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燃える教会―戦争で焼け落ちた街。教会に逃げ込んだ13人の避難者。  作者: 妙原奇天


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第6話「神父の罪、救いの定義」

 レオが戻ってきたのは、夜が朝に飲み込まれ始めた頃だった。


 納骨堂の隅でうとうとしていたサラは、最初、その足音を夢の続きだと思った。遠くで石を蹴るような音。誰かが階段から転げ落ちてくるみたいな乱暴な響き。


「……誰?」


 ミラが最初に立ち上がる。眠気も疲れも、気配一つで吹き飛ぶ。


 レオだった。


 螺旋階段の入り口に現れた彼は、ほとんど別人のような姿をしていた。全身煤だらけで、服はところどころ裂け、髪には白い灰がこびりついている。肩口の布が赤く濡れ、そこからじわじわと血が染み出していた。


「レオ!」


 ミラが駆け寄る。レオは片手を上げて「大丈夫」と示そうとしたが、そのまま膝から崩れ落ちそうになった。


 アルカが慌てて支える。


「おい、死ぬなら外でやってこいよ」


「そう思ったんだけどな……構ってほしくなって」


 レオは苦笑を浮かべ、壁にもたれかかる。


 近づいてきたミラが、肩の傷を見て顔をしかめた。


「浅い……けど、傷口は汚れてる。包帯、もう一枚使うわよ」


「俺の分、先に使え」


 ユリウスが自分の巻かれた包帯を指でつつく。


「二人で片方ずつにすれば、ちょうどいいだろ」


「馬鹿言わないで」


 ミラは短く怒鳴り、しかし目は笑っていた。


 サラはノートを抱えたまま立ち上がり、レオの顔を見つめる。彼が戻ってきたという事実が、ようやく胸の奥で現実になり始めていた。


「水は?」


 最初に尋ねたのはエヴァだった。彼女の声は冷たく聞こえたかもしれないが、それは焦りを隠せていないだけだった。


「一応、持ってきた」


 レオは腰のあたりを指さす。そこには、擦り切れたリュックと、小さなタンクが括り付けられていた。


 エヴァが駆け寄り、キャップを開ける。中の水は、思ったよりも少ない。タンクの半分もないくらいだ。


「これだけ……?」


「これだけ」


 レオは肩をすくめた。


「途中で何度か、撃たれながら走ったからな。全部持って帰れただけマシだろ」


 エヴァは慎重に匂いを嗅ぎ、指を少し濡らして舌先で確かめた。


「……泥と錆の味がする。煮沸すれば、ギリギリ使えるかもしれない。でも、飲む用には向かない」


「イレナと赤ん坊のためには?」


 ミラが問う。


「煮沸してからなら、傷口を洗う分には、まだまし」


 エヴァはそう言って、ほんの少しだけ表情を緩めた。


「どこで見つけたの?」


 サラが訊く。


「街の西側の給水車だ。火が回る前に止まっていたやつ。タンクの中身はほとんど抜かれていたが、底に泥と一緒に残ってた」


 レオは息を整えながら、ゆっくりと語り始めた。


「問題は……水じゃない」


 彼の声のトーンが落ちる。全員が自然と耳を傾ける。


「外にいた連中だ。“敵”って呼んでいいのか、“味方”って呼んでいいのか、よくわからない」


「どういうこと?」


 ノラが眉をひそめる。


「格好は軍人みたいだった。迷彩服、ヘルメット、銃。列になって動いていて、命令に従ってる感じもあった。けど……あいつら、腕章も、旗も、番号も付けてない」


 サラの頭の中に、昨日マグダが言っていた“救援隊”の姿が重なる。


「所属がわからない軍隊……?」


「そう。どの国の、どの組織の兵隊なのか、外からじゃ判断できない。“味方のふりをした敵”か、“敵に見える味方”か、どっちにもなれる」


 レオの目には、まだ外の炎の色が残っていた。


「一つだけはっきりしてる。あいつらは、“ここに誰がいるか”なんて気にしていない。生き残りがいるかどうかを調べてるだけだ。動く影があれば撃つ。物音がすれば近づく。救援の噂は、全部“釣り餌”だ。動いた奴から順に、網にかけていく」


