表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
燃える教会―戦争で焼け落ちた街。教会に逃げ込んだ13人の避難者。  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/8

第5話「夜の合図、鐘は誰のために」

 夜は、とっくに底まで沈んでいた。


 窓の外の空は真っ黒ではなく、煤と炎の赤が混じった汚れた色をしている。教会の中は、寝息と、時折混じる赤ん坊の泣き声に占領されていた。サラはノートを枕代わりにして横になっていたが、眠りは浅く、何度も目を開けては天井のひびを数えていた。


 そのときだ。


 どこかで、木が軋む音がした。


 最初は、崩れかけた梁が鳴ったのだと思った。しかし、次の瞬間、サラの耳に別の音が届く。


 ひそひそとした声。


 囁き合う、大人の男の声。


 サラは身を起こし、暗闇に目を凝らした。声は、上から聞こえる。鐘楼へ続く階段の方からだ。


 同じころ、扉の見張りをしていたユリウスも、その声に気付いていた。


 彼は壁にもたれかかっていた体を起こし、耳を澄ませる。軍にいた頃から染み付いた癖で、声の方向と距離を瞬時に測る。


(鐘楼の……中か)


 彼は周囲を見渡した。皆、ぐったりと眠っている。レオの姿だけが、ここにはない。


「起きてるか」


 ユリウスは小声でサラに声をかけた。サラがびくりと肩を震わせ、こちらを見る。


「う、うん……」


「ここを頼む。誰かが目を覚ましたら、俺は鐘楼を見てきたと言っておけ」


 それだけ言うと、彼は足音を殺して階段へ向かった。


 石の階段は冷たく湿っていた。納骨堂へ続く穴とは逆方向。螺旋を描いて上へ。上へ。上がるにつれ、囁き声は少しずつはっきりしていく。


「……三度だ。三度、間を空けて鳴らす。そう決まっていた」


「決まっていた、って、いつの話だ」


 ユリウスは最後の段を上がり切り、鐘楼の床に身を滑り込ませた。ひび割れた鐘が暗闇の中にそびえ、その下で二つの影が向かい合っている。


 一人はマグダ。もう一人は、老人ガブリエルだった。白髪でやせ細った体。この教会の古株で、誰よりも長く鐘の音を聞いてきた男だ。


 ふたりの手には、鐘の綱が握られていた。


「こんな時間に、何をしている」


 ユリウスの声に、二人は振り返った。


「見張りご苦労さま」


 マグダが薄く笑う。


「少しだけ、未来の話をしていただけよ」


「未来?」


「救援の話だ」


 ガブリエルの声はかすれていたが、はっきりしていた。


「戦争の頃、丘の上の教会は“合図塔”だった。友軍が街に近づいたとき、ここから鐘を鳴らして道を示した。三度鳴らす。それが“こちらに仲間がいる”合図だった」


 ユリウスは眉をひそめる。


「前に鐘を鳴らしたときは、砲撃が来た」


「あのときは、合図を知らない奴らが聞いていたからさ」


 マグダが肩をすくめる。


「でも今は違う。西から近づいているのは“救援隊”だ。あたしが地下の通気坑から見た。列を組んで動いている。武装している。規律がある。あれは、ただの略奪者の歩き方じゃない」


