参:長恨歌(永遠に消えぬ愛の歌)白居易
漢皇重色思傾國,御㝢多年求不得。
唐の皇帝(玄宗)は美色を重んじ、国を傾けるほどの美女を求めていたが、治世を重ねてもなお、心を満たす者には出会えずにいた。
楊家有女初長成,養在深閨人未識。
その頃、楊家に一人の娘が美しく成長していた。彼女は奥深い部屋で大切に育てられ、その美貌はまだ世に知られていなかった。
天生麗質難自棄,一朝選在君王側。
天賦の美しさは隠し通せるものではなく、ある日ついに彼女は選ばれ、皇帝の傍らに召し出された。
迴眸一笑百媚生,六宮粉黛無顔色。
彼女が振り返って一度微笑めば、ありとあらゆる艶やかさが溢れ出し、後宮に並み居る美女たちの化粧顔も、一瞬で色あせて見えた。
春寒賜浴華清池,溫泉水滑洗凝脂。
春の寒さが残る頃、彼女は名高い華清池での入浴を許された。なめらかな湯が、透き通るような白い肌を潤していく。
侍兒扶起嬌無力,始是新承恩澤時。
湯から上がり、侍女に支えられた彼女の体は、なよなよとして力がない。それはまさに、皇帝の深い寵愛が始まった瞬間であった。
雲鬢花顔金步摇,芙蓉帳暖度春宵。
雲のような髪、花のような顔、揺れる金の髪飾り。芙蓉の花を刺繍した帳の中で、二人は温かな春の夜を重ねていく。
春宵苦短日高起,從此君王不早朝。
あまりに幸せな夜は短く、陽が高くなるまで二人は起きない。これ以後、皇帝が早朝の政務に姿を見せることはなくなった。
承歡侍宴無閑暇,春從春遊夜專夜。
宴に侍り、寵愛を受ける日々には片時も暇がない。春は春の遊びに付き従い、夜は夜で皇帝を独占した。
後宮佳麗三千人,三千寵愛在一身。
後宮には三千人もの美女がいたが、その三千人分の愛は、たった一人の彼女に注がれた。
金屋粧成嬌侍夜,玉楼宴罷醉和春。
黄金の館で装いを凝らして夜の伽を待ち、白玉の楼閣で宴が終われば、春の微睡みのような酔いに身を任せる。
姊妹弟兄皆列土,可憐光彩生門戶。
彼女の兄弟姉妹には次々と領地が与えられ、楊一族の門構えは羨むほどの輝きを放った。
遂令天下父母心,不重生男重生女。
その繁栄ぶりを見た世の親たちは、「男を産むより、女の子を産む方がよほどいい」とさえ思うようになった。
驪宮高處入青雲,仙樂風飄處處聞。
驪山の離宮は高く青空にそびえ、天上の音楽のような調べが風に乗って至る所に響き渡る。
緩歌慢舞凝絲竹,盡日君王看不足。
緩やかな歌声と舞いに楽器の音が重なり、皇帝は一日中眺めていても飽きることがなかった。
漁陽鞞鼓動地來,驚破霓裳羽衣曲。
しかしその時、北の漁陽から反乱の軍鼓が地を揺るがして迫り、華やかな舞曲を無残に引き裂いた。
九重城闕煙塵生,千乘萬騎西南行。
都には戦火の煙が立ち込め、皇帝は数千数万の軍勢を連れて、西南の地へと逃れていく。
翠華摇摇行復止,西出都門百餘里。
皇帝の旗が揺れ、進んでは止まる。都を出て百里余り、馬嵬の駅に辿り着いた時――。
六軍不発無奈何,宛轉娥眉馬前死。
兵士たちは「楊一族を殺さねば進まぬ」と動かない。皇帝はどうすることもできず、ついに美しき愛妃は馬の前で命を絶たれた。
花鈿委地無人收,翠翹金雀玉搔頭。
彼女の髪飾りは地面に散らばったまま拾う者もなく、宝石や金の細工が虚しく泥にまみれている。
君王掩面救不得,迴看血淚相和流。
皇帝は顔を覆って泣くばかりで、彼女を救うことはできなかった。振り返れば、ただ血と涙が混じり合って流れるのみ。
黃埃散漫風蕭索,雲棧縈紆登劍閣。
黄色い土埃が舞い風は寂しく吹きつけ、険しい桟道を越えて剣閣の山を登っていく。
峨嵋山下少人行,旌旗無光日色薄。
