第8話「神を名乗ったのは、人間だった」
夜の教会は、昼よりも狭く感じた。
火の帯に囲まれた丘の上。割れたステンドグラスから見える空は、もはや空というより、黒と赤の層の境目みたいにゆらゆらと揺れている。風が吹くたび、遠くで何かが崩れた音がした。
その真ん中に、二つの“神”が立っていた。
一人は祭壇の近く、手に銃を持つ女――マグダ。
もう一人はその向かい、ステンドグラスの前に立つ男――ヨナス神父。
信徒席に固まっている十三から減った人影たちは、どちらを見るべきかわからず、視線を宙に泳がせていた。誰も立ち上がろうとしない。座ったまま、膝の上の手だけが何度も組み直される。
「さて」
先に口を開いたのは、銃を握る方――マグダだった。
「そろそろ決めようか。ここの“神様”を、ね」
「もう決まっている」
ヨナス神父の声は、低く、掠れていたが、はっきりしていた。
「私は“神父”だ。神ではない。……少なくとも、そうあるべきだった」
サラはベンチの端に座ったまま、ノートを抱きしめるようにしてその声を聞いていた。マグダの銃声で剥がれ落ちた天井の破片が、まだ床のあちこちに散らばっている。赤ん坊の泣き声が、さっきから不規則に響いていた。
「でも、今までやってきたことは?」
マグダが軽く首を傾げる。
「懺悔を“証拠”に変え、鐘を“合図”に変え、銃を“救いの形”に変えたのは、誰?」
視線がヨナスに集まる。
ヨナス神父は、その視線を逃げずに受け止めていた。肩を落とし、しわだらけの手を合わせ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……私だ」
そのひとことは、告白でもあり、判決でもあった。
「私は“神父”という名の盾に隠れていた。“神の代理人”を名乗ることで、自分の選択の重さから目をそらしていた。誰かを差し出すたび、誰かを赦すたび、それを“神の意志”に押しつけてきた」
サラの胸が痛んだ。聞いているこちらまで、何かを告白しているような気持ちになる。
「でも……」
ノラが小さく手を上げる。
「今だって、私たち、誰かに“決めてほしい”って思ってる。ヨナスさんでも、マグダでも、どっちでも。自分で『あいつを先に死なせろ』なんて言えないから」
「だからこそだ」
ヨナス神父は、割れたステンドグラスの前へ一歩出る。背後のガラスに描かれていたはずの救いの絵は、火と煤でほとんど原型をとどめていない。
「神は呼称ではない。選択の責任だ」
サラは思わず、ノートにその言葉を書き写した。
「“神”と名乗ることが許されるのは、自分の選択に最後まで責任を負える者だけだ。……私は、今までそれをしなかった。だから今ここで、神父という肩書きから降りる」
「降りる?」
エヴァが眉をひそめる。
「そんな簡単に……」
「簡単ではない。だが、必要だ」
ヨナスは祭壇の方へは近づかない。銃に視線を向けることさえ、避けているようにも見えた。
「私は祭壇の銃を取らない。二度と“神の名”で選別を回さない。……この教会に“神”がいるとすれば、それはここに立っている誰でもない。選び、指差し、紙に名前を書く、君たち一人ひとりだ」
「だったら」
銃を構えたままのマグダが、口角だけで笑う。
「余計に私の言ってたことが正しかったってことになる。人間は“神がいない”とわかると、すぐに誰かに神をやらせたがる。だったら、私はその役を引き受けるって言ってるの」
彼女は銃口を下ろし、床の一点に向ける。撃つ代わりに、言葉を撃ち込むみたいに。
「救う者と、外へ出す者。役割を分けなきゃ、全員が中途半端に死ぬ。紙の上では合理的で、実際には残酷。それでも、誰かがやらなきゃならない」
「紙で決めたって……」
トマが歯を食いしばる。
「また誰かが鐘の綱を握るみたいに、“名前を書かれたから”って理由で、撃たれたり、外に出されたりするだけじゃないか」
「その通りよ」
マグダはあっさりと認めた。
「だから、“名前を書く側”にちゃんと自覚を持たせる。さっきの“指名制”みたいにね。自分が誰を選んだか、その顔と一緒に一生覚えて生きていけばいい」
「そんな人生、地獄みたいだよ」
