三分咲き
向日彩月に一目惚れしても、僕の生活はなんら変わりやしない。
いつもどおり授業開始五分前のチャイムが鳴っている最中に校門を忙しげにくぐり、小走りで教室に滑り込む。
しかし、ただひとつだけ変化があった。
数学の時間が少し楽しみになったことだ。
勿論、よくわからない記号や公式に興味が湧いたわけではない。
向日彩月を一目見ることが楽しみなのだ。
僕の腕時計は、数学の授業終了五分前の時間を示している。
とてつもなく長い、たった五分。
適当に約五分くらいの音楽を頭の中で口ずさんだ。
甲高い音を発て、待ちに待ったチャイムが鳴った。
既にノートや筆箱の片付けが済んでいるのにもかかわらず、タイミングを見図るように何もない机を手のひらで数回払った。
そろそろか、と思い席を立つと、ドア近くに向日彩月の姿を認めた。
透き通ってしまいそうな白い顔。なんて美しい人なんや。
我を忘れて歩く僕の視線は、向日彩月だけを捉えていた。
ある日、僕は山下、永崎と放課後の食堂で時間をもて余していた。
僕はコーラを、山下と永崎は仲良くアイスをつついていた。
「こんな寒いのに。よう食べるわ」
そう呆れながら言った僕に、永崎は笑顔を返してきた。彼氏に似て、こいつもアホなのか。
食堂には、僕らのグループと一、二年生がちらほらいるのみであった。上靴の色でわかる。一年は赤、二年は緑、僕ら三年は青。
ある者は会話を楽しみ、ある者は腕枕に頭を任せたりと過ごし方は様々だ。
窓からは、夕焼けに染まりかけている空が額縁に収まった絵のように見えている。
周囲がセンター試験の出来具合を熱く報告し合う中、センター試験を受けていない僕らは日々を落ち着いて過ごしている。
「隆司らはいつ予備校行くん?」
永崎が山下に笑みを添えて訊ねた。
「あと少ししたら行こか」
今度は山下が僕に訊ねた。
「さっきもそう言ってたやん」
うそやん、と山下はもとから大きい目をさらに大きく見開いた。
瑞季くんの言うとおりやで、と永崎が山下の背中を叩いた。
すっかり空になった缶を軽く握り潰し、ゴミ箱に捨てて席に戻ってくると、
「彩月ちゃんのこと好きなん?」
とあまりにもストレート過ぎる質問を永崎は投げ掛けてきた。
なんの予想もしていなかった僕は、えっ、と答えるしかなかった。これが寝耳に水というやつなのか。
「すまん、この前明海に言うてしもうてん」
そう言った山下は手を合わせた。
「まだ好きになったつもりはないんやけどなぁ」
僕はあまりにも弱々しく答えた。
「うちも間に入ったろか?」
それええな、と山下が話を大きくする。
心の苗の飼育者がまた一人増えた。
こうなったら放っておくしかない。
「けど、もう受験やもんなぁ」
困ったような表情をした永崎は溜め息を吐いた。
せやで、と僕は話を終わらせようとする。
「なんや消極的やな」
「恋愛と無縁やった俺があんな人と付き合えるわけないやんか」
「そんなことないと思うけど」
なぁ、と山下は永崎に同意を求めた。
永崎も笑顔で首を縦に振った。
「二人と一緒にせんといて」
僕はため息とともに、そう言い放った。
校門で永崎とは別れ、山下と予備校に向かうため、街路灯が点いた坂道を下った。
冷たい風が相変わらず、肌に刺さる。
マフラーに顔を潜らせ、自転車のスピードを上げていく。
「なぁ」
先を進む山下が、息を吐くように言った。
「瑞季はどうしたいん?」
その投げ掛けに、僕は戸惑った。
どうしたい、その質問は今の自分には早すぎるように感じた。
「そら付き合えたら嬉しいけど、まだそこまで気持ちがなぁ」
この答えがベストなのかどうかわからなかったが、精一杯に答えた。
「そっかぁ。確かに難しい時期やもんな」
そして、山下は続けて言った。
「今までめっちゃ世話になったし、明海と付き合えてんのも瑞季のおかげや思うてるねん。だから、もし向日さんのこと好きになったときは、俺に協力させてくれへんか」
知らぬ間に、二人は並んで自転車をこいでいた。
街路樹、街路灯が絶え間なく後退していく。
公園の向こう側にある竹林が、乾いた音を発てる黒い塊に見える。
「ありがとう。せやけど、今は正直なとこ自分の気持ちがわからん。もし、気持ちが固まったら、そのときは山下のこと頼るわ」
さんざん世話してきたし、と僕は笑った。
「恩返しさせてくれよ」
山下もそう言い笑った。
竹林を抜けると、イルミネーションを纏った木々が見え始めた。
予備校まであともう少しだ。