表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
燃える教会―戦争で焼け落ちた街。教会に逃げ込んだ13人の避難者。  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/8

第8話「神を名乗ったのは、人間だった」

 夜の教会は、昼よりも狭く感じた。


 火の帯に囲まれた丘の上。割れたステンドグラスから見える空は、もはや空というより、黒と赤の層の境目みたいにゆらゆらと揺れている。風が吹くたび、遠くで何かが崩れた音がした。


 その真ん中に、二つの“神”が立っていた。


 一人は祭壇の近く、手に銃を持つ女――マグダ。


 もう一人はその向かい、ステンドグラスの前に立つ男――ヨナス神父。


 信徒席に固まっている十三から減った人影たちは、どちらを見るべきかわからず、視線を宙に泳がせていた。誰も立ち上がろうとしない。座ったまま、膝の上の手だけが何度も組み直される。


「さて」


 先に口を開いたのは、銃を握る方――マグダだった。


「そろそろ決めようか。ここの“神様”を、ね」


「もう決まっている」


 ヨナス神父の声は、低く、掠れていたが、はっきりしていた。


「私は“神父”だ。神ではない。……少なくとも、そうあるべきだった」


 サラはベンチの端に座ったまま、ノートを抱きしめるようにしてその声を聞いていた。マグダの銃声で剥がれ落ちた天井の破片が、まだ床のあちこちに散らばっている。赤ん坊の泣き声が、さっきから不規則に響いていた。


「でも、今までやってきたことは?」


 マグダが軽く首を傾げる。


「懺悔を“証拠”に変え、鐘を“合図”に変え、銃を“救いの形”に変えたのは、誰?」


 視線がヨナスに集まる。


 ヨナス神父は、その視線を逃げずに受け止めていた。肩を落とし、しわだらけの手を合わせ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「……私だ」


 そのひとことは、告白でもあり、判決でもあった。


「私は“神父”という名の盾に隠れていた。“神の代理人”を名乗ることで、自分の選択の重さから目をそらしていた。誰かを差し出すたび、誰かを赦すたび、それを“神の意志”に押しつけてきた」


 サラの胸が痛んだ。聞いているこちらまで、何かを告白しているような気持ちになる。


「でも……」


 ノラが小さく手を上げる。


「今だって、私たち、誰かに“決めてほしい”って思ってる。ヨナスさんでも、マグダでも、どっちでも。自分で『あいつを先に死なせろ』なんて言えないから」


「だからこそだ」


 ヨナス神父は、割れたステンドグラスの前へ一歩出る。背後のガラスに描かれていたはずの救いの絵は、火と煤でほとんど原型をとどめていない。


「神は呼称ではない。選択の責任だ」


 サラは思わず、ノートにその言葉を書き写した。


「“神”と名乗ることが許されるのは、自分の選択に最後まで責任を負える者だけだ。……私は、今までそれをしなかった。だから今ここで、神父という肩書きから降りる」


「降りる?」


 エヴァが眉をひそめる。


「そんな簡単に……」


「簡単ではない。だが、必要だ」


 ヨナスは祭壇の方へは近づかない。銃に視線を向けることさえ、避けているようにも見えた。


「私は祭壇の銃を取らない。二度と“神の名”で選別を回さない。……この教会に“神”がいるとすれば、それはここに立っている誰でもない。選び、指差し、紙に名前を書く、君たち一人ひとりだ」


「だったら」


 銃を構えたままのマグダが、口角だけで笑う。


「余計に私の言ってたことが正しかったってことになる。人間は“神がいない”とわかると、すぐに誰かに神をやらせたがる。だったら、私はその役を引き受けるって言ってるの」