リーナが震える声で言う。
「でも、今は地獄の中にいるのよ」
マグダの声は静かだった。
「ここは教会じゃなくて、焼け残っただけの箱。何をしても誰かが恨まれるなら、せめて意図的にやった方がマシ」
言い争いが、堂々巡りになりかけたそのときだった。
「……なら」
弱々しい声が、輪の端から割って入った。
イレナだった。蒼白な顔で立ち上がり、震える足で一歩前へ出る。胸には赤ん坊が抱かれている。その小さな体は、母の心臓の鼓動に合わせて上下を繰り返していた。
「それでも誰かが選ばなきゃならないなら」
イレナは唇を噛みながら言う。
「わたしが行く」
教会の空気が、一瞬で凍った。
「イレナ!」
ミラが声を上げる。
「冗談じゃない。あんたはここにいなきゃいけない。赤ちゃんは――」
「この子は、誰かが抱ける」
イレナは赤ん坊の頬を撫でる。
「ミラでも、サラでも、誰でも。でも、“この子の母親を外に出す”って選択は、私にしかできない」
その言い方は、ひどくまっすぐで、ひどく危うかった。
「ここで、誰かが私の名前を書くのを待ってるくらいなら、自分で手を挙げる。そうすれば、誰も“私を指名した”罪悪感を持たなくて済むでしょう」
「待てよ」
トマが前に出る。
「そんなの、ずるいよ。自分で“行く”なんて言ったら、みんな止めにくくなるじゃないか。……行くなら、俺が行く。アルカさんみたいに水を取りに行く役、俺だって――」
「やめろ、バカ」
レオがトマの肩を強く掴んだ。指が食い込むほどの力だった。
「一度外を走ってきた俺から言わせてもらうと、お前みたいな体力の奴は、最初の火線で燃える。イレナと交換になんかなれない」
「じゃあ、誰が」
トマは必死に言葉を探す。
「誰が“選ばれるべき”なんだよ」
誰も、彼に答えられなかった。
マグダは沈黙を眺めながら、わざとらしく肩をすくめる。
「ほらね。結局、“自分で手を挙げる人”がいないと、話は進まない。イレナの覚悟は本物よ。この場の誰よりも“神様らしい”」
「言葉遊びはいい」
ヨナス神父が静かに言う。
「イレナ。君の覚悟は、本物だ。だからこそ、私はそれを受け入れない」
イレナが目を見開く。
「“行く”というのは、自分の命だけの問題じゃない。君が中に残ることで守られる人間がいる。赤子だけじゃない。君の存在に縋っている誰かがここにいる」
ヨナスはちらりとトマとリーナを見る。二人は、息を飲んでイレナを見つめていた。
「だから、その選択は君にはさせない。……それを決めるのは、神でもなく、君自身でもなく、私たち全員だ」
「結局、選ぶのは“紙”じゃない」
レオが低く言う。
「そろそろ、別のやり方を考える頃だ」
そのとき――
地下から、風が吹き上がってきた。
冷たい風だった。教会の中の熱と煤をひきはがすように、真っ直ぐに頬を撫でていく。風だけではない。どこかで、石が転げる乾いた音がした。
「……今の、何」
ノラが耳を澄ませる。
「通気坑だ」
アルカが顔を上げた。さっきまで壁にもたれて荒い息をついていた彼は、ゆっくりと立ち上がる。
「さっき、地下で見つけた。通気坑の奥に崩落跡がある。完全に塞がってるわけじゃない。一人ずつなら、腹を擦りながら通れるくらいの隙間がある」
皆の視線が、一斉に地下への階段へ向かう。
「出口が……あるってこと?」
リーナの目が一瞬明るくなる。
「たぶんな」
アルカは頷いた。
「さっきは水を持って戻るので精一杯で、全部は確かめられなかった。でも、あの先の空気は、ここより新鮮だった。煙の匂いも薄かった。丘の反対側に抜けてる可能性が高い」
「でも、一人ずつしか通れない」
エヴァが即座に現実を見た。
「向こう側で立ち止まったり、引っかかったりしたら、それで詰まる。火が回るまでに、全員は無理かもしれない」
マグダが、銃のグリップを指で叩きながら言う。
「結局、順番を決めなきゃいけないってわけね。紙の上じゃなくて、穴の中で」
サラは、心臓が速くなっていくのを感じていた。逃げ道。出口。救い。でも、それは同時に、新しい“選別”の形でもある。
「ロープが必要だ」
ユリウスがぽつりと言う。