 ユリウスが目を細める。


「つまり、“助けてほしいと言った奴”から殺されるってわけか」


「ああ」


 レオは、石の床を睨みつけるように言った。


「合図灯も、鐘も……たぶん全部、餌なんだ。“まだ諦めてない連中”を炙り出すための。ここを砲撃したのも、偶然じゃない」


 ミラが息を呑む。ノラは腕を抱きしめ、身震いした。


「じゃあ、私たちが鐘を鳴らしたのは……」


「針に自分から糸を引っかけたようなもんだ」


 レオの言い方は容赦がなかった。だが、事実でもあった。


 誰かが、静かに立ち上がる。


 ヨナス神父だった。


 煤と汗にまみれた顔に、深い皺が刻まれている。目の下には濃い隈が浮かび、昨夜からほとんど眠っていないのが一目でわかる。


「レオ」


 神父は静かに言う。


「それでも、あの鐘は鳴らされた。君がいない間に、皆で話し合って、決を採って」


「知ってる。サラの顔を見ればわかる」


 レオは短く笑った。サラはびくっと肩を揺らす。


「罪悪感を隠そうとして、余計に目立ってる」


「……ごめん」


「謝る相手が俺なら、まだマシだ」


 レオは視線を逸らし、ヨナス神父を見た。


「神父さん。“神は生き残った者のみを祝福する”って、最初に言ったのは、あんたですよね」


 その言葉に、納骨堂の空気が変わった。


 誰もが、どこかで引っかかっていた問いだった。あの宣言を聞いたときのざわめきと、納得したふりをしたときの違和感。


 今、その矢印が一斉に神父へ向かう。


「なぜ、あんな言い方をしたんですか」


 ミラが続ける。


「“生き残った者のみが祝福される”って。それじゃ、死んだ人たちは最初から切り捨てられてるみたいじゃない」


「いつから拳銃を教会に置いていたんです?」


 エヴァも問う。


「さっきレオから聞いた。外は“動いた者から狩られていく”世界で、銃はその動きを決める道具だって。……そんなものを、いつから祭壇の上に?」


 サラはノートを抱きしめながら、視線をさまよわせた。


 彼女のノートには、以前からこの教会についての断片的な記録が書き付けられている。社会科見学で訪れたときのメモ。ヨナス神父が話してくれた“昔話”。納骨堂の碑文の写し。


 その中に、一つだけ、浮いている言葉があった。


 “供述書”


 数年前、街の図書館で偶然見つけた古い新聞の切り抜き。戦時中、この教会の神学生が「国家への協力」として密告の供述書に署名した――そんな記事の中に、ヨナスという名前が載っていた。