 彼女は銃口を下ろし、床の一点に向ける。撃つ代わりに、言葉を撃ち込むみたいに。


「救う者と、外へ出す者。役割を分けなきゃ、全員が中途半端に死ぬ。紙の上では合理的で、実際には残酷。それでも、誰かがやらなきゃならない」


「紙で決めたって……」


 トマが歯を食いしばる。


「また誰かが鐘の綱を握るみたいに、“名前を書かれたから”って理由で、撃たれたり、外に出されたりするだけじゃないか」


「その通りよ」


 マグダはあっさりと認めた。


「だから、“名前を書く側”にちゃんと自覚を持たせる。さっきの“指名制”みたいにね。自分が誰を選んだか、その顔と一緒に一生覚えて生きていけばいい」


「そんな人生、地獄みたいだよ」


 リーナが震える声で言う。


「でも、今は地獄の中にいるのよ」


 マグダの声は静かだった。


「ここは教会じゃなくて、焼け残っただけの箱。何をしても誰かが恨まれるなら、せめて意図的にやった方がマシ」


 言い争いが、堂々巡りになりかけたそのときだった。


「……なら」


 弱々しい声が、輪の端から割って入った。


 イレナだった。蒼白な顔で立ち上がり、震える足で一歩前へ出る。胸には赤ん坊が抱かれている。その小さな体は、母の心臓の鼓動に合わせて上下を繰り返していた。


「それでも誰かが選ばなきゃならないなら」


 イレナは唇を噛みながら言う。


「わたしが行く」


 教会の空気が、一瞬で凍った。


「イレナ!」


 ミラが声を上げる。


「冗談じゃない。あんたはここにいなきゃいけない。赤ちゃんは――」


「この子は、誰かが抱ける」


 イレナは赤ん坊の頬を撫でる。


「ミラでも、サラでも、誰でも。でも、“この子の母親を外に出す”って選択は、私にしかできない」


 その言い方は、ひどくまっすぐで、ひどく危うかった。


「ここで、誰かが私の名前を書くのを待ってるくらいなら、自分で手を挙げる。そうすれば、誰も“私を指名した”罪悪感を持たなくて済むでしょう」


「待てよ」


 トマが前に出る。


「そんなの、ずるいよ。自分で“行く”なんて言ったら、みんな止めにくくなるじゃないか。……行くなら、俺が行く。アルカさんみたいに水を取りに行く役、俺だって――」


「やめろ、バカ」


 レオがトマの肩を強く掴んだ。指が食い込むほどの力だった。


「一度外を走ってきた俺から言わせてもらうと、お前みたいな体力の奴は、最初の火線で燃える。イレナと交換になんかなれない」


「じゃあ、誰が」


 トマは必死に言葉を探す。


「誰が“選ばれるべき”なんだよ」


 誰も、彼に答えられなかった。


 マグダは沈黙を眺めながら、わざとらしく肩をすくめる。


「ほらね。結局、“自分で手を挙げる人”がいないと、話は進まない。イレナの覚悟は本物よ。この場の誰よりも“神様らしい”」


「言葉遊びはいい」


 ヨナス神父が静かに言う。


「イレナ。君の覚悟は、本物だ。だからこそ、私はそれを受け入れない」


 イレナが目を見開く。