「だから、ここから“救援の合図”を送ろうとしているのか」


「そう」


 マグダは綱を軽く揺らす。


「三度鳴らす。西の丘の下から、きっと合図灯が返ってくる。そうしたら、この教会は“見捨てられた瓦礫”じゃなくなる」


「前の砲撃も、“救援の誤爆”だったのかもしれない」


 ガブリエルが苦い笑みを浮かべる。


「合図もなしに鐘を鳴らせば、敵味方の区別なく狙われる。だからこそ、今回は段取りを整えたいのだ」


 ユリウスは深く息を吸った。


「……勝手に決めることじゃない」


「だから、話し合っている」


 マグダが綱から手を離す。


「あなたも含めて、ね」


 彼女の目は、どこか試すように光っていた。


 そのときだった。


 丘の下の闇が、ふっと明るんだ。


 鐘楼の隙間から、細い光が三度、瞬く。間を空けて、一回。二回。三回。


「……合図灯」


 ユリウスが呟く。


 丘の麓。街道沿いか、大通りのどこか。規則正しい点滅は、偶然の火の揺らぎではあり得ない。


「見たでしょう」


 マグダが勝ち誇ったように言う。


「西から来た救援隊の合図よ。『こちらは友軍。返答せよ』ってね」


「断定するな」


 ユリウスは鋭く言う。


「あれが敵の罠じゃないという確証はどこにもない」


「あれが救いだという確証も、死だという確証もない」


 マグダは淡々と続ける。


「ただ一つ確かなのは、“応えなければ何も始まらない”ってことだけ」


 その言葉の重さを測るように、ユリウスはしばらく沈黙した。


 やがて彼は、鐘楼を降りる階段を振り返る。


「……皆を起こして、決めてもらう」


「時間はそう多くない」


 ガブリエルが言った。


「あの灯りが消える前に、鐘を鳴らすかどうか」


 ユリウスが階段を降りる頃には、サラは既に人々を起こし始めていた。彼がいないと気付いたミラが心配して起き出し、ざわめきはすぐに聖堂全体へ広がった。


 ヨナス神父、校長、エヴァ、ノラ、アルカ、トマとリーナ、イレナと赤ん坊。それぞれが眠気と不安を抱えたまま集まり、鐘楼の話を聞いた。


「三度の合図灯……」


 ヨナス神父が窓の外に目を凝らす。


「西の街道沿い……あのあたりには、確かに軍の補給路があったはずだ」


「だからって、味方とは限らない」


 エヴァが食い気味に言う。


「今の状況で、“誰が味方で誰が敵か”なんて、誰にもわからない。ここから鐘を鳴らしたら、食糧と水の在庫があるって宣伝しているようなものよ」


「在庫を守るために、救援の可能性を捨てるのか」


 マグダが鋭く返す。


「あなたが守っているのは“明日”かもしれない。でも、その明日までに誰かが死んだら、守っているのは“空の配給箱”よ」


 エヴァは唇を噛んだ。


「鳴らさなければ……ここはただの静かな墓場になるかもしれない」


 校長が低く言う。


「だが鳴らせば、前回のように砲撃が来る可能性もある。前回の鐘が“敵の標的”を呼んだのか、“味方の誤爆”だったのか、私たちには判断できない」


「だから“決める権利”を分けよう」


 サラがノートを胸に抱えたまま言った。


「前に鐘を鳴らしたときは、神父とユリウスさんとレオの判断で決めた。今度は違う。誰が賛成して、誰が反対して、それで何が起きたのか——全部、残しておく」


「……投票だな」


 校長がうなずく。


「紙を配ろう。賛成か反対か、名前は……」


「名前はいらない」


 エヴァが遮る。


「匿名にしないと、本当の気持ちは書けない。どれだけ“正しい”方に入れたって、結果が悪ければ責任を探す声が出る。それなら、最初から“全員で決めた”ことにするべきだと思う」


「でも、少なくとも“何票差だったか”は記録する」


 サラは言う。


「それで、次に同じ選択をするとき、私たちが何を重ねてきたのか、わかるように」


 エヴァは一度だけため息をつき、配給箱の中から紙束を取り出した。貴重な白紙だ。これまでは配給表や在庫計算にしか使えなかった紙を、今は“選択”のために使う。


「そんな贅沢な使い方、他の場面なら絶対にしなかった」


 エヴァはそう言いつつ、一人一人に小さな紙片を手渡していく。


「でも、今日だけは許す」


 サラは紙とペンを受け取り、ノートの上に紙片を置いた。


 鐘を鳴らすか。鳴らさないか。


 自分の一票で何かが変わるとは思えない。それでも、今日、ここで何も書かないでいることの方が、もっと怖かった。


(レオがもしここにいたら……)