峨眉山の麓を行く者は少なく、皇帝の旗も光を失い、陽の光さえ力なく翳っていた。
蜀江水碧蜀山青,聖主朝朝暮暮情。
蜀の川は碧く、山は青い。けれど皇帝の心は、朝から晩まで彼女への想いで溢れていた。
行宮見月傷心色,夜雨聞鈴腸斷聲。
仮の住まいで見る月は心を傷ませ、夜の雨に響く鈴の音は、腸がちぎれるような哀しみを誘う。
天旋日轉迴龍馭,到此躊躇不能去。
やがて乱が治まり都へ帰ることになったが、あの場所(馬嵬)に差し掛かると、皇帝は足が止まり、立ち去ることができない。
馬嵬坡下泥土中,不見玉顔空死處。
馬嵬の坂の泥土の中には、もうあの美しい顔はない。ただ彼女が死んだという、虚しい場所が残るだけだ。
君臣相顧盡霑衣,東望都門信馬歸。
君臣ともに顔を見合わせては涙で衣を濡らし、東の都を目指して力なく馬を走らせた。
歸來池苑皆依旧,太液芙蓉未央柳。
帰ってみれば、池も庭園も昔のまま。太液池の蓮の花も、未央宮の柳も変わらない。
芙蓉如面柳如眉,對此如何不淚垂。
蓮の花を見れば彼女の顔を思い出し、柳の葉を見ればその眉を思い出す。これを見て、どうして涙を流さずにいられようか。
春風桃李花開夜,秋雨梧桐葉落時。
春風に桃や李の花が咲く夜も、秋の雨に梧桐の葉が落ちる時も、彼女の面影が消えることはない。
西宮南苑多秋草,宮葉滿階紅不掃。
西宮や南苑には秋の草が生い茂り、散り敷いた紅葉を掃く者もいない。
梨園弟子白髮新,椒房阿監青娥老。
かつて共に遊んだ芸人たちには白髪が混じり、後宮の侍女たちもすっかり老いてしまった。
夕殿螢飛思悄然,孤燈挑盡未成眠。
夜の殿(御殿)に蛍が舞えば、想いは静かに沈んでいく。灯芯を何度かき立てても、眠りにつくことはできない。
遲遲鐘鼓初長夜,耿耿星河欲曙天。
夜を告げる鐘の音は遠く、夜はあまりに長い。天の川が白み始め、ようやく夜明けが近づく。
鴛鴦瓦冷霜華重,翡翠衾寒誰與共。
鴛鴦を模した瓦には冷たい霜が降り、翡翠の掛け布団は冷え切っている。一体誰と共に、この寒さを凌げばよいのか。
悠悠生死別經年,魂魄不曾來入夢。
生と死に別れてから、長い年月が過ぎた。けれど彼女の魂は、一度として夢にさえ現れてはくれない。
臨邛道士鴻都客,能以精誠致魂魄。
その時、都に臨邛から来た道士がいた。彼は精神を集中させることで、死者の魂を呼び寄せることができるという。
為感君王輾轉思,遂教方士殷勤覓。
皇帝の狂おしいまでの想いに心を打たれた道士は、術を使い、彼女の魂を求めて探し始めた。
排空馭気奔如電,昇天入地求之遍。
空を裂き、風を操って稲妻のように駆け巡る。天に昇り、地の底まで、くまなく探し歩いた。
上窮碧落下黃泉,兩處茫茫皆不見。
天空の果てから黄泉の国まで探し尽くしたが、どこにも彼女の姿は見当たらない。
忽聞海上有仙山,山在虛無縹緲間。
ところが、ふと「海の上に仙人の住む山がある」という噂を耳にする。その山は、霞の向こうに幻のように浮かんでいた。
樓閣玲瓏五雲起,其中綽約多仙子。
山には玲瓏たる楼閣がそびえ、美しい雲がたなびく。そこにはたおやかな仙女たちが大勢暮らしていた。
中有一人字太真,雪膚花貌參差是。
その中に、「太真」と名乗る者がいた。雪のような肌、花のような顔立ち。間違いなく彼女であった。
金闕西廂叩玉扃,轉教小玉報雙成。
黄金の門の西にある玉の戸を叩き、侍女たちに取り次ぎを頼む。
聞道漢家天子使,九華帳裏夢魂驚。
「漢の天子(皇帝)からの使いです」という言葉を聞き、彼女の魂は驚きに震え、帳の中で目を覚ました。
攬衣推枕起徘徊,珠箔銀屏邐迤開。