「“行く”というのは、自分の命だけの問題じゃない。君が中に残ることで守られる人間がいる。赤子だけじゃない。君の存在に縋っている誰かがここにいる」


 ヨナスはちらりとトマとリーナを見る。二人は、息を飲んでイレナを見つめていた。


「だから、その選択は君にはさせない。……それを決めるのは、神でもなく、君自身でもなく、私たち全員だ」


「結局、選ぶのは“紙”じゃない」


 レオが低く言う。


「そろそろ、別のやり方を考える頃だ」


 そのとき――


 地下から、風が吹き上がってきた。


 冷たい風だった。教会の中の熱と煤をひきはがすように、真っ直ぐに頬を撫でていく。風だけではない。どこかで、石が転げる乾いた音がした。


「……今の、何」


 ノラが耳を澄ませる。


「通気坑だ」


 アルカが顔を上げた。さっきまで壁にもたれて荒い息をついていた彼は、ゆっくりと立ち上がる。


「さっき、地下で見つけた。通気坑の奥に崩落跡がある。完全に塞がってるわけじゃない。一人ずつなら、腹を擦りながら通れるくらいの隙間がある」


 皆の視線が、一斉に地下への階段へ向かう。


「出口が……あるってこと?」


 リーナの目が一瞬明るくなる。


「たぶんな」


 アルカは頷いた。


「さっきは水を持って戻るので精一杯で、全部は確かめられなかった。でも、あの先の空気は、ここより新鮮だった。煙の匂いも薄かった。丘の反対側に抜けてる可能性が高い」


「でも、一人ずつしか通れない」


 エヴァが即座に現実を見た。


「向こう側で立ち止まったり、引っかかったりしたら、それで詰まる。火が回るまでに、全員は無理かもしれない」


 マグダが、銃のグリップを指で叩きながら言う。


「結局、順番を決めなきゃいけないってわけね。紙の上じゃなくて、穴の中で」


 サラは、心臓が速くなっていくのを感じていた。逃げ道。出口。救い。でも、それは同時に、新しい“選別”の形でもある。


「ロープが必要だ」


 ユリウスがぽつりと言う。


「崩落の手前まで、通路が急に落ち込んでた。誰かが先に降りて、下から支えないと、子どもや怪我人は滑り落ちて骨を折る」


「ロープなら……」


 ガブリエルが顔を上げた。


「鐘楼の綱を切れば、十分な長さが取れる」


 鐘。


 誰もが一瞬、顔をしかめた。その綱は、さっきまで“誰を犠牲にするか選ぶ手続き”の象徴だったから。


「いいじゃない」


 マグダが、皮肉っぽく笑う。


「今度は“選別”じゃなくて、“脱出”のために使う。鐘の綱も少しは成仏できるでしょ」


「鐘はもう鳴らない」


 ヨナス神父が、ステンドグラスの前から動き出す。


「なら、その綱だけでも別の役目を与えよう」


 準備は、一気に始まった。


 ユリウスとレオ、アルカが鐘楼へ駆け上がり、きしむ床を注意深く避けながら綱をほどく。マグダは銃を肩にかけたまま、外の火勢と風向きを確かめるために窓辺を渡り歩く。


 ミラはイレナと赤ん坊、リーナたちの体調を確認し、どの順番なら負担が少ないか考え続ける。エヴァは配給箱を荷物用に詰め替え始めた。必要最低限の水と食糧。その他は、置いていくしかない。