 同じ名字なんて珍しくもない。そう思おうとした。でも今は、どうしても重なってしまう。


「……神父さん」


 サラは震える声で言う。


「昔、この街で“密告”があったって話、覚えてますか」


 ヨナス神父の肩が、わずかに揺れた。


「新聞で読みました。戦時中、教会に身を寄せていた人たちの中から、一人だけが“罪人”として連れ出されたって。そのときの供述書に、ヨナスって名前が……」


「やめろ」


 校長が思わず遮ろうとしたが、神父が右手を上げて止めた。


「いい」


 ヨナス神父はゆっくりと立ち上がり、全員を見渡した。


「……隠せる話じゃない」


 彼の声は、これまで聞いたことのないほど低く、乾いていた。


「私は、昔、この国がまだ“戦時”だった頃、この教会で神学生として働いていた。祈りを学び、説教を学び、そして――“秩序のための協力”を学ばされた」


 納骨堂の壁に刻まれた名前が、じっとこちらを見ているような気がした。


「ある日、この教会に“危険分子”が紛れ込んでいるという噂が立った。誰かが、戦争に異を唱えた。誰かが、命令を無視した。誰かが、国を裏切った」


 ヨナス神父は唇を噛む。


「本当のところは、今でもわからない。もしかしたら全部、作られた話だったのかもしれない。だが、その噂のせいで、教会全体が疑われた」


 兵士たちが来たのだ、と彼は続けた。銃を持った男たちが聖堂に入り込み、神父や信徒たちを並ばせ、質問を繰り返した。


「“誰かが裏切っている。誰かが外と繋がっている。誰かが罪を犯した。だが、それが誰なのかわからないなら、この場にいる全員が罪人だ”」


 ヨナス神父の声には、あの日の冷たさが宿っていた。


「そのとき、上官が言った。『一人、差し出せ。そいつを罪人として渡すなら、残りは“共同体として”赦してやる』と」


 ミラが息を呑む。トマはリーナを抱きしめ、ノラは拳を握りしめた。


「私は、そのとき若い神学生だった。信仰の教えよりも、まだ“生き残る方法”を知らない半端者だった。上官は私に紙を差し出し、『ここに名前を書け』と言った」


「……書いたんですか」


 レオの声には、怒りよりも先に、呆れが混じっていた。


「書いた」


 ヨナス神父は、絞り出すように言う。


「一人の名前を。その人は、神学の勉強も熱心で、祈りの声も誰よりも美しい人だった。ただ一つ、“戦争は神の御心に反する”と、公然と言ったことがあるだけで」


 供述書に署名した。兵士たちは満足し、その一人を連れ出した。残された者たちは震えながらも、生き延びることができた。


「そのあと、上官は私にこう言った」


 ヨナス神父の目が、遠い昔を見ている。


「『よくやった。これが“共同体を救う選択”だ。誰かを罪人として差し出すことで、大多数を救った。それこそが、真の“信仰”だ』と」


 サラは、手の中のノートの重さが急に増したように感じた。


「それからだ」


 ヨナス神父は続ける。


「私の中で、“救い”の定義が歪んだのは。懺悔は赦しへの道ではなく、“秩序への供物”になった。誰かが罪を告白すれば、それを“秩序を守る材料”として差し出すことが当然だと思うようになった」


 懺悔の帳。


 サラのノートが、その役目を引き受けてしまったことを思い出し、彼女は思わずノートを胸に引き寄せる。


「だから私は、あの日……この教会が火の丘に囲まれた日に、思わず口にしてしまったのだろう」


 ヨナス神父は自嘲気味に笑う。


「“神は生き残った者のみを祝福する”と。そうでも言わなければ、自分がやってきた過去が全部、意味を失うような気がしたからだ」


 納骨堂の空気が重く沈む。


「拳銃は?」


 エヴァが問う。


「いつから、この教会に?」


「戦争が終わってからだ」


 ヨナス神父は、ゆっくりと答える。


「前線から戻った兵士が、一丁だけ教会に置いていった。『もう必要ないから預かってくれ』と言って。それを、私は聖具室の奥に隠した」


「隠した?」


「“二度と使われないように”と、そう自分に言い聞かせていた」


 けれど、と神父は続ける。


「心のどこかで、私は安心もしていた。“最後の手段”があることに。誰かを選び、誰かを守るための道具があることに。……あのときの上官の声が、ずっと頭のどこかで生きていたのだ」


 サラは目を閉じた。


 懺悔のノート。鐘の投票。祭壇の銃。


 全部、どこかで繋がっている気がした。


「……神父」


 ミラが静かに言った。


「今も、その考えのままですか。“誰かを差し出せば、共同体は救われる”って」


 ヨナス神父は、ゆっくりと首を振った。


「違う。違うからこそ、今こうして話している」


 彼は立ち上がり、納骨堂から伸びる階段を見上げた。


「懺悔は、誰かを差し出すためのものじゃない。救いは、誰かを切り捨てることで形作られるものじゃない。……そう信じたくて、この教会に戻ってきたのだ」


 しかし、現実はどうだ、と彼は苦笑する。


「私が作った“懺悔の場”は、また誰かを告発する場になってしまった。私が隠した拳銃は、“共同体を守る最後の手段”ではなく、“誰かを選び出す悪魔”に変わってしまった」


 ヨナス神父は、自分の首元の鎖を外す。そこには、聖具室の鍵がぶら下がっていた。


「もう、これは私が持つべきものではない」


 彼は階段を上り、やがて全員で聖堂に戻った。


 崩れかけた天井から差し込む光は薄く、埃が漂っている。祭壇の上には、例の拳銃が沈黙していた。


 ヨナス神父は鍵を握りしめ、聖具室から箱を一つ取り出す。中には、布で包まれた黒い金属の重み。


 彼は布をめくり、拳銃をそのまま祭壇の中央に置いた。


「これは“信仰の形”を変える悪魔だ」


 その言葉には、長い時間をかけて溜まった悔いが滲んでいた。


「これを“神の意志”に結びつけることもできる。『この銃で誰かを撃てば、残りは救われる』と。『この銃を撃てば、神は生き残りを祝福してくださる』と。……私は、そう信じそうになったことがある」


