ほとりさん
冬の童話祭2014用に書き下ろしました。
寒い冬に読んで、少しでも楽しんでいただければ幸いです。
雪のしんっ―と降った朝に淋しい路で凍った人が出ると、あっちの里じゃこういったもんだ
かっわいそぉに
ほとりさんだがぁ
冬の足音が近づくと、里では「ほとりさん」の名前をちらりちらりと聞くようになる。
ほとりさんは雪の降り積もった しんとした夜にぼんやりと一人で歩くと現れる。
ほとり、ほとり。
「ほとりさんが後ろがら着いでぎだら、振り向いぢゃなんね。」
「ほとりさんが着いでぎでも走っぢゃなんね。脚を とられるがぁ。」
淋しい冬の日になると、大人たちはこぞってこの話をきかせるものだった。子ども心にもこの話をきくと、ぼくはどうにもぞくぞくするものだった。なにせ田舎道の夜は暗い。もともと冬の夜道など出歩くものではないが、ほとりさんが出ると思うとなおさらに出る気など失せるのだった。
ぼくが9つになる12月のこと。正月も近づいて、雪を踏みしだいてはお年玉の使い道をあれこれと想像していた頃のこと。救急車の赤い灯火が夜の窓辺に過ぎていくのを、ぼくは確かに目にした。
「サトナカさんのご主人、倒れたらしいのよ。」
母さんの心配そうな表情が、食卓に並んでいた。
「へぇ、いつのことだい。」
「昨日の晩よ。夜道で、クモマッカだって。」
ぼくは「クモマッカ」という呪文がどんなものなのか分からなかったけれど、何か悪いものなのだろうということだけは理解ができた。
「よくないのかい。」
父さんの表情もすぐれなかった。
「マヒが残るそうよ。うまく歩けないかもって。」
母さんはどうやら父さんの帰りの遅いのを気にしているようだった。ぼくは食卓を後にして、自分の部屋に向かった。ふと和室を横切ると、おばあちゃんがぼくを手招きしている。ぼくはちょっぴりおばあちゃんが苦手だった。
「ほとりさんだがぁ。」
座敷に入るなり、おばあちゃんはそうつぶやいた。ぼくはドキリとする。
「走ってしまったんだがぁ。いげねよ。」
おばあちゃんは独り言のようにつぶやき続けた。
「いげねよ。一人で出歩いぢゃ。必ず誰かを連れでぐんだ。いいかい、いげねよ。」
いげねよ、いげねよ。おばあちゃんがそう繰り返すのをしっかりときいて、ぼくは小さくうなずいた。
あくる日も、そのまた次の日も、雪が降った。
雪はうん、とたくさん積もって、次のよく晴れた日には小学校でカマクラをつくることになった。
大きなスコップを手にした用務員さんが雪の山をかき分けている。前日までに はたらく車がやってきていたのだろう。雪はずいぶんとならされていたけれど、それでもまだまだたっぷりと積もっていた。ぼくたちは夢中になって雪をかき分けたり、積み上げたり、うん、とはたらいた。
雪玉が飛んできてぼくの後ろの頭にぶつかったので、誰だ、と周りを見渡すとシヅルがこちらを向いてにやついている。シヅルは隠していた左手からもう一つ雪玉を取り出すと、さっと投げつけてきた。ぼくはとっさにかがんで避けると、猛然と近くの雪をかき集めた。ずるがしこいやつのこと、ぼくはシヅルが避けるのを見越して一つ目の雪玉を投げると、続けてもう二つ放り投げた。案の定一つ目を避けて満足したシヅルに雪玉が的中する。よく晴れた昼間だった。カマクラを作っていたはずなのに、いつの間にか雪合戦になっていた。用務員さんも一休みしてぼくたちをながめている。
昼間がよく晴れると、夕方にはずっと寒くなった。空が雲の外套を着ないから、晴れた夜には寒く感じるのだとおばあちゃんが言っていた。 家が同じ方向なので、僕とシヅルは自然と一緒に帰ることになった。ぼくたちはくたくたになっていたけれど、急ぎ足で暗くなる空の下を歩いていた。
「4日、流星群見にいがね。」
シヅルは星や月が好きで、夏くらいからずっとお年玉をもらったら天体望遠鏡を買うのだと言っていた。どうやらさっそくそれを使って天体観測しにいくらしい。
「へえ。おじさんはいいって言ってるの?」
ぼくは望遠鏡がうらやましかったので、内心では飛び上るほどうれしかった。だけどここであんまりよろこんで見せると、後で何やかんやと言われそうで、つとめて冷静にふるまった。
「実は、内緒なんだが。」
「流星群て、夜中だよ。」
ぼくは目を丸くしてシヅルの顔を見返した。内緒、ということは、大人たちのいないところで、ぼくたちだけでやろうということだ。凍てつくような寒さの中で空から雪のように降ってくる星を想像すると、それはとても スゴイ光景なのだろうと思った。ぼくは流星群を見たことはなくて、プラネタリウムにだって行ったことがなかったから、想像したのは絵本で見た絵の具の夜空だった。