 やがて、鐘楼から長い綱が運び出された。煤で黒く汚れ、ところどころほつれが目立つが、まだ十分な強度は残っている。


 地下へ降りる螺旋階段は、いつもより狭く、暗く感じた。蝋燭の火が頼りなく揺れる中、全員が一列になって降りていく。


 納骨堂の奥。通気坑の口の向こうに、アルカの言っていた崩落の跡が見えた。石が不規則に積み重なり、その間に、人ひとりがやっと通れる隙間がある。


 確かに、風が吹いていた。どこかへ繋がっている証拠だ。


「ここから先は、後戻りはできない」


 アルカが言う。


「一度入ったら、前の奴の背中しか見えない。戻ろうとしたら、後ろの誰かの脱出路を塞ぐことになる」


「だからこそ、順番を決める必要がある」


 ヨナス神父が綱の端を握りしめた。


「紙ではなく、身体で。自分の足で、誰かの後ろに立つ。その意味を、噛みしめながら」


 サラは唾を飲み込んだ。これは投票ではない。もう、名前を書く必要はない。


 列に並ぶことで、自分が誰の背中を見送るのか、誰を後ろに残すのか。それを決める。


「最初は、私が降りる」


 ヨナス神父の言葉に、ミラが目を見開く。


「ちょっと待って。足腰が弱い人から先に――」


「だからだ」


 ヨナスは微笑んだ。


「一番危険な場所を、私が通る。崩落の隙間がどれくらい狭いか、どこに足を引っかければいいか。それを確かめて、下から支える。……そのくらいは、“元神父”でもできる」


 マグダが、面白そうにそのやりとりを眺めていた。


「“元神父”。いい響きね」


「気に入ってもらえて光栄だ」


 ヨナスは軽く頭を下げると、綱を腰に巻きつけた。


「私が先に行き、道を開く。そのあとに赤子と母。次に子どもたち、その次に負傷者。最後に非戦闘員と、外に慣れている者たち。……そういう順番にしたい」


「最後は俺か」


 レオが肩をすくめる。


「おあつらえ向きだな」


「私も残る」


 ユリウスが言う。


「最後尾のさらに後ろで、綱が切れないか見ておく」


「残りすぎだよ!」


 ノラが声を上げる。


「最後に残るのは一人でいい!」


「そこで悩まなくていい」


 マグダが笑いながら銃を持ち上げる。


「“最後の席”は、私とヨナスで争うから」


 サラは、喉の奥が熱くなるのを感じていた。


 まただ。結局、ここでも“神”を名乗る人間が、最後に残ろうとしている。


 でも――


(今度は、紙じゃない)


 足音。汗。煤。火の粉。綱の感触。誰かの背中の温度。


 それを全部、自分の目で見て、ノートに書き残せる。


「サラ」


 ヨナスが呼んだ。


「君は、子どもたちと怪我人の列の中に入ってくれ。できるだけ中央に。……記録係が真っ先に死んでは、意味がない」


「でも」


「頼む」


 ヨナスの目は真剣だった。


「“最後に神を名乗ったのは誰か”を書くことができるのは、君だけだ」


 その重さが怖くて、でも、サラは頷いた。


 順番は、あっという間に決まったようで、実際には細かい譲り合いがたくさんあった。


 トマは自分を最後尾にしようとし、リーナは兄より後ろに行こうとしてミラに止められた。ユリウスは傷を理由に前の方へ押し込まれそうになり、逆に「怪我してるから順番を後回しにしてもいい理由にはならん」と突っぱねた。