 レオが目を細める。


「今は?」


「今は違うと、信じたい」


 ヨナス神父は祭壇から一歩下がった。


「だから、ここに置く。皆の目の前に。鍵も、一緒に」


 彼は首から外した鍵を、拳銃の横に置いた。


「もうこれは、私だけの“最後の手段”じゃない。皆で見て、皆で決めろ。必要なら、ここで壊してもいい」


「壊せるんなら、とっくに壊してますよ」


 低い声が割り込んだ。


 マグダだった。彼女は相変わらず冷静な表情で、祭壇と銃、それからヨナス神父を眺めていた。


「信仰は、いつだって人が形にするものよ。神父さん。あなたが昔、“救い”を歪ませたようにね」


 彼女は軽く笑う。


「だったら、今度は私が“神”をやる」


 その宣言は、冗談めいていて、しかし冗談ではなかった。


「……あんたが神?」


 ノラが目を丸くする。


「おこがましいのはわかってる。でも、こう考えてみて」


 マグダは祭壇から数歩下がり、全員が見える位置に立った。


「神って何? ここでの“神様”って、何をしてくれる存在?」


 誰もすぐには答えられなかった。


 ヨナス神父が、ためらいながら言う。


「救いの定義を……与える者、だろう。何が正しくて、何が赦されるべきかを」


「そう。それを決めるのが“神”だとしたら、あんたはその役、降りたんでしょ?」


 マグダが肩をすくめる。


「だったら空いた座席を埋めないと。“誰かが決める神様”がいないと、人は勝手に“誰かを生贄にするルール”を作り始めるからね」


 彼女の視線がサラのノートに一瞬だけ落ちる。サラは胸がざわつくのを感じた。


「私は、言葉で人を動かすのは得意よ。旅をしてれば、自然と覚えるスキルだもの。だから提案する。“投票の仕組み”を変えましょう」


「また、投票……?」


 トマがうめくように言う。


「もうやめようよ。鐘のときみたいに、また誰かが撃たれる」


「今の投票は、曖昧すぎる」


 マグダは構わず続ける。


「賛成か反対かだけを選ばせるから、責任の所在がぼやける。“鐘を鳴らした”って結果だけが残って、“誰の手で誰が犠牲になったのか”は曖昧になる」


 ユリウスの肩の包帯が、じわりと赤く滲む。その視線から逃れるように、何人かが目を逸らした。


「だから、はっきりさせるの」


 マグダの目が光る。


「これから“危険な役”が必要になったとき、例えば外へ水を取りに行くとか、誰かと交渉に行くとか、そういうときは――」


 彼女は、指で空中に円を描いた。


「“指名制”で決めましょう」


「指名制?」


 エヴァが眉をひそめる。


「そう。皆、一人ずつ名前を書く。“この人になら任せてもいい”“この人に行ってほしい”と思う名前を。最も多く指名された人が、その役を引き受ける」


「それって……」


 ノラが苦笑する。


「“人気投票”の逆バージョンみたいじゃない?」


「どっちにしろ、名前を書く行為は同じよ。ただ、今までは“賛成”とか“反対”とかいう抽象的な記号で、自分の責任から逃げていられた。でも指名制なら違う。紙に書いた名前が、そのままあなたの意思になる」


 マグダの声は滑らかだった。


「誰かを“外へ送り出す”ってことは、その人が戻らないかもしれないって分かっていながら選ぶってこと。名指しは、それに正直な形を与えるの」


「そんなの……」


 ミラが顔を歪める。


「それって、“死刑宣告”と何が違うんですか」


「違わないわね」


 マグダはさらりと言い切った。


「でも、その“死刑宣告”を今までは“鐘の音”とか“匿名の賛成票”に隠してやってきたのよ。どうせやるなら、ちゃんと自分の手で汚せばいい」


 サラの胸が痛んだ。昨日、自分が「鳴らす」に丸をつけた紙片の感触が蘇る。


「……今、私たちには“決めなきゃいけない役”がある」


 エヴァが割って入るように言った。


「水よ。レオが持ってきてくれた分だけじゃ、何日も持たない。イレナと赤ん坊の分を考えたら、なおさら」


 配給表をめくる彼女の指が、紙の端で震えている。


「洗礼盤の水はもうない。井戸も、タンクも、どこにあるか分からない。地下から外へ出る通路があるなら、誰かがそこを使ってもう一度、水を取りに行く必要がある」


 地下。納骨堂の奥。通気坑。


 サラはレオの話を思い出す。あの通気の穴から見た“救援隊”の影。そして、その影が“罠”だった可能性。


「誰が行く?」


 マグダが言う。


「レオは一度戻ってきた。でも、二度目は保証されてない。ユリウスは負傷している。ミラはここでイレナと子どもを診なきゃいけない。エヴァは在庫を管理してもらわないと困る。……一人ひとり、役割がある」