 ふと、そんな考えがよぎる。レオなら、きっと迷わず「鳴らす」に入れるだろう。外で走っている彼にとっては、あの光と鐘が、唯一の“座標”になるかもしれないから。


 サラは唇を噛み、「鳴らす」の方に小さく丸をつけた。


「集めるぞ」


 校長が帽子を持って回り、紙片を集めていく。それをサラと一緒に一枚ずつ開いていく。


 鳴らす。鳴らさない。鳴らす。鳴らさない。


 数えるたびに、誰かの呼吸が止まる。イレナは赤ん坊を抱きしめながら目を閉じ、エヴァは指の関節が白くなるほど拳を握りしめていた。


「最後の一枚だ」


 校長が紙を開く。


 サラは心臓の音を聞きながら、数字を確かめる。


「……鳴らす、七。鳴らさない、六」


 わずか一票。


 ヨナス神父は目を閉じ、ゆっくりとうなずいた。


「多数決だ。鐘を——」


「待って」


 ミラが声を上げた。


「ほんとに、これでいいの? こんな僅差で、“ここにいる全員の命”を動かしていいの?」


「これ以上の方法があるか」


 ユリウスが静かに言う。


「俺たちは今、戦場より酷い場所にいる。誰も全体を把握できない。だからこそ、せめて“決め方”だけは、全員に開かれたやり方にしておくべきだ」


 ミラは何か言いたげだったが、言葉にならなかった。


 鐘楼へ向かう階段の前で、ユリウスは一度だけ振り返る。


「……俺が鳴らす」


「他の誰かでも——」


「いいや、軍人上がりの仕事だ」


 ユリウスはそう言って薄く笑い、階段を上っていった。サラは胸の奥に冷たいものを感じながら、その背中を見送る。


 鐘楼にたどり着くと、冷たい風が頬を撫でた。ガブリエルが綱の近くに立ち、マグダは少し離れたところから外を見ている。


「結果は?」


「鳴らす、だ」


「そう」


 マグダの口元がわずかに動いた。それが微笑みかどうか、ユリウスには判別できなかった。


「三度。間隔を空けて鳴らす。いいな」


 ガブリエルが念を押す。


「途中でためらうなよ」


「ためらっていいのは、引き金を引く前までだ」


 ユリウスは綱を握った。掌にざらついた麻の感触。昔、別の場所で、別の鐘を鳴らした記憶が、一瞬だけ脳裏をよぎる。


(一度目は、ただの報告だった。二度目は、後悔でしかなかった。三度目は——)


 違うものになるのだろうか。


 ユリウスは勢いよく綱を引いた。


 ひび割れた鐘が、腹の底を揺らすような低い音を吐き出す。教会の中にいた全員が、その音を聞いた。サラはノートを握りしめ、赤ん坊は一瞬泣き止み、それからまた小さく泣き始めた。


 一度。


 間を空ける。外の闇が微かに揺れる。


 二度。


 ユリウスが綱を引いた瞬間、胸の奥に嫌な予感が走った。


(三度目で、何かが変わる)