 最終的に並んだ列はこうなった。


 一番前――ヨナス神父。


 そのあとに、イレナと赤ん坊。リーナとトマ。サラ。ガブリエル。エヴァ。ミラ。ノラ。アルカ。ユリウス。レオ。


 そして、綱の端を握りしめて、最後尾から全体を見ているのが、マグダ。


「じゃあ、行く」


 ヨナス神父が通気坑に体を滑り込ませる。崩落の石の隙間に肩をねじこみ、ひとつずつ呼吸を合わせて進んでいく。綱がぎしぎしと音を立て、皆の手の中を少しずつ動いていく。


 しばらくして、下からヨナスの声が聞こえた。


「大丈夫だ。足元に段差があるが、私の肩を踏めば越えられる。イレナ、赤子をしっかり抱いて、ゆっくり来なさい」


 イレナが通路に入り、赤ん坊の泣き声が岩で反響して小さくなる。次にリーナとトマ。サラは、自分の番を待ちながら、手の中のノートをぎゅっと握りしめていた。


 自分の足で選ぶ順番。紙に名前は書かない。それでも、この列を作ったのは、ここにいる人間たちだ。


 炎の音が、さっきより近い。


 教会全体が、時折ぐらりと揺れる。鐘楼の方角から、不穏な軋みが聞こえてくる。外壁は限界を迎えつつあった。


「サラ」


 ミラが耳元で囁く。


「怖かったら、『怖い』って言いな。私だって怖いから」


「……怖いです」


 サラは素直に言った。


「でも、書きたいです。ちゃんと、全部」


「なら、前に進み」


 ミラの手が、背中を軽く押した。


 サラは通路に身を入れた。石の冷たさが、腕と肩に食い込む。息が苦しい。前を行くトマの靴の裏だけが、唯一の目印だった。


 這い進むたび、綱が少しずつ手のひらを滑っていく。その摩擦が、かろうじて“繋がっている”という感覚を与えてくれた。


 どれくらい進んだのか、時間の感覚はすぐに失われた。やがて、前からヨナスの声がもう一度聞こえる。


「ここだ。ここで少し広くなる。順番に手を取って、隙間をくぐり抜けなさい」


 サラが最後の石をくぐり抜けた瞬間、冷たい空気が全身を包んだ。


 通路の向こうには、確かに“外”があった。


 夜の空気はまだ煙を含んでいたが、教会の中よりずっと澄んでいた。丘の反対側。崩れかけた石段と、火の帯から少し離れた狭い路地。そこに、十三から減った人たちの列が、少しずつ現れていく。


「出た……」


 リーナが思わず空を見上げる。星は見えないが、炎の赤ではない色がそこにはあった。


「まだ終わりじゃない」


 レオが後ろを振り返る。


「全員出るまでが脱出だ。綱をしっかり持ってろ」


 最後尾から順に、人影が穴から現れる。ユリウスが顔をしかめながら這い出てきて、次にアルカ。ノラ。ミラ。エヴァ。ガブリエル。


 綱は、まだ引かれていた。


 サラは通気坑の口のそばまで戻り、暗闇の向こうに目を凝らした。


「マグダ! ヨナスさん!」


 返事は、すぐにはなかった。


 代わりに聞こえてきたのは――教会の方角からの、不気味な軋みの音だった。


 鐘楼が、崩れ始めていた。


 丘の上のシルエットが、ぐらりと傾ぐ。鐘塔の細い影が、炎の中でゆっくりと歪み、そのまま横倒しになろうとしている。


「まずい!」


 レオが叫ぶ。


「綱を離せ!」


 ユリウスが、反射的に綱を引いた、その瞬間。


 地鳴りのような音とともに、教会の上部が崩れ落ちた。


 鐘楼から伸びていた綱が、急激に引かれ、通気坑の口が一瞬だけきゅっと狭まる。石の破片が崩れ、岩の粉が吹き上がった。


「危ない!」


 アルカとレオが同時に通気坑の口を押さえ、落ちてくる石を肩と背中で受け止める。サラは咄嗟に後ろへ下がり、ミラがリーナと赤ん坊を庇った。


 轟音。火の粉。石と木と鉄が混じった破片が、丘の上から滝のように降ってくる。その向こう側で、教会の屋根が崩れ、ステンドグラスが粉々に砕け散るのが見えた。


 中の祭壇も、洗礼盤も、すべて――


 最後の一際大きな音が響いたあと、急に静かになった。


 通気坑の口から吹き上げていた風が止まり、代わりに、ひんやりとした湿った匂いだけが残る。


 サラは恐る恐る通気坑に顔を近づけた。暗闇の向こうから、人の声は聞こえない。綱も、ぴんと張ったまま動かない。


 そのとき。


 丘の上――かつて教会だった場所から、最後の光が漏れた。


 割れた洗礼盤が、崩れ落ちた梁の下で砕け、その中に残っていたわずかな水が地面に流れ出した。瓦礫の隙間から、その水がぽたぽたと滴り落ちる音だけが、夜の空気に澄んで響いた。


 銃声は、なかった。


 マグダの姿は、崩れた祭壇と梁の向こう側に隠れて見えない。ヨナスの姿も。


 ただ、サラの脳裏には、穴へ潜る前にヨナスが一瞬だけこちらを振り返ったときの、あの目が焼き付いていた。


 “記すことを、やめるな”。


 言葉にはならなかったが、そう言われた気がした。


 風が変わった。


 丘の下では、夜明けが始まりかけていた。


 東の空が、灰色から薄い青へと滲んでいく。火の帯の赤が、少しずつ後退する。サイレンも砲声も、今は聞こえない。ただ、崩れ終わった瓦礫が時折小さく崩れる音だけが、遠くで続いていた。


