白
「貴方は間違えた」
何処からとも無く声が聞こえた。初めて聞く、澄んだ声。
「貴方は言葉の使い方を間違えて、人を殺めてしまった」
俺は何も言えずに俯いていた。すると目の前に歩み寄ってくる人の、足元が見えた。
「アンタ──誰だ?」
「そんな恐る恐る言葉を発しなくても大丈夫よ。あたしには貴方の呪いは通じない。好きな事を言えば良いわ」
「──呪い?」
「言葉は、呪い。言霊ってよく言うでしょう? あれは言葉にあると信じられた呪力」
「信じられているだけ──だろ」
「甘く見てはいけないわ。言葉は発した者が責任を負う。それは呪いの責任があるという事よ。あなたはその責任を肌で感じている筈。それが意味するものも、貴方は自覚している」
「俺にどうしろって言うんだよ。これ以上、俺が負うべき責任って奴があるのかよ」
「無いわ。貴方は言霊の代償として、十分すぎる精神的苦痛を背負った。だからそれ以上の罰はいらない。貴方はそれ以上苦しむ必要なんてないのよ」
「でも俺は、五人もの人間の命を奪った。それに対する償いはしないといけない」
「それはしなくても良いこと。貴方は人間の器を壊しただけに過ぎないわ。生き物の死というのは、その魂の消滅と忘却を意味する。それは極稀にしか起こらない。だから貴方に非は無いわ。ましてや巡る世界での出来事。一周回ればまた新しい身体に魂は宿るわ」
「でも──」
「それ以上の償いは世界の均衡を崩しかねない。貴方はこのままいけば世界全体を揺るがす大罪を犯すことになるわ。これ以上、気に病む必要なんて無いのよ。でも──そうね、貴方は真面目だから、気にするなと言っても気に病んで、いつまでも気にするのでしょう。あたしにはそれを止める術が無いから、後は現実世界に居る子供に任せることにするわ。子供の諍いに大人が出てはいけないものね」
「おい、待てよ、おい!」
手を伸ばしてもその黒髪の女には届かなかった。
*
…………夢か。
久し振りに、穏やかな夢を見た気がした。しかし……あの女は何者だ? 結局名乗らないまま立ち去ってしまったし、顔もまともに見ていない。
あの女は何と言っていた? 言葉は呪い? そんなバカな。──そう否定したい所だが、今までの惨劇を鑑みると、否定しようがない。
俺は──呪われているのか。呪いの主を探せば、この呪いは解けるというのか。
分からない。正直言って、何も分からない。この呪いの暴走の止め方も、俺の生き方も、これからの未来も。何一つ分からない。
俺はベッドの上で頭を抱えた。毛布に包まって、考えていた。
昨日メアに言われた事も併せて考えると、頭が混乱した。状況が歪に絡み合って、整理出来ない。どうしろって言うんだ。俺はどうするべきなんだ。
解らない、分からない、判らない──。
「御主人──答えは……出た?」
部屋に入って来たメアが重々しい空気の中でどうにか言葉を発した。
「……なあ、メア……」
「何? 御主人」
「俺──思うんだけど」
メアは黙って俺の話を聞いていた。
「俺たちが生きてるこの世界って、本当に現実なのかって」
「──うん?」
「もしかしたら、俺たちが生きてるこの世界が、物語の一部なんじゃないかって思うんだ……。だから──いくら頑張って今を生きたとしても──最終回が来ると、未来なんて無くなる。俺らの時間はそこで終わるんだ。死ぬ事も出来ず、ただ、時間を止められる。俺らが置かれてる状況と、何処が違うって言うんだ? なあ……」
力無く伸ばした右手を、メアは優しく掴んだ。
「御主人──未来は──あるよ。──確かに──あるんだよ」
優しく──いつになく優しく、メアは諭す様に言う。
「御主人の時間は止まる事なんて無い。朽ちるか、続くか、それしか無いの──。だから──怯えなくてもいいんだよ」
俺は──メアの手を握り返す事は出来なかった。動かす気力も無かったんだ……。
*
答えなんて簡単に出るわけがなかった。夢の中での出来事も重なって、俺は本当にどうしていいか解らないまま数日間を過ごした。
「御主人、答えて」
「……何だよ」
「ウチが全てを塗り替えても良いかどうか」
「……ああ、それか……。今答えないとダメか?」
「今、答えて」
「どうしてそんなに急かすんだよ。もっと時間をくれても良いじゃないか……」
「時間が有限だって言ったのは御主人なの。このままズルズル考えてるフリして現実から逃げるつもり?」
「それでも良いかもな……」
パンッ!!