 その直感は、半分当たっていた。


 三度目の鐘を鳴らそうと、綱に力を込めたその瞬間——乾いた音が、鐘の音よりも早く空気を裂いた。


 銃声。


 ユリウスの頭のすぐそばを、何かがかすめる。綱が途中で弾け飛び、麻の繊維が宙に散った。衝撃でユリウスの体は後ろに投げ出され、床に叩きつけられた。


「……っ」


 左肩に、焼けるような痛みが走る。服が破れ、血がじわりと広がる。


 鐘は第三の音を吐き出さないまま、揺れだけが空中に残った。


「ユリウス!」


 階段を駆け上がってきたミラの声が響く。マグダとガブリエルも振り返った。


「今の、音……」


 ガブリエルの視線が聖堂の方へ向かう。


 祭壇。


 そこにあったはずの拳銃は——再び、消えていた。


 サラはその事実に気付いた最初のひとりだった。


 鐘の二度目の音を聞いて、彼女は条件反射で祭壇を見た。そこには、いつものように煤けた聖書と、黒い金属の塊が……あった。


 しかし、銃声が響いた直後、視線を戻したときには、そこには何もなかった。


「銃が……また」


 声が震える。


「誰かが撃った」


 ユリウスの肩から流れる血。切れた綱。階段の途中に残る、微かな硝煙の匂い。


 誰が。どこから。


 聖堂の中は一瞬で混乱に包まれた。ベンチが軋み、叫び声が交錯する。トマはリーナを抱きしめ、エヴァは配給箱の前に立ちはだかり、アルカは反射的に壁の陰に身を隠した。


 外では——。


 さっきまで規則正しく三度だけ瞬いていた合図灯が、四度、五度と不規則に点滅し始めた。


「おかしい……」


 ガブリエルが呟く。


「あんなパターン、知らない」


 光は間隔を乱しながら、やがて一筋の線へと変わった。丘の下から、斜めに伸びる火線。まるで誰かが夜空に針を刺したように、橙色の軌跡が一直線に丘を登ってくる。


 次の瞬間、教会の外壁が震えた。


 砲撃とも違う、連続した衝撃。火線は、ただの合図ではなかった。丘に向けて撃ち上げられた照明か、誘導弾か。どちらにせよ、それは“救援”ではなかった。


「……違う。あれは、救助なんかじゃない」


 マグダが顔をしかめる。


「あの連中、“ここに生き残りがいる”って知って、弾のほうを近づけてきてる」


 ユリウスは肩を押さえながら、必死に立ち上がろうとした。ミラが慌てて抑える。


「動かないで! 傷が開く!」


「こんなときに寝てられるか……!」


 ユリウスが歯を食いしばる。


「全員、下へ!」


 ヨナス神父の声が聖堂に響いた。


「納骨堂だ! 地下に降りる! ここはもう——」


 彼は言葉を切った。


 “安全”とは、もう言えなかった。


 エヴァは躊躇なく配給箱を抱え上げた。中身が揺れて音を立てる。


「この箱が空になったら、私たちも空になる。絶対に手放さない」


「赤ん坊を先に」


 ミラが叫び、イレナの方へ走る。イレナはまだ顔色が悪いが、腕の中の赤ん坊は弱々しくも泣いていた。


「階段は滑りやすい。トマ、リーナの手を離さないで。アルカ、ユリウスさんを支えて!」


「言われなくても」


 アルカが肩を貸し、ユリウスを引きずるようにして階段へ向かう。ノラは震える足でベンチの間を抜け、サラはノートを抱きしめたまま皆の後ろに続いた。


 鐘楼の穴から吹き上げる冷気が、今度は彼らの救い道になる。階段をひとりずつ降りていく。後ろから、外壁に何かがぶつかる鈍い音が続いた。


 納骨堂は、ひんやりと静まり返っていた。蝋燭の光が、石の棺と壁一面に刻まれた名前を照らし出す。


 古い匂い。骨と湿った土の匂い。それでも、上にいるよりはマシだった。


「ここで……一旦、落ち着こう」


 ヨナス神父が息を整えながら言う。


「上の揺れが収まるまで、ここから動かない」


 ミラはユリウスを壁際に座らせ、肩の傷を確認した。弾は貫通していない。肉を抉って止まっている。しかし、そのままにしておくわけにはいかなかった。


「弾を抜くのは、今は無理。圧迫して止血するしかない」


 彼女は古いシーツの残りを裂き、傷口をきつく縛る。


「痛む?」


「質問の意味がわからん」


 ユリウスは苦笑した。


「痛くないって言ったら、今度はそれを疑うだろ」


 イレナは赤ん坊を胸に抱きしめ、壁にもたれた。赤ん坊は環境の変化などお構いなしに泣き続けている。その声が、逆に全員の意識を“ここ”につなぎ止めた。


 サラは周囲を見回しながら、ふと壁の一角に目を留めた。


 そこだけ、文字が集められたように刻まれている。


「……何か、書いてある」


 彼女が近づくと、古びた碑文が蝋燭の光に浮かび上がった。


 “ここに眠るは罪人にあらず、赦しの名に集まる者”


「赦しの名に、集まる者……」


 ノラが読み上げる。


「つまり、ここにいる人たちは“罪人じゃない”って意味?」


「表向きにはそうだ」


 ヨナス神父が碑文を見つめ、複雑な表情を浮かべる。


「昔、この教会が戦時下で“再利用”されたとき、この納骨堂には、処刑された者、見せしめにされた者、居場所をなくした者たちがまとめて葬られた。誰が罪人で、誰が被害者か、誰にもわからなくなった」


