表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

透明な犬

作者: 月射林滅異

「透明な犬がいるとしましょう」

と白衣を着た中年の男は語りはじめた。突飛な仮定だったので、喩え話のようなものをはじめるのだろう、と探偵は聞いている。


「もちろん突飛な話です。僕はほんのささいな町医者にすぎませんが、科学的にどうこう言うまでもなくそんな話はテレビでも聞いたことがない。せいぜいオカルト番組で取り上げられるくらいでしょう。そういえばオカルト番組って最近見ませんね。なぜだと思いますか? 心霊現象と世間が呼ぶものが、世界から忽然と急に消失したということなんですかね。探偵さんはどう思います?」


 探偵は答えに困った。私がここにきたのは、町医者から依頼の電話がかかってきたためだ。それが到着してまず透明な犬の話を聞かされて、次にオカルト番組が廃れた理由についての意見を求められている。目の前の男はどろんとした目つきで、髪には白髪が相当まじり、生え際もかなり後退している。

それでいて話し方は快活だが、まるでそれは料理屋の前に飾られている、よくできたイミテーションのように人工的な明るさだった。


「あなたの話の意図がよく分からない。ご存じのとおり、探偵の仕事は、要約すれば探すか、張り込むかの二種類しかない。心霊現象が世間から消えていくならば、そのメカニズムについて民族学者や社会学者は調査すべきかもしれない。しかし張り込むことも探すこともできない曖昧な事象は、私の管轄ではない。それについては両手に金属の棒をプラプラして昼間から歩きまわっているような連中を、暇人を当たってくれ」


「これは失礼しました。探偵とはそういう直接的な考え方をするのですね。僕のこういう話し方は、癖なんだろうな。つまり医者というものは、とくに僕のような細々とした所でやっている開業医はけっこう暇なんですよ。でもね、この依頼には本質的にそういう核心を掴みようのないところがあるんです。それは認めて下さい」

白衣の男はここで言葉を切って、天井の蛍光灯を仰いで、これから言うべき言葉を組み立てているようだった。


「やはり、こういう言い方をするしかない。透明な犬がいます。女子学生のする噂話とか遠い外国のことではなく、この町のどこかに、確かな重みをもって、ふらつき歩いているはずです。あなたにはその犬を見つけ出して欲しいのです」

冗談を言っているようには見えなかった。ふつうこういうことを語ると照れ隠しの笑みがこぼれたりする。しかし白衣の男はどろんとした目つきのまま、真剣な口調でこの台詞を語り終えた。


 探偵は二つの可能性を考えていた。この男は気が狂っている。あるいは『透明な犬』とやらがこの町のどこかを徘徊している。もしかしたらこの男は気が狂っていて、なおかつ透明な犬はこの男の脳内に確かに存在しているのかもしれない。


「犬の存在を証明する手段がないと、私は動けない。『不老不死の秘薬を探しに行け』といわれて登山用リュックを背負って中国の山まで行くのは、どうも探偵らしくないような気がする」

白衣の男は笑いだした。冗談を介するくらいには正常そうだ。


「分かりました」


と男は事務所に下がり、大きなものと小さなもの、二つの茶封筒をもって引き返してきた。小さな茶封筒は、外からみるだけでもぎゅうぎゅうと何か固いものが詰めこまれているのがわかる。


どさっ。


探偵の眼の前に、この小さな茶封筒が落とされた。探偵がのぞくと、なかには一万円札の束が詰まっている。100枚は軽く超えていた。

「日給五万円で、『犬』を探してください。見つかろうが見つかるまいがこれはあなたのものです。見つかった場合は終了ボーナスをお支払いします」

「いいのか? 俺がわざと手を抜いたらどうする」

「あなたの評判は聞いています。だから電話をしたのです。といっても、優秀さの評判ではなく誠実さの評判ですが」

「もう一つの封筒はなんだ?」

「これは…」


といって白衣の男は、こんどは大事そうに大きな封筒から、なにか探すように手で封筒の中をかきわけて、一枚だけ取りだした。小学校低学年くらいだろうか。色白で髪の短い男の子がはにかんでいる。男の子の周りはどこかの河川敷だろうか。表情以外にはなんの変哲もない。探偵はとりあえず受け取った。


「犬を捜索中に、彼と遭遇するかもしれません。そしたら、これを彼に渡してください」

白衣の男はポケットからてのひらより大きいが薄い木箱を取りだして探偵に預けた。


「これは何だ。この少年と透明な犬はなにか関係があるのか?」

「それは一言では答えられませんし、またしても曖昧な話になってしまいます。あなたに説明する種類の話ではないでしょう。彼と会えばわかるかもしれません。会わなければあなたと関係がなく、全ては確率の問題です。……まあ、ついでの依頼と思って頂ければ」