乾いた音が響いた。
目の前には今にも泣きそうなメアの顔があり、頬には一瞬のうちに芽生えた熱と痛みがあった。
「御主人はそれで幸せなの!? そんなので幸せになれるの!?」
「俺の幸せなんて、俺が決める事だろ……」
思わずメアから目を逸らして俯く。そんな泣きそうな顔見せられたら、俺、どうしたら良いかますます解らなくなるだろ……。
「御主人がいつまで経ってもそんなだから、簡単に人を殺しちゃうんだよ! いい加減覚悟決めてよっ!!」
「俺がそんなに強いわけないだろっ!! いい加減にするのはどっちだよ!? 散々俺に付き纏っておいて、覚悟を決めろ? 笑わせるな!! お前に俺の何が解る!? お前に俺の苦しみが少しでも解るのかよ!!」
俺はメアの言葉に逆上した。一番触れて欲しくない話題の核心をつつかれて、怒りが爆発した。
「解るよ!! ウチにだってそんなの、痛いほど解るよ!! でも、いつまでも目を背け続ける訳にもいかないでしょ!? どうして前に進もうとしないの!? 御主人はそんなに弱くないでしょ!!」
「弱いよ!! 俺はお前が思ってるよりずっと弱いんだよ!!」
それは、俺がこの世界で初めて知った事実。半ば絶望させられた、そんな事実。
「御主人が前に進んでくれないと、ウチらはどうすれば良いの!? 折角この世界から抜けて幸せになれるチャンスがあるのに、御主人はそれを身勝手な我侭で手放すって言うの!?」
それは、もう悲痛の叫びでもあった。メアの、心の傷を曝け出したかのような、そんな痛みが伝わった。
「御主人が自分を弱いと思い込んでるから弱いままなんでしょ!!」
「そうじゃねえよ! 俺は弱いんだよ! この世界に来て、痛い程に解ったんだよ!!」
「『御主人は弱くなんて無い』!!」
メアの放った言葉の纏った雰囲気が変わった。『嘘』を吐いたのか……。
「お前の『嘘』なんて、効かない……。呪いなんだよ。俺の能力は、呪いそのものなんだよ!!」
頬を何かが横切った。痛くは無いけれども熱くて、全てを溶かす様な感覚だった。
「『御主人の言葉は人を傷付ける為にあるんじゃない』……ッ!」
「そんな筈ないっ!! 俺の言葉は現に人を傷つけた! それでけで飽き足らず、死に至らしめた!! そんな奴の言葉なんて、誰が信用してくれるって言うんだよ!!」
「ウチが信じる! 御主人の言葉を、ウチは全部信じてる!!」
「嘘だッ!! 誰も俺の事を信じてくれる人なんて居ないっ。俺は独りなんだよ……」
視界が滲んだ。──ああ、俺の頬を横切っていたものの正体は涙か……。俺は今、泣いているのか……。
「……消えろよ」
「え?」
「俺の目の前から……消えろ……」
涙を拭ってそう告げる。
「二度と俺の目の前に姿を現すな……消えろ……」
消えろ、消えろ、と、俺は呪詛の様に何度もメアに言った。メアはその単語を聞く度に苦しそうな表情を浮かべ、最後には震えだした。
「……分かっ……たの……。今まで付き纏って……ゴメンね……。バイバイ……御主人……」
メアは途切れ途切れにそう言うと、覚束ない足取りで部屋を出て行った。そして少しして玄関のドアが閉まる音がした。
……メアは、居なくなった。俺はこれで、完全に独りだ。
言い様の無い孤独感が襲ってきたと共に、それと同じ位の安心感が胸に灯った。
これでもう誰も傷つけずに済む。メア、お前は幸せになれよ。
俺はハサミを手に取った。
今度こそ迷わずに逝けそうだ。じゃあな、メア、皆。一足先に次の世界に逝ってるぜ。後からゆっくり来いよ。
──流れる血液の量に比例して、俺の意識は薄れていった……。
*
「………………」
白い。
白い世界が目の前に広がっていた。前にも来た事のある、白い世界。
「危なかったわね」
澄んだ女の声が聞こえた。俺は顔を上げる。
「貴方、死んでたわよ」
「……子供の諍いには……関わらないんじゃなかったのかよ……」
いつか見た夢に現れた女がまた、目の前に居た。
「命が掛かってるとなれば話は別よ。それに貴方は大きく道を踏み外しているみたいだしね。子供を導くのはいつだって大人の役目なのよ」
「どうでもいい……。そんなのどうでもいいから、俺を早く楽にしてくれよ」
「それは出来ないわ。そんな簡単に人生を諦められても困るのよ」
「それはお前の勝手な都合だろ。俺の意思は無視するっていうのかよ」
「現段階においては貴方の脆すぎる意思なんかよりも、あたしの都合の方が優先されるべきだわ」
「最低の大人だな」
「自分がいつでも優先されるという考え方そのものが子供の我侭なのよ」
「我侭でも良いだろ。俺はまだ子供なんだから」
「それはただの甘えよ。責任逃れしているだけ。逃れるばかりでは何も変わらないわ。立ち向かいなさい」
「アンタも同じこと言うのかよ……」
「ええ。だってあの子の言っていた事が正しいもの」
「俺が間違ってるって言うのかよ」
「そうよ。貴方の今の行動は間違っている。と言った所で、貴方は信じないのでしょう」
「当たり前だろ。何が正しくて何が間違ってるのか、俺にはもう判らないんだよ……」
「間違っているかどうかなんて、目線で変わるわ。貴方が本当に幸せを願うなら、そう願う者として判断するなら、貴方の行動は間違いよ。けれど、幸せを求めず、逃げるだけを望むなら、貴方の行動は正しい。貴方が何を望んでいるのか、自分と向き合ってしっかり考えて御覧なさい」
俺の──望み──。
「解らないようなら、もう少し答えを探す為に生きなさい。死ぬのはいつでも出来るでしょう? 続けるのは苦しいけれどもそれは絶対貴方の力になる。今捨てた死ぬという選択肢はいつか必ず拾わなければならないのだから、それは今でなくてもいいでしょう?」
「俺にまだ……苦しみ続けろって言うのか……」
「そうよ。でも、苦しさの中には希望もある。それを信じて、もう少しだけ生きてみなさい。限界が来たらあたしがまたここに連れてきてあげる」
女は俺に希望を植えつけて、消えた。