衣を手に取り、枕を押しやって起き上がる。真珠のすだれや銀の屏風が次々と開かれていく。
雲鬢半偏新睡覺,花冠不整下堂来。
寝起きの髪は少し乱れ、冠も整わないまま、彼女は慌てて部屋を出てきた。
風吹仙袂飄颻舉,猶似霓裳羽衣舞。
風に吹かれてひらひらと舞う袖は、まるでかつて都で舞った「霓裳羽衣の舞」のようだ。
玉容寂寞淚闌干,梨花一枝春帶雨。
その美しい顔には寂しさが漂い、涙がとめどなく溢れる。それは、春の雨に濡れた一枝の梨の花のようであった。
含情凝睇謝君王,一別音容兩渺茫。
彼女は切ない眼差しで皇帝への感謝を口にする。「あの日別れて以来、お声も面影も遠く霞んでしまいました」
昭陽殿裏恩愛絶,蓬萊宮中日月長。
「都の宮殿での愛の日々は絶え、この仙界での月日だけが虚しく過ぎていきます」
迴頭下望人寰處,不見長安見塵霧。
「振り返って人間界を見下ろしても、懐かしい長安は見えず、ただ塵と霧が広がっているばかり」
唯将舊物表深情,鈿合金釵寄將去。
「せめて思い出の品で、私の変わらぬ想いを伝えたい」と、彼女は螺鈿の箱と金の髪飾りを使いに託した。
釵留一股合一扇,釵擘黃金合分鈿。
彼女は髪飾りを二つに分け、箱の蓋も一つずつに分けた。「片方は私が持ち、もう片方は陛下へ」
但令心似金鈿堅,天上人間會相見。
「私たちの心がこの金や螺鈿のように固い絆で結ばれているなら、天の上でも人の世でも、いつか必ず再会できるでしょう」
臨別殷勤重寄詞,詞中有誓兩心知。
別れ際、彼女はさらに言葉を重ねた。それは二人だけが知る、かつての誓いの言葉。
七月七日長生殿,夜半無人私語時。
「七月七日の七夕の夜、長生殿で。誰もいない真夜中に、二人きりで囁き合ったあの時――」
在天願作比翼鳥,在地願為連理枝。
「天にあっては、翼を一つにして飛ぶ『比翼の鳥』となり、地にあっては、枝が一つに溶け合う『連理の枝』となろう、と」
天長地久有時盡,此恨綿綿無絶期。
この広い天地がいつか尽きる日は来ても、二人のこの哀しみと愛の物語は、永遠に絶えることなく語り継がれていく。
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白居易(白楽天)の『長恨歌』は、唐の玄宗皇帝と楊貴妃の愛、そしてその悲劇的な結末を、ファンタジーの要素まで交えて描き切った壮大な叙事詩です。
歴史の奔流に飲み込まれた二人の愛を、流麗な小説風の対照意訳で綴ります。
物語の余韻
白居易のこの詩は、単なる歴史の記録ではなく、究極の「ロマンティシズム」です。
民風・俗習: 七夕の誓いや、比翼の鳥・連理の枝という比喩は、東アジアの恋愛観に計り知れない影響を与えました。
対比の美: 華やかすぎる前半(絶頂の愛)と、あまりに孤独な後半(死後の追慕)の対比が、読者の心を揺さぶります。
白居易のこの詩は、当時の唐の人々、そして後の日本の平安文学(特に『源氏物語』)に多大な影響を与えました。
歴史の皮肉: 絶世の美女が国を滅ぼしたという「傾国の美女」の教訓を含みつつ、詩の後半はロマンチックな幻想文学へと昇華されています。
「恨」の意味: 日本語の「恨み」とは少し違い、ここでは「遂げられなかった想い」「深い悲しみ」「未練」といった、消えることのない情念を指します。
この詩に登場する「比翼の鳥」や「連理の枝」は、今でも最高の愛を象徴する言葉として残っています。
李白が「天才の星」、杜甫が「良心の星」だとするならば、白居易は「人々に最も愛されたベストセラー作家」です。