「崩落の手前まで、通路が急に落ち込んでた。誰かが先に降りて、下から支えないと、子どもや怪我人は滑り落ちて骨を折る」
「ロープなら……」
ガブリエルが顔を上げた。
「鐘楼の綱を切れば、十分な長さが取れる」
鐘。
誰もが一瞬、顔をしかめた。その綱は、さっきまで“誰を犠牲にするか選ぶ手続き”の象徴だったから。
「いいじゃない」
マグダが、皮肉っぽく笑う。
「今度は“選別”じゃなくて、“脱出”のために使う。鐘の綱も少しは成仏できるでしょ」
「鐘はもう鳴らない」
ヨナス神父が、ステンドグラスの前から動き出す。
「なら、その綱だけでも別の役目を与えよう」
準備は、一気に始まった。
ユリウスとレオ、アルカが鐘楼へ駆け上がり、きしむ床を注意深く避けながら綱をほどく。マグダは銃を肩にかけたまま、外の火勢と風向きを確かめるために窓辺を渡り歩く。
ミラはイレナと赤ん坊、リーナたちの体調を確認し、どの順番なら負担が少ないか考え続ける。エヴァは配給箱を荷物用に詰め替え始めた。必要最低限の水と食糧。その他は、置いていくしかない。
やがて、鐘楼から長い綱が運び出された。煤で黒く汚れ、ところどころほつれが目立つが、まだ十分な強度は残っている。
地下へ降りる螺旋階段は、いつもより狭く、暗く感じた。蝋燭の火が頼りなく揺れる中、全員が一列になって降りていく。
納骨堂の奥。通気坑の口の向こうに、アルカの言っていた崩落の跡が見えた。石が不規則に積み重なり、その間に、人ひとりがやっと通れる隙間がある。
確かに、風が吹いていた。どこかへ繋がっている証拠だ。
「ここから先は、後戻りはできない」
アルカが言う。
「一度入ったら、前の奴の背中しか見えない。戻ろうとしたら、後ろの誰かの脱出路を塞ぐことになる」
「だからこそ、順番を決める必要がある」
ヨナス神父が綱の端を握りしめた。
「紙ではなく、身体で。自分の足で、誰かの後ろに立つ。その意味を、噛みしめながら」
サラは唾を飲み込んだ。これは投票ではない。もう、名前を書く必要はない。
列に並ぶことで、自分が誰の背中を見送るのか、誰を後ろに残すのか。それを決める。
「最初は、私が降りる」
ヨナス神父の言葉に、ミラが目を見開く。
「ちょっと待って。足腰が弱い人から先に――」
「だからだ」
ヨナスは微笑んだ。
「一番危険な場所を、私が通る。崩落の隙間がどれくらい狭いか、どこに足を引っかければいいか。それを確かめて、下から支える。……そのくらいは、“元神父”でもできる」
マグダが、面白そうにそのやりとりを眺めていた。
「“元神父”。いい響きね」
「気に入ってもらえて光栄だ」
ヨナスは軽く頭を下げると、綱を腰に巻きつけた。
「私が先に行き、道を開く。そのあとに赤子と母。次に子どもたち、その次に負傷者。最後に非戦闘員と、外に慣れている者たち。……そういう順番にしたい」
「最後は俺か」
レオが肩をすくめる。
「おあつらえ向きだな」
「私も残る」
ユリウスが言う。
「最後尾のさらに後ろで、綱が切れないか見ておく」
「残りすぎだよ!」
ノラが声を上げる。
「最後に残るのは一人でいい!」
「そこで悩まなくていい」
マグダが笑いながら銃を持ち上げる。
「“最後の席”は、私とヨナスで争うから」
サラは、喉の奥が熱くなるのを感じていた。
まただ。結局、ここでも“神”を名乗る人間が、最後に残ろうとしている。
でも――
(今度は、紙じゃない)
足音。汗。煤。火の粉。綱の感触。誰かの背中の温度。
それを全部、自分の目で見て、ノートに書き残せる。
「サラ」
ヨナスが呼んだ。
「君は、子どもたちと怪我人の列の中に入ってくれ。できるだけ中央に。……記録係が真っ先に死んでは、意味がない」
「でも」
「頼む」
ヨナスの目は真剣だった。
「“最後に神を名乗ったのは誰か”を書くことができるのは、君だけだ」
その重さが怖くて、でも、サラは頷いた。
順番は、あっという間に決まったようで、実際には細かい譲り合いがたくさんあった。
トマは自分を最後尾にしようとし、リーナは兄より後ろに行こうとしてミラに止められた。ユリウスは傷を理由に前の方へ押し込まれそうになり、逆に「怪我してるから順番を後回しにしてもいい理由にはならん」と突っぱねた。