「4日だからいいんだがぁ。親戚のあいさつまわりで、みんな酒飲んで寝でっがらな。」
「でも…。」
ぼくがしぶっていると、シヅルがからかう表情になった。
「なんだ、まさかビビってんだが?」
寒さでかじかんだ頬が、もうひとつ真っ赤になった。
「ビビるもんか。行こう、行こう。」
強がって言った僕の言葉にシヅルは満足したようで、二・三回うんうんとうなずくとにっこりと笑った。言ってしまってから、ぼくは不安になった。夜中に出歩くなんて、正直おっかなかったのだ。頭の端っこに、おばあちゃんの声がした。
--いげねよ。一人で出歩いぢゃ。必ず誰かを連れでぐんだ。いいかい、いげねよ。
年末は日暮れよりも早くやって来ては過ぎ去ってしまい、ぼくはお年玉をもらってうきうきと過ごしていた。シヅルは首尾良く望遠鏡を買えたか知らん。しかし、三が日が過ぎて4日になると、ぼくは再び思い出したように不安になった。昼間はよく晴れて、ニュースでは流星群がここ最近では一番よく見えますとはしゃいだ放送を流していた。
そして、夜が来た。
九時には布団に入った振りをして、ぼくは計画の時間を待った。二重になった窓ガラスが寒そうに夜を映している。時間になると、考えられるだけの防寒着を集めて、あらかじめ昼間に開けてあった勝手口を目指した。扉をくぐると、予想よりもはるかに冷たい空気がそこにはあった。ぼくはシヅルと待ち合わせをしている小学校の門まで、急ぎ足で歩き出した。
グキリグキリと雪をふみしだく音が、響いては闇に吸い込まれていく。頼りない電柱の明かりが届かないところから、今にも何か出てくるのではないかと、ぼくは泣きそうな気持ちで歩いた。
正門にようやくたどり着くと、シヅルが暖かそうなダウンのコートを着こんで、ひっそりと待っていた。
「遅いがぁ。もう流れてるのがここからでも見えるがら、退屈はしとらんが。」
言われて空を仰ぐと、ちょうど一つ落ちていくところだった。肉眼でもはっきりと流れていく尾が見えた。流れ星を見たのは、人生で2回目のことだった。
「流星群見るなら肉眼の方がいいが。実は今日はどうしても見だい星があって。」
シヅルはポツリと言うと大きな袋を担ぎなおした。ぼくたちはフェンスの切れ目から忍び込むと、校庭の真ん中まで慎重に進んだ。
夜の学校は怖かった。進むほどに灯りが遠ざかり心細さになおさら凍える。シヅルはそんなぼくを気にする風もなくずんずんと進み、暗い雪原の中で懐中電灯を頼りに望遠鏡の準備をはじめた。
「上、見なよ。」
背中の方がどうにも気になってきょろきょろしていたぼくは、そう言われてようやく流星を見に来たのだと思い出した。
冬の空は、きんと澄んでいた。おそろしいほどの星がたたずんていた。ぼくは今までこんな暗い夜に外に出たことなどなかったので、当然こんな風にまじまじと夜空を見上げることなどなかった。足元の雪も降っている間は美しい結晶をしているけれど、夜空の星々のまたたきは、また違った美しさをはなっていた。ぼくは自分の体が浮き上がったような気がして、夢中になって空を見上げていた。
「あ、流れたよ。ほら、もう一つ。」
見ている間にも星が飛んで、吸い込まれるように消えていく。
「どうして流れるのにこっちまで来ないんだろうね。横に消えてくばっかりで。」
ぼくの言葉は白い湯気になって星とともに溶けていく。
時間はあっという間に過ぎてしまった。気が付くとどうにも眠たくなって、身体中が寒さでカチカチになってしまっていた。ぼくはそれでもシヅルがうん、というまで星を眺め続けていた。シヅルがなれない手つきで望遠鏡をしまうのを待ってから、ぼくたちはまた正門へと戻った。街灯がこんなにもまぶしいものだとはついぞ知らなかった。
「やっぱり暗いところは違うがぁ。」
ぼくたちはゆっくりと夜道を歩いた。何だか心がいっぱいで、寒いのも眠いのも忘れてぼくはうっとりと夜を歩いていた。
「ありがとな。本当は、一人じゃ怖ぐて。流星群の日なら、退屈しねがら着いてきてくれっかなって。」
ぼくははじめてシヅルの素直な言葉を聞いた気がした。ありがとうがこそはゆくて、ぼくは小さくうなずきかえした。白い息が代わりに返事をしてくれた。
シヅルのマンションは市街地の方にあったので、ぼくらは交差点で手を振り合うと、それぞれの家まで帰ることになった。ほてった心の陰から再び心細さがじわりと沸き出した頃、ぼくは後ろから着いてくる足音に気がついた。
夜中である。
ぼくはとても振り返る勇気がなく、心なしか早足で家路を急いだ。