 彼女はわざと、ほんの少し間を置いてから続けた。


「だからこそ、“誰が行くべきか”をはっきりさせよう」


 校長が、マグダとヨナス神父を見比べる。


「本当に、それしかないのか?」


「他に提案があるなら、喜んで譲るわ」


 マグダは笑う。


「でも、今ここで“誰かが”決めないと、ぐずぐずしている間にイレナと赤ん坊が感染症で死ぬ。水が尽きて、誰から順に配給を削るかって話になる。そのときもまた、同じことをすることになるわ。“誰を先に細らせるか”って名前を書いていく」


 校長は目を閉じ、深いため息をついた。


「……わかった」


 彼はサラを見る。


「サラ。紙を配ってくれ」


 サラは、手が震えるのを自覚しながらも、頷いた。エヴァから紙束を受け取り、一人ひとりに配っていく。


 一枚、一枚。


 レオが受け取る。ミラが受け取る。エヴァ、ノラ、トマ、リーナ、ユリウス、イレナ、アルカ、ガブリエル、校長、ヨナス神父、マグダ。そして、サラ自身。


「名前は……」


 トマが不安げに聞く。


「本名で書く必要はないわ」


 マグダが答える。


「今この場で使ってる呼び名で十分。読めればいい」


「自分の名前を書いちゃダメ?」


 リーナがぽつりと言う。トマが慌てて首を振る。


「ダメだよ!」


「いい質問ね」


 マグダは少しだけ目を細めた。


「自分の名前を書きたいなら、書いてもいい。ただ、その紙を見たとき、他の人がどう思うか……それは、その人たちが決めることになる」


 サラは紙にペンを置いた。


 誰の名前を書くべきか。誰の名前を書きたくないか。その二つの問いが、頭の中でぐるぐる回る。


 レオはもう一度外へ行ける状態じゃない。ユリウスも。ミラとエヴァはここにいてくれなきゃ困る。イレナと赤ん坊は論外。校長とガブリエルは足腰が危うい。


 消去法で残る名前は、すぐに浮かんでしまった。


(それでも、書きたくない)