といった男の声は、どこか別の部屋に向けて語りかけているようだった。相変わらず眼は落ちくぼみ生気を失っている。探偵はそれならそれでいいと思った。依頼人が探偵に壁を作ることは必ず起こると言ってよい。プライバシーに関わる仕事をしているのだ。それをしつこく詮索することは、探偵にとっても良い結果をもたらさない。


探偵が診察室から出ようとすると、白衣の男が背中に語りかけてきた。


「ふつうの犬が無数にいるこの町で、あなたは『透明な犬』をどうやってみつけだす方針ですか?」

「町じゅうにドッグフードを撒いて、出てきた犬を片っ端から保健所に引き取ってもらうよ。それでもまだ道でワンワン鳴いてるやつにペンキぶっかける」

◇◇◇


 と戯れ言をいったものの、探偵は途方に暮れていた。なにしろ透明な犬だ。そんな概念のようなものを、一体どうすれば見つけられるというのだ。ともかく、日給は出る。それは良かったものの、方針もなく足を腐った棒のようにして歩きまわらねばならないのだろうか。


 探偵はロシアの小説のワンシーンをふと想い出した。強制収容所の囚人が、冷たい風が吹くなかで大きな穴を掘らされている。穴を掘れば土が積もる。その積もった土で、べつの囚人が掘った穴にどさっと埋める。自分の掘った穴も、しばらくすればべつの囚人が元通りに埋めてしまう。囚人たちにとってこの行為に意味はない。ただの大がかりな懲罰だ。ともかく、最初の七日間は歩きまわることに決めた。


 豆腐のような団地が建て並ぶ団地エリアはこの町で12ヶ所ほどある。それを2日間でシラミ潰しにまわって、「透明な犬」について不審人物と噂を立てれない程度に、子供に聞きまわった。なにせ透明な犬だ。こんなことは大人に聞いてもどうしようもない。子供たちは男女問わず面白がっているようだが、有力な目撃例のようなものはどの団地にもなかった。


 団地から責めたのは、子供のヨコの関係がゆるやかに繋がっているからだ。面白いことに、団地という空間は大人同士が疎遠になりがちだが、子供は家が近いというだけですぐ仲良くなる。一戸建てに住む子供たちはそういうことが少ない。


「さて、次はこの町の中心市街地があり、それ以外にあちこち点在する村落があり、西のほうに工場地帯があり、東に野があり山があり、花も咲き乱れ……」

 頭痛がして空を仰ぐが、灰色の雲がどこまでも広がっているだけだった。ふと、探偵は左脚のうしろが引っ張られるのを感じた。振り向くと、そこには小学校低学年くらいの少年が、不安そうにこちらを見上げている。


「おじさん、とっ、透明な犬を探しているの?」

少年はおどおどした調子で訊いてきた。人見知りしているのだろうか。見た目には短く刈り込んだ髪がスポーティーであるが。勇気を振り絞って探偵に声をかけたのか。

「いかにもそうだが、何か用か?」

「あのね、僕、一回みつけたんだ。あっちのほうの道をずぅーっといって曲がったところでまたこう曲がってずーっといってさ」

よく分からないが、少年はとても興奮しているようだ。まず確認を取ろう。


「分かった。つまりきみは透明な犬を、この町のどこかで見たと、そう言うんだな?嘘じゃないんだね?」

「本当だよ! 僕、それでさ、あっちをずぅーっと行った川のほうに遊びに行ったんだけど、その川で遊んでるときに見たんだ」

「あの方角の大きな川……早鬼川か。あそこは確か、流れが速いということで何年か前に子供の事故があって、それで立ち入り禁止になっているはずだが」

探偵がそう言うと、少年は顔を下に向けて両手を固く握って、黙りこんでしまった。

「いや、何もきみを責めようってわけじゃない。私はかの犬を探しているだけだからな。教えて欲しいだけだ」


探偵はポケットから『サクマドロップ』のオレンジを右手に取りだして、少年に差し出した。

「どうだ、飴玉だ。美味いぞ」

「いらない。それって田舎のおじいちゃんの食べ物だし」

「こらこら、サクマドロップを馬鹿にするな。これは神の召し物だぞ」

「100円でスーパーに売ってるし」

「金より心だろ。まったく、最近の小学生は」

かなり打ち解けた少年と探偵は、早鬼川までタクシーで移動した。


 タクシーを降りて、『立ち入り禁止』の看板を超える。30メートルほど上のガードレールからみると早鬼川は、全幅が50メートルほどのコンクリートと草木の混合物でうえから囲まれていて、そのなかに何本もの流れがぐねぐねと曲がりくねっていた。もしいま雨が降るとこの川がどう形を変えるのか、予測しがたい怖さがある。ともかく、行くしかない。