彼は先行する二人の偉大な背中を追いかけながら、独自のスタイルで唐代最強のインフルエンサーとなりました。現代の若者にも通じる彼の「スマートな生存戦略」を深掘りします。
1. 白居易の「戦略」:誰にでもわかる言葉で書く
李白の詩は格好いいけれど真似できない。杜甫の詩は深すぎて時に重苦しい。 そこで白居易がとったスタイルは「究極のわかりやすさ」でした。
おばあちゃんテスト: 白居易は詩を書くと、近所の文字も読めないような老女に聞かせ、彼女が理解できるまで何度も書き直したという伝説があります。
バズる詩人: 彼の詩は、王様から街の居酒屋の壁、さらには海を越えて日本まで、瞬く間に広がりました。現代で言えば、「専門用語を一切使わずに、本質を突いた言葉で100万バズりを連発するトップクリエイター」です。
2. 現代の若者が共感する「中庸」の美学
李白のように会社を飛び出す勇気はないけれど、杜甫のように社会の重荷をすべて背負うのも辛い……。そんな私たちが最も参考にしたいのが、白居易の生き方です。
① 「ほどほど」に生きる賢さ
彼は出世もしましたが、左遷(地方への飛ばされ)も経験しました。しかし、そこで絶望するのではなく、「地方の方が美味しいものもあるし、のんびりできて最高じゃん」と気持ちを切り替えます。 この「適度な距離感で社会と付き合う」メンタリティは、現代のワークライフバランスの先駆けと言えます。
② 圧倒的な親しみやすさ
彼は自分のことを「楽天」と号しました。「天命を楽しんで生きる」という意味です。どんな状況でも楽しみを見つけ、それをシンプルに表現する力。これが彼の強さでした。
3. 日本文化への「神」レベルの影響
実は、日本人が「漢詩」と聞いてイメージする感覚の多くは、李白や杜甫ではなく、この白居易(白楽天)から来ています。
平安時代のバイブル: 紫式部(『源氏物語』)や清少納言(『枕草子』)は、白居易を「推し」として崇拝していました。
『源氏物語』の原点: 先ほど紹介した『長恨歌』がなければ、光源氏と桐壺更衣の悲恋の物語は生まれなかったと言っても過言ではありません。
4. 現代の心に刺さる代表作
『琵琶行』:落ちぶれた者同士の共鳴
「同じく是れ天涯淪落の人、相い逢う何んぞ必ずしも旧知ならん」
(私たちは同じように世に埋もれ、落ちぶれた身だ。出会ったからには、昔からの知り合いであるかどうかなんて関係ないじゃないか)
左遷された白居易が、かつて都で人気だったが今は落ちぶれた琵琶弾きの女性と出会い、共に涙するシーン。 「お前も大変だったんだな」と、見知らぬ他人の孤独に寄り添うその優しさは、SNS上のやり取りにも通じるエモさがあります。
『香炉峰の下』:スマートな暮らし
「遺愛寺の鐘は枕を欹てて聞き、香炉峰の雪は簾を掲げて看る」
(寺の鐘の音は枕を浮かせて聞き、山の雪は簾をさっと巻き上げて眺める)
清少納言が「少納言よ、香炉峰の雪はどうかしら?」と問われて、さっと御簾を上げたエピソードで有名です。 「日常のちょっとした瞬間を、いかに優雅に、知的にデザインするか」。丁寧な暮らしを好む現代のライフスタイルに通じるセンスです。
5. 白居易は「みんなの味方」
李白は「光」、杜甫は「影」、そして白居易は「その間にある温かい灯火」です。
彼は偉大な二人の先輩をリスペクトしつつ、それを誰にでもわかる形に翻訳し、1000年以上残るスタンダードに変えました。 「自分には特別な才能がない」と悩む若者にとって、白居易の「伝わる言葉を探し抜く努力」と「しなやかな生存戦略」は、最高のお手本になるでしょう。




