかも知れない位に脆い存在。それを貴方は壊そうとしたのですよ。この現状は貴方が生み出したものなのです。聞いているのですか、タクト君」
「メ…………ア……?」
俺は弱々しくメアだったものに話しかけた。俺はこれがメアだなんて認めない。俺の知るメアはいつも隣で軽口を叩き、ケラケラとよく笑う、俺と同じ歳位の女だ。あんな文字化けした化け物なんかじゃない。
「……ゥイアljfジャィエw」
メアだったものが何かを言っている。発せられた音声すらノイズ混じりで聞き取ることが出来ない。
「……消えるな。……消えるな……よ……」
でも俺はメアが何を言っているのか、それが分かったような気がした。
今すぐに消え入りそうなのは、メアよりも俺の声だった。言葉が出てこない。傷つける事無く、一人の生命を救える程の言葉が、喉の奥に詰まって出てこない。
どうすれば良い、どうすればメアを救える?
焦りと、救えなかった場合を想定した時の恐怖に縛られてなおさら言葉を紡ぐのが困難になっている。落ち着かなくては、と思ってはいるものの、俺の精神は騙されることを知らない。動悸が激しくなり、暑い訳でもないのに額に汗が滲む。
考えろ、考えろ、考えろ。俺が今出来る最善の行動は何だ? 俺が今出来る一番の選択は何だ? お前の頭は何の為に在るッ……!!
脳が沸騰するのでは無いかと言うほど、俺は全神経を思考する事に向けた。
「消えるな、メア……消えるな……」
ブツブツと祈りのような言葉は漏れるけれども、生命の崩壊を止める決定的な一言は浮かばない。
この力が呪いだとはよく言ったものだ。人を苦しめる事は出来ても救うことなんて出来やしない。諦めるしかないってのか。俺は自分が犯した罪に一生苦しめられないといけないのか。
「……人を呪わば穴二つ。呪いはかけた本人に跳ね返る。それはただの責任でしかない。貴方はもう誰にも呪いなんて振りまいていない。言葉は呪うだけではない……」
美影が呟くように言った。
「でも……言霊は呪いって……」
「貴方がそれを呪いだと信じるから呪いの力になるだけでしょう? 言霊は言葉に宿る信じる力。信じ方によっては良いことにも使える──」
言葉に宿る──信じる力──。
『御主人の言葉は人を傷付ける為にあるんじゃない』
メアが言っていた一言が頭を過ぎる。
俺の力は──何の為にあるんだ──?
そうだ──そうだよ──。
言われるままに、俺は言葉の力を呪いの力だと思いこんでた。自分でそう断言した。
俺は、自分自身の言霊に囚われていた。自分で自分を縛っていたんだ──。
「『俺の言葉は──未来を紡ぐ力だ』」
言葉に意思が宿った気がした。重みが違う。
「『俺の目の前から居なくなるな、メア!!』」
俺は声の限りに叫んだ。そこに居た誰の耳にも届く様にはっきりと、自分の願いを口にした。
「──やっと──自分の願いに気が付いたか──」
隣に居たシンイチローが安堵した様な表情を浮かべる。
俺は素直に自分の願いを口にした。素直で、拙くて、格好悪いけれども嘘偽りの無い、俺の本心。子供故の無邪気な心を言葉という形で届けようとした。
真っ直ぐな言葉は必ず届く。時間が掛かっても、感情という壁を溶かして必ず相手の心に触れられる。
だから言葉には力があると信じられているんだ。思いの籠もった言葉は重さを増して相手の心にぶつかる。俺達人間はそうして今までコミュニケーションを取ってきた。こうして俺達は互いを分かり合ってきた。
手段の一つに過ぎないかも知れない。届くまでに時間が掛かるのかも知れない。けれども、俺は届かない言葉なんて無いと信じている。
だから、俺の言葉は
「『俺の言葉は必ず届く!』」
自己暗示。
自分の心に届かない事だってないんだ。
動かせない事は無いんだ。
俺はとても幸運だ。相手に想いを届けやすい能力を得たのだから。
時に揺れ動いてその心を惑わすかも知れない。けれどもそれは、相手の心が歪だからではない。言葉は一つの鍵なのだ。感情で守っている心を開ける、鍵。鍵穴と一致しない鍵で無理矢理こじ開けようとすれば、心は壊れてしまう。だから、慎重に、慎重にその鍵を選ばなくてはならない。
相手が最も望む、その一言を与えなければ、俺達は通じ合えない。分かり合えない。
「『ずっと俺の隣で笑っていろッ!! 居なくなるなんて許さない! お前は消えない!!』」