 獣道のような小さなくぼみに沿って、工事用ロープが張ってある。そこから降りていくことにした。振り返ると、少年は数歩うしろをついてきていたが、表情は灰色に曇っている。

「きみくらいの年頃の時、私は大げさに『秘密基地』なんかを作っていたよ。大人から危険だと警告されていた場所に侵入したことも何度もある。そういうのに、心がざわつくっていうかな。とにかくワクワクできる年頃だった」


「……僕も、こういうのわくわくするよ。あの時も、お父さんに怒られて、それで家から飛び出して、ミヨシ君とこの川に来たんだ。すごく楽しかった。でも、途中から雨が降り出して、風も吹いてきて、怖くなってきた」

いつの間にか、少年は探偵の前を歩いていた。ものすごい速さで草木をかき分けて、川のほうへと小道を下っていく。探偵は転ばないように追いつくのが精いっぱいだ。

「そのとき、ミヨシ君と透明な犬を見つけた?」

「ほんと言うと、よく分かんない。川がどんどん広がってきて、僕らの後ろのほうにも水が流れてきた。それで流されて死ぬって怖くなった。気づいたら川のあっちのほうになにか光る二つの光があった。姿は見えないけど、その目は犬のものだと思う」


ようやく青い石で敷き詰められた河原に降りられた。少年はちょうどコンクリートの凹の中間25メートル地点くらい、大きな本流を指差しながら、

「あっちのほうだよ。その透明のやつは僕とミヨシ君のほうに近づいてきたんだけど、僕は転んで気を失ってしまって……。それで、あとからミヨシ君が僕のお父さんに、透明な犬の話をしてたらしいんだ」

「それはおかしいな。なぜ他人事なんだ? なぜきみのお父さんは、ミヨシ君から『透明な犬』の話を聞いた? なぜきみは直接お父さんに言わなかった」

少年はまた俯いて、今度はかなり長く沈黙していた。


「それは、言えないよ」

頑なな表情で一言、絞りだした。そんなことあるはずないが、少年の全身の色が薄くなっているように見える。

「だって僕はもう、死んじゃったからだよ」


無表情で探偵はそれを聞いた。ここには少年と探偵、二人しかいない。岩石を打つ川の音がやけに大きく、それでいて遠くのことのように聞こえる。水蒸気が多いせいか、やけに肌が寒い。


「テストで悪い点取っちゃって、あの日お父さんとケンカしたんだ。こんなに遊んでいて医者を継げるわけがないって。僕は医者なんかなりたくない。野球選手になりたかったけど、ケガをするといけないからってチームに入れさせて貰えなくて。医者なんかつまらない、野球選手になりたいといったら、急に怒って出て行けと言われて。お父さんは嫌いだ」


「それで、きみたちはここに来て、ミヨシ君だけ助かったわけか」

しばらくアゴに左手を当て考えていた後、探偵はスーツのポケットに右手を入れ、なにやら取りだした。

「お父さんからきみへの届け物だ。多分な」

「お父さんから? ……そんなの、あるわけない。お父さんは言うこと聞かない僕なんか死んで良かったと思ってるよ!」

「いいから開けてみろって」


少年はおそるおそる、探偵からその大きくて薄い茶色の木箱を受け取った。片方の手と胸を箱の支えにして、開くと中には小さな衣服のようなものがきれいに畳まれて入っていた。

「これは、野球のユニフォームだ。どうして……」

「だから、そういうことなんだろ。ずっと悔いていたんだろうな」

ユニフォームを両手で伸ばしてあぜんとしていた少年だか、急に震えだしてユニフォームを胸にくしゃくしゃに抱きしめて、無言で泣き出した。少年は全身がほとんど消えかかっている。嗚咽を繰り返しながらも顔をあげて、僅かにはにかみながらこちらを見た。その姿は、確かに白衣の男から預かった写真の少年だった。


「けっきょく、『透明の犬』ってあれは何だったんだ? 親父に伝言することはあるか?」

探偵が聞いた時には、辺りには人の姿はどこにもなく、ただ穏やかなせせらぎの音が耳に心地よかった。灰色の雲は割れて、あいだから光が差し込んできていた。探偵は場違いなスーツ姿のままで、茫洋と視線を泳がせていた。

尻すぼみで申し訳ないです。感動は難しい!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