最終的に並んだ列はこうなった。
一番前――ヨナス神父。
そのあとに、イレナと赤ん坊。リーナとトマ。サラ。ガブリエル。エヴァ。ミラ。ノラ。アルカ。ユリウス。レオ。
そして、綱の端を握りしめて、最後尾から全体を見ているのが、マグダ。
「じゃあ、行く」
ヨナス神父が通気坑に体を滑り込ませる。崩落の石の隙間に肩をねじこみ、ひとつずつ呼吸を合わせて進んでいく。綱がぎしぎしと音を立て、皆の手の中を少しずつ動いていく。
しばらくして、下からヨナスの声が聞こえた。
「大丈夫だ。足元に段差があるが、私の肩を踏めば越えられる。イレナ、赤子をしっかり抱いて、ゆっくり来なさい」
イレナが通路に入り、赤ん坊の泣き声が岩で反響して小さくなる。次にリーナとトマ。サラは、自分の番を待ちながら、手の中のノートをぎゅっと握りしめていた。
自分の足で選ぶ順番。紙に名前は書かない。それでも、この列を作ったのは、ここにいる人間たちだ。
炎の音が、さっきより近い。
教会全体が、時折ぐらりと揺れる。鐘楼の方角から、不穏な軋みが聞こえてくる。外壁は限界を迎えつつあった。
「サラ」
ミラが耳元で囁く。
「怖かったら、『怖い』って言いな。私だって怖いから」
「……怖いです」
サラは素直に言った。
「でも、書きたいです。ちゃんと、全部」
「なら、前に進み」
ミラの手が、背中を軽く押した。
サラは通路に身を入れた。石の冷たさが、腕と肩に食い込む。息が苦しい。前を行くトマの靴の裏だけが、唯一の目印だった。
這い進むたび、綱が少しずつ手のひらを滑っていく。その摩擦が、かろうじて“繋がっている”という感覚を与えてくれた。
どれくらい進んだのか、時間の感覚はすぐに失われた。やがて、前からヨナスの声がもう一度聞こえる。
「ここだ。ここで少し広くなる。順番に手を取って、隙間をくぐり抜けなさい」
サラが最後の石をくぐり抜けた瞬間、冷たい空気が全身を包んだ。
通路の向こうには、確かに“外”があった。
夜の空気はまだ煙を含んでいたが、教会の中よりずっと澄んでいた。丘の反対側。崩れかけた石段と、火の帯から少し離れた狭い路地。そこに、十三から減った人たちの列が、少しずつ現れていく。
「出た……」
リーナが思わず空を見上げる。星は見えないが、炎の赤ではない色がそこにはあった。
「まだ終わりじゃない」
レオが後ろを振り返る。
「全員出るまでが脱出だ。綱をしっかり持ってろ」
最後尾から順に、人影が穴から現れる。ユリウスが顔をしかめながら這い出てきて、次にアルカ。ノラ。ミラ。エヴァ。ガブリエル。
綱は、まだ引かれていた。
サラは通気坑の口のそばまで戻り、暗闇の向こうに目を凝らした。
「マグダ! ヨナスさん!」
返事は、すぐにはなかった。
代わりに聞こえてきたのは――教会の方角からの、不気味な軋みの音だった。
鐘楼が、崩れ始めていた。
丘の上のシルエットが、ぐらりと傾ぐ。鐘塔の細い影が、炎の中でゆっくりと歪み、そのまま横倒しになろうとしている。
「まずい!」
レオが叫ぶ。
「綱を離せ!」
ユリウスが、反射的に綱を引いた、その瞬間。
地鳴りのような音とともに、教会の上部が崩れ落ちた。
鐘楼から伸びていた綱が、急激に引かれ、通気坑の口が一瞬だけきゅっと狭まる。石の破片が崩れ、岩の粉が吹き上がった。
「危ない!」
アルカとレオが同時に通気坑の口を押さえ、落ちてくる石を肩と背中で受け止める。サラは咄嗟に後ろへ下がり、ミラがリーナと赤ん坊を庇った。
轟音。火の粉。石と木と鉄が混じった破片が、丘の上から滝のように降ってくる。その向こう側で、教会の屋根が崩れ、ステンドグラスが粉々に砕け散るのが見えた。
中の祭壇も、洗礼盤も、すべて――
最後の一際大きな音が響いたあと、急に静かになった。
通気坑の口から吹き上げていた風が止まり、代わりに、ひんやりとした湿った匂いだけが残る。
サラは恐る恐る通気坑に顔を近づけた。暗闇の向こうから、人の声は聞こえない。綱も、ぴんと張ったまま動かない。
そのとき。