声の限りに思いの丈をぶつけた。
メアが消えるのが先か、俺の想いが届くのが先か。賭けとも言えるその速さの違いに祈りを捧げるしかない。
じわじわとメアを蝕むバグを俺は見た。もう身体の殆どは蝕まれてしまっている。虚ろな二つの瞳だけが残されているような、そんな状態だった。数字とアルファベットの混ざった文字列が所々に見え、それが0と1の数字に置き換わって消えていく。そんな事がメアの中では起こっているようだ。俺はコンピューターにそこまで詳しいわけではないから何ともいえないが、消えていると言う事はよくないことが起こっていると考えて間違い無さそうだ。
「……御……主…………人……」
微かな声が聞こえた。脳裏に直接響くこの声は、紛れもなくメアのものだった。
俺は確信した。今なら届く、と。
「……早く……帰って来いよ……。お前が居ないと…………つまらないだろ……」
「帰……ろう……御主…………人……」
メアは消えかかった腕を伸ばしてきた。既に指先は少しばかり消えている。
「ああ……帰ろう」
俺はその腕を取った。最後の一押しだ。
「『お前はここに居て良いんだ。だから早く帰って来い』」
その一言でメアは幸せそうに目を細めた。
俺はその存在を引き寄せた。為されるがままのその身体を抱きとめた時、メアの消滅は止まったみたいだった。0と1の羅列から、数字アルファベット混じりの文字列へ、そして最終的にはいつものメアを象って、戻った。まるで身体を再構築でもしているかのような現象を、俺はただただ見守っていた。
「御主人……ウチ……信じてたよ。……御主人ならウチを……助けてくれるって……」
「悪かったな……心配かけて……。ゆっくり休め……」
メアは小さく頷くと、目を閉じた。疲れて眠るその寝顔は幸せそうに笑っていた。
「──終わりましたね」
その様子を全て木の上から見ていた美影が声を掛ける。
「大切な物に気付かず手放した事は愚か、破壊してしまおうとするなんて、何とまあ愚かなことなんでしょう。大切なものは失ってから気付く? 笑わせないで下さい。失ってからでは何もかもが手遅れなんですよ。莫迦な事をしたという自覚はあるのですか、タクト君」
「そりゃああるさ──。俺の独り善がりな我侭でメアだけでなく無関係な人を何人か殺めた。その償いはするつもりだ。俺らの力は法では裁けない。だから俺なりに、償う方法を考える。とりあえず──ありがとな、美影。俺が寝てる間、メアを預かってくれて」
「そんな犬やネコみたいな扱いをしてはメアさんが可哀想でしょう。彼女は人間として扱われるべきです」
「そうだな。悪い。とにかくありがとう。ヒントも貰ってたみたいで」
「私は早く鍵を集めたいのです。その為の努力は惜しみませんよ。さあ、早く帰りなさい。その様子ではメアさんは相当な疲労が溜まっているでしょう。ここの所全く眠って居なかったみたいですし」
「コイツ……寝るのか?」
「殆ど人間なんですから当たり前でしょう。貴方は彼女を何だと思っているのですか」
美影が呆れたように言う。
「え……だってコイツ、眠らなくても平気って……」
「バカですね。嘘に決まっているでしょう。彼女は嘘の達人なんですよ? やすやすと見抜ける嘘なんて吐く訳ないでしょう」
「なっ……」
「男の人は女の人の嘘を見抜くのが下手だと聞きました」
「お前それどういうことだよっ!」
「さあ? それよりこんな所で脂を売っていて良いのです? 彼女を早く休ませて上げては如何です?」
腑に落ちない所で会話を切られて少々物足りなかったが、俺は少し安心した。人と他愛も無い話をするのは久し振りだったから、少しだけ嬉しかった。
「じゃあ、美影──」
「……はい」
「『またな』」
「そんな事言われても私の心は動きませんよ」
軽く笑って、俺はメアを連れて神社を後にした。
メアは眠っているから俺が背負って家まで運んだ。メアはいつも地面から少しだけ浮いているから、体重なんて無い物だと思っていた。しかし今背負ってみて初めて分かった。コイツにもしっかり体重があるという事を。でもそれは、非力な俺でも軽いと感じる程度であって、重さ的には問題ない。
「何だ……お前ちゃんと……「人間」じゃないか……」
帰り道、俺は密かにそんな事を呟いたのだった。