グキリグキリ。ぼくのたてる雪の音と、小さくきこえる後ろの足音とが、しん、と冷えた夜に寄り添っていた。これだけの急ぎ足なら、背後からも同じようにふみしだく雪の音がするはずだった。しかし後ろからやってくる足音は、サク、サクといかにもひっそりとしている。人間の足音ではない。ぼくは、ほとりさんが後ろから着いてきているのだと気づいていた。
あれほど独りで歩いてはいけないと言われていたのに。ぼくはほとりさんが後ろから着いてきたら、してはいけないことを必死に思い出そうとしていた。振り返ってはならない。走ってはならない。走ると脚を悪くするらしい。振り返ると、どうなるんだっけ。悩むうちにも足音はひっそりと着いてきていた。
ほとり、ほとり。
ぼくはたまらなく叫びながら走り出してしまいたい気持ちにかられたが、おばあちゃんの言葉を、母さんや父さんの顔を思い出して、必死にこらえていた。
「あっ、」
ぼくは思わず声をあげた。
目の前の道が、大きな倒木で遮られているのが見えた。以前から傾いでいた大木だったが、最近のドカ雪の重みでついに立っていられなくなったようだった。ぼくは頭の先から、すぅっと血の気が引くのがわかった。家までは一本道なのである。くぐったり、回り込んだりできるかもしれないが、少くとも立ち止まらなければならないだろう。すぐ後ろにはほとりさんがいるのに。
諦めきれずに倒木の前まで来てみたが、根本の腐ったところからバッタリと倒れたらしい大木は、ぼくにくぐり抜けたりよじ登ったりできるだけのすき間を与えてはくれていなかった。暗く狭い路地で、周りには雪をかき分けた壁が立ちはだかり、とうとう進むことができないのだと、ぼくは覚った。
意を決して、立ち止まった。後ろの足音も立ち止まった。ぼくは、振り返ることができない。
どれくらい待ったものか、ぼくは、振り返らずに回り込むことはできないかと、不毛なことを考えていた。恐ろしく寒いのに、脇の下に汗をかいていた。身体がガチガチと震えるのが、寒さのせいなのか、恐怖のためなのか、もはや分からなかった。
ほとり。
雪の落ちる音が、近くで聞こえた。やがて雪の音に混じって声のすることに、ぼくは気がついた。
「ーーいがねで。」
行かないで。
「せめで、さいごに、」
こっぢ見で。
ぼくは、その声があまりにも悲しくて、心がぎゅう、と縮こまった。幼いこどもの声だった。
「だめだ、振り返っぢゃいげね。」
今度は大人の声がした。吹雪の中、肩を寄り添って遠ざかる両親が見えた。すすり泣く母親の声がした。
ほとり。ほとり。
それが涙の落ちる音だと、ぼくはようやく気がついた。生暖かい滴が、かじかんだ頬を伝っていった。
ぼくは、冬の河原に立っていた。
道祖神の傍らに、幼い子どもがうずくまっている。その子の脚には擦りきれた布切れが巻き付けてあって、靴のあるはずのところから先が、ふつりと途切れていた。
ぼくは、はらはらと泣き出していた。この雪が止むことはないのだと知っていた。また後ろから声がした。
「いがねで。」
ぼくは、ついに振り返った。
そこは、ぼくの家の前だった。
倒れた木も、降りしきる雪も、淋しいものなどそこには何もなかった。ぼくは流れ星をまた一つくぐって、勝手口から家に入った。灯りがついていたのでまさかとは思っていたが、台所から居間へと入ると真っ青な顔をした両親が椅子から飛び上がってぼくのところへやってきた。母さんがぼくの肩を抱き、父さんは何度も何度もおかえりを繰り返した。
翌日、ことと次第を聞いた両親は驚いたり呆れたりして、シヅルとぼくは二人してこっぴどく叱られることになった。シヅルはしばらく新しい望遠鏡を取り上げられることになったようだが、今度は写真を撮るのに向いてるから、ケイイダイシキをやめてセキドウギシキのカダイを買ってもらうのだと息巻いている。
ぼくは、ほとりさんの話をシヅルとおばあちゃんの二人だけに話した。シヅルは目を真ん丸にして、走り出さなかったぼくを物珍しげにながめた。
「いいこと聞いたがぁ。着いて来だら振り返ればいいんだが。今度観測行くときも安心だがぁ。」
ぼくはシヅルの胆の据わっていることに逆に感心してしまった。
おばあちゃんはぼくの話を聞くと、うん、うん、とうなずいて頭をなでてくれた。ぼくはそれが少し嫌だったけど、信じてくれたおばあちゃんのことが少し苦手ではなくなった。
雪深いあっちの里じゃ、いつもみんな貧しくて、凶作の年にはうんと飢えた
そんな貧しい里では、脚の悪い子は育てちゃもらえなかったんだぁ
冬の足音が近付くと、今日もぼくの里では、ほとりさんの声を聞く
ほとり、ほとり。
作中に出てくる流星群はしぶんぎ座流星群のことです。
2014年はまさに絶好の観測機会になるようですので、晴れた地域の方は是非観測に出掛けてみてください。
ただし、きちんと大人の人とご一緒に。