丘の上――かつて教会だった場所から、最後の光が漏れた。
割れた洗礼盤が、崩れ落ちた梁の下で砕け、その中に残っていたわずかな水が地面に流れ出した。瓦礫の隙間から、その水がぽたぽたと滴り落ちる音だけが、夜の空気に澄んで響いた。
銃声は、なかった。
マグダの姿は、崩れた祭壇と梁の向こう側に隠れて見えない。ヨナスの姿も。
ただ、サラの脳裏には、穴へ潜る前にヨナスが一瞬だけこちらを振り返ったときの、あの目が焼き付いていた。
“記すことを、やめるな”。
言葉にはならなかったが、そう言われた気がした。
風が変わった。
丘の下では、夜明けが始まりかけていた。
東の空が、灰色から薄い青へと滲んでいく。火の帯の赤が、少しずつ後退する。サイレンも砲声も、今は聞こえない。ただ、崩れ終わった瓦礫が時折小さく崩れる音だけが、遠くで続いていた。
「行こう」
レオが言う。
「ここに長くいると、また見つかる。丘の反対側の影に沿って、街の外れまで行く。水と食糧は、エヴァの指示に従え」
エヴァは頷き、配給箱を抱え直した。ミラはイレナと赤ん坊の体調を確かめ、トマとリーナに何度も「絶対に手を離さないこと」と念を押した。
ユリウスは肩の傷を押さえながら、足を引きずって列の真ん中に入る。アルカは最後尾近くで、通気坑の口を一度だけ振り返った。
そこにはもう、風も、光もない。ただ、黒い穴がぽっかりと口を開けているだけだった。
十三から減った列が、じわりと動き始めた。
崩れた街の影を縫い、瓦礫を避け、まだ倒れていない建物の壁伝いに歩く。赤ん坊が泣き、誰かがその背中をさすり、誰かが前を見続ける。
鐘はもう鳴らない。
教会は、丘の上で内側から崩れ、その輪郭を失いつつあった。ステンドグラスの“救いの色”も、今は煤と灰にまみれて黒に近い。
サラは列の中ほどで歩きながら、ノートを開いた。震える手で、それでもペンを動かす。
“第8日目 夜。教会は二つの“神”で割れた。マグダを神と認める派と、ヨナスを神父に留める派。しかしヨナスは自らの歪みを認め、“神父”という盾を捨てた。『神は呼称ではない。選択の責任だ』”
ページの端に、灰が落ちて黒い点を作る。
サラは指で弾き飛ばし、続けた。
“マグダは“選抜”を続けようとした。救う者と外へ出す者。紙の上では合理的で、実際には残酷。イレナが赤子を抱いて『それでも誰かが選ばなきゃならないなら、わたしが行く』と立ち上がる。ミラが止め、トマが『俺が』と叫び、レオが肩を掴んで引き戻した”
息が上がる。足も痛い。それでも、ペンを止めたくなかった。
“アルカが通気坑の奥の崩落跡を示す。『一人ずつなら通れる隙間がある』。鐘楼のロープを切り、結わえ、降ろせば脱出可能。ただし火勢は増し、時間はない。出口は一つ。順番を決めなければならない”
インクが、ところどころでにじむ。涙の跡か、汗の跡か、もうよくわからない。
“ヨナスが最初に穴へ降りると言った。彼が道を開き、次に赤子と母、子どもたち、負傷者、非戦闘員、最後にレオ。紙の選別ではなく、身体の選別。汗と煤と火花の中、ステンドグラスの“救いの色”は黒に変わっていった”
サラの手が止まる。
最後の行を、どう書くべきか。一瞬迷って、思い出す。
マグダが銃を構え、「わたしが神なら、最後に残るのはわたし」と笑った顔。ヨナスが首を振り、「神は名乗らない。人が名乗らせる。だから――あなたは人間だ」と言った声。
そして、その直後に落ちてきた梁。
“響く音、消える火の粉。祭壇と洗礼盤は梁に押し潰され、割れた洗礼盤から零れた最後の水が音を立てて地に落ちた。銃声は、なかった。マグダの姿は瓦礫の向こう。ヨナスは最後にサラへ目で合図を送った。『記すことを、やめなくていい』と”
サラは歩きながら、ページの最後の行にペンを置いた。
“最後に神を名乗ったのは、人間だった。だから、責任も、人間だ”。
書き終えた瞬間、胸の奥で何かが静かに落ち着いた。
丘の下、薄明の街に、彼らの列が伸びていく。数は減った。戻らなかった名前が、いくつもある。それでも、誰も鐘を鳴らさない。
誰も神を名乗らない。
ただ、人間が選んだ順番で、一歩ずつ、外へ出ていく。