 サラは目を閉じた。


 誰かを“外へ送り出す”名前を書くということは、その人が戻らないかもしれない未来に、自分が片足を突っ込むということだ。


 でも、書かなければ――。


「……ごめんなさい」


 心の中で誰かに謝りながら、サラは一つの名前を小さく書いた。


 アルカ。


 紙片が集められ、帽子の中に入れられていく。校長は無言でそれを受け取り、祭壇の前に立った。


 サラは横に立ち、一枚ずつ紙を取り出して読み上げる役目を引き受けた。指先が震える。紙の擦れる音が、やけに大きく聞こえる。


「……一枚目、“アルカ”」


 沈黙。


「二枚目、“アルカ”」


 アルカは腕を組んだまま、顔色一つ変えない。


「三枚目、“レオ”」


 視線がレオに集まる。彼は苦笑して肩をすくめた。


「四枚目、“アルカ”」


 ノラがちらりとアルカを見る。アルカは天井のひびを数えているふりをした。


「五枚目、“アルカ”」


 トマが俯いた。


 六枚目。“誰でもない”とだけ書かれた紙に、場が一瞬だけざわつく。七枚目、“アルカ”。八枚目、“自分”。九枚目、“アルカ”。


 紙片が尽きたとき、サラは喉がからからに乾いていることに気付いた。


「……結果」


 校長が静かに言う。


「アルカ、九票中、六票」


「そんなにかよ」


 アルカが乾いた笑いを漏らした。


「“自分”って書いた奴、正直でいいな。誰だか知らないけど」


 レオが片手を上げる。


「……悪いな。俺の名前も入ってるってことは、半分自分にも被弾するつもりで書いたってことで許してくれ」


「許すよ」


 アルカはあっさりと言った。


「どうせ、こういう役回りだと思ってた」


 ミラが一歩、前に出る。


「行かなくていい。こんなの、ただの多数決の暴力だ」


「でも、決めちまったからな」


 アルカは肩をすくめる。


「ここで“やっぱり嫌だ”って言ったら、今度は俺が本当の意味で“罪人”になるだろ。誰かが『裏切った』って書き残す」


 サラは言葉を失った。彼の言う通りだった。


「……俺が行く」


 トマが突然、声を上げた。


「俺が行くよ。アルカさんの代わりに。だって、アルカさんは疑われてばっかりで、それなのにいつも前に出されて――」


「トマ」


 レオが低く呼びかける。


「無責任なこと言うな。あの外を一度見てきた俺から言わせてもらうと、お前が一人で行ったら、一瞬で灰になる」


「でも……!」


「お前がいなくなったら、リーナはどうする」


 ユリウスの声には、普段の皮肉はなかった。


「ガキのヒーローごっこに、妹を巻き込むな」


 トマは歯を食いしばり、俯いた。リーナが彼の服の裾を握りしめる。


 アルカは、そんな兄妹を横目で見ながら、祭壇の方へ歩いた。


「銃は持たない」


 彼ははっきりと言った。


「持ってたら、絶対に撃ちたくなるし、絶対に撃たせようとする奴も出てくる。さっきのルールでいけば、“外で死ぬ分には仕方ない”ってことになってるんだろ?」


 誰も否定できなかった。


「だったら、丸腰で行く。地下から出て、水だけ盗んで、帰ってくる。運がよければ。運が悪ければ、その辺で骨になる」


 ミラが唇を噛む。


「せめて……包帯くらい巻かせて。それと、目印になるものを」


「目印?」


「もし戻ってこられなかったとしても、どこまで行ったか、誰かがわかるように」


 ミラは古い赤いスカーフを取り出し、それをアルカの腕に巻きつけた。


「これ、昔、私が聖歌隊で使ってたやつ。きっと外で見たらすぐにわかる」


「縁起悪いな。墓に飾るみたいで」


 アルカは苦笑したが、スカーフを外そうとはしなかった。


 マグダは、そんなやりとりを静かに見守っていた。


「戻らなかったときのことばかり考えてると、本当に戻ってこないわよ」


 彼女はそう言って、わざと軽い調子を装う。


「ちゃんと“帰ってきたときの文句”も用意しておきなさい。“水の味が悪い”とか、“量が足りない”とか」


「その文句、お前が一番大声で言いそうだな」


 アルカが言うと、マグダは肩をすくめた。


「もちろん。そのときは神様らしく、“次の指名”の話も一緒にしてあげる」


 次の指名。


 サラはその言葉に背筋が冷たくなる。


 誰かが戻らなければ、次の名前が呼ばれる。次の名前が戻らなければ、またその次が。指名の列は、未来へ向かってずっと伸びていく。


 アルカが階段の前に立つ。


「サラ」


 意外な名前に、サラは顔を上げた。


「……なに?」


「お前のそのノートさ。俺がいなくなっても、ちゃんと俺のこと書いとけよ」


 アルカは、少しだけ照れたように笑った。


「“一回目の指名でビビりながらも地下に降りた男がいた”くらいは、さ」


 サラは気付かれないように唇を噛んだ。


「生きて帰ってきたら、“二回目も行く覚悟があった”って書きます」


「やめろ。それはさすがにごめんだ」


 アルカは笑い、ひらひらと手を振って螺旋階段を降りていった。


 地下へ。通気坑の向こうへ。水のあるかもしれない場所へ。


 扉が閉まる音はしない。ただ、足音が遠ざかり、冷たい風だけが吹き上がってくる。


 サラはノートを開き、震える手で書き始めた。


 “第6日目 レオ帰還。肩に浅い銃創。外には所属不明の武装集団。“救援”は生き残りを釣る罠。神父、戦時中の密告の過去を告白。『共同体を救う選択』として一人を差し出した記憶。懺悔=秩序への供物となった経緯”


 ペン先が止まる。


 彼女は続きを書く。


 “祭壇の銃と鍵が皆の前に晒される。マグダ、『わたしが神をやる』と宣言。投票の仕組みは“賛否”から“指名制”へ。誰もが誰かの名前を書く。最も多く指名されたのはアルカ。銃を持たず、地下から外へ水を取りに向かう”


 最後の一行を書く前に、サラは一度だけ目を閉じた。


 “戻らなければ、次の名が呼ばれる。指名の列は、まだ見えない未来へ伸びている”


 インクがじわりと滲む。


 その滲みが、誰かの血の跡に重ならないことを、ただ祈るしかなかった。

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