「行こう」


 レオが言う。


「ここに長くいると、また見つかる。丘の反対側の影に沿って、街の外れまで行く。水と食糧は、エヴァの指示に従え」


 エヴァは頷き、配給箱を抱え直した。ミラはイレナと赤ん坊の体調を確かめ、トマとリーナに何度も「絶対に手を離さないこと」と念を押した。


 ユリウスは肩の傷を押さえながら、足を引きずって列の真ん中に入る。アルカは最後尾近くで、通気坑の口を一度だけ振り返った。


 そこにはもう、風も、光もない。ただ、黒い穴がぽっかりと口を開けているだけだった。


 十三から減った列が、じわりと動き始めた。


 崩れた街の影を縫い、瓦礫を避け、まだ倒れていない建物の壁伝いに歩く。赤ん坊が泣き、誰かがその背中をさすり、誰かが前を見続ける。


 鐘はもう鳴らない。


 教会は、丘の上で内側から崩れ、その輪郭を失いつつあった。ステンドグラスの“救いの色”も、今は煤と灰にまみれて黒に近い。


 サラは列の中ほどで歩きながら、ノートを開いた。震える手で、それでもペンを動かす。


 “第8日目 夜。教会は二つの“神”で割れた。マグダを神と認める派と、ヨナスを神父に留める派。しかしヨナスは自らの歪みを認め、“神父”という盾を捨てた。『神は呼称ではない。選択の責任だ』”


 ページの端に、灰が落ちて黒い点を作る。


 サラは指で弾き飛ばし、続けた。


 “マグダは“選抜”を続けようとした。救う者と外へ出す者。紙の上では合理的で、実際には残酷。イレナが赤子を抱いて『それでも誰かが選ばなきゃならないなら、わたしが行く』と立ち上がる。ミラが止め、トマが『俺が』と叫び、レオが肩を掴んで引き戻した”


 息が上がる。足も痛い。それでも、ペンを止めたくなかった。


 “アルカが通気坑の奥の崩落跡を示す。『一人ずつなら通れる隙間がある』。鐘楼のロープを切り、結わえ、降ろせば脱出可能。ただし火勢は増し、時間はない。出口は一つ。順番を決めなければならない”


 インクが、ところどころでにじむ。涙の跡か、汗の跡か、もうよくわからない。


 “ヨナスが最初に穴へ降りると言った。彼が道を開き、次に赤子と母、子どもたち、負傷者、非戦闘員、最後にレオ。紙の選別ではなく、身体の選別。汗と煤と火花の中、ステンドグラスの“救いの色”は黒に変わっていった”


 サラの手が止まる。


 最後の行を、どう書くべきか。一瞬迷って、思い出す。


 マグダが銃を構え、「わたしが神なら、最後に残るのはわたし」と笑った顔。ヨナスが首を振り、「神は名乗らない。人が名乗らせる。だから――あなたは人間だ」と言った声。


 そして、その直後に落ちてきた梁。


 “響く音、消える火の粉。祭壇と洗礼盤は梁に押し潰され、割れた洗礼盤から零れた最後の水が音を立てて地に落ちた。銃声は、なかった。マグダの姿は瓦礫の向こう。ヨナスは最後にサラへ目で合図を送った。『記すことを、やめなくていい』と”


 サラは歩きながら、ページの最後の行にペンを置いた。


 “最後に神を名乗ったのは、人間だった。だから、責任も、人間だ”。


 書き終えた瞬間、胸の奥で何かが静かに落ち着いた。


 丘の下、薄明の街に、彼らの列が伸びていく。数は減った。戻らなかった名前が、いくつもある。それでも、誰も鐘を鳴らさない。


 誰も神を名乗らない。


 ただ、人間が選んだ順番で、一歩ずつ、外へ出ていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