 サラは碑文の下に、うっすらと削られた跡があるのに気付いた。


「……ここ、何か続きがあった?」


 ヨナス神父はわずかに目を伏せる。


「“罪人にあらず、赦しの名に集まる者……ただし、その名を誰が与えたかは問わず”」


「問わず?」


 ミラが顔を上げる。


「つまり、“誰かが罪だと言えば罪人になり、赦したと言えば赦された者になる”ってこと?」


「皮肉な話だが、そういう意味にも取れる」


 神父は苦笑した。


「ここに眠る者たちは、自分で自分を裁いたわけじゃない。誰かに裁かれ、誰かに赦された。鐘の音ひとつで、行き先が決まった者もいた」


 その言葉に、サラの背筋が冷たくなった。


 鐘。


 さっきまで皆で“鳴らすか鳴らさないか”を決めていた鐘。その一票差で、“ユリウスが綱を握る”ことが決まった。


 ユリウスが綱を握ったからこそ、弾丸は彼の肩を貫いた。もし他の誰かがあの場所に立っていたら、その肩を撃ち抜かれていたのは別の名前だったかもしれない。


 鳴らす、という選択。


 それに賛成した七票。


 そのひとつに、自分の紙片も含まれている。


「……ねえ」


 イレナがぽつりと言った。疲れ切った顔で、それでも目だけはしっかりと開いている。


「もう、誰かが鐘を鳴らす必要なんて、ないんじゃない?」


 皆が彼女を見る。


「だって、鳴らすたびに、誰かが死ぬ。鳴らすって決めるたびに、“誰が綱を握るか”って話になって、その人が狙われる。救いの合図なんかじゃない。鐘の音は、“誰を犠牲にするか選びました”って合図になってるんだよ」


 イレナの腕の中で、赤ん坊が小さく泣いた。


「さっきの投票も、そうだったでしょう? 私たち、あれを“民主的な決定”だって思い込もうとしてた。でも実際には、“誰を撃たせるか選ぶ儀式”みたいなものだった」


 エヴァが口を開きかけて、閉じた。


 反論できる言葉が、見つからなかったからだ。


 サラはノートを取り出し、震える手でページを開いた。今日一日の出来事が、まだほとんど何も書かれていない白紙の上に重なる。


 夜明け前の囁き。鐘楼の影。合図灯。投票。ユリウスの肩をかすめた弾丸。消えた拳銃。あの火線。


 そして今、納骨堂の碑文と、イレナの言葉。


 彼女はゆっくりとペンを動かした。


 “第5日目 夜明け前。鐘楼にてマグダとガブリエル、救援の合図の相談。西の丘下に三度の灯り。賛成七、反対六の投票により“鐘を鳴らす”ことが決定。ユリウスが綱を引き、一度、二度——三度目の前に銃声。綱は切れ、肩に負傷。祭壇の銃はまた消えた”


 そこまで書いて、ペン先が止まる。


 サラは碑文を見た。


 “罪人にあらず、赦しの名に集まる者”


 誰が罪人で、誰が赦された者なのか。誰が“鐘を鳴らす側”で、誰が“鳴らされる側”なのか。


 彼女は震える字で続きを書いた。


 “鐘が合図するのは、救いではない。鳴らすか鳴らさないかを決めるたび、私たちは“誰かを前に出す”手続きを踏んでいる。投票は、誰かを殺す手続きに変わりつつある”


 書き終えた瞬間、胸の奥がひどく冷たくなった。


 ノートの言葉が、現実を固定してしまう気がして怖かった。それでも、書かずにはいられなかった。


 ミラは止血したユリウスの様子を確かめ、赤ん坊を抱いたイレナを見やる。


「イレナ。あんたの言う通りかもしれない」


 彼女は静かに言った。


「鐘はもう、祈りを呼ぶ音じゃない。外の誰かを呼ぶんじゃなくて、中の誰かを選び出す音になってる」


「だったら」


 ノラがぽつりと言う。


「次、あの綱を握る人を決めるときは、その人の名前を、最初から“墓標”の下に刻んでおくべきかもね」


「縁起でもないことを言うな」


 アルカが顔をしかめる。


「でも、そうやって笑ってないとやってられないでしょ」


 ノラの笑いは、どこか涙声だった。


 上から、かすかな揺れが伝わってくる。火線が丘を舐め終えたあと、外の音は徐々に遠のいていく。しかし、それが嵐の終わりなのか、次の波の前の静けさなのか、誰にもわからなかった。


 サラはノートを閉じ、膝の上で抱きしめる。


 鐘楼の綱は切れ、銃は見えない場所に移り、投票用紙はクシャクシャに丸められて帽子の中で眠っている。


 誰かを選ぶための道具ばかりが増えていくのに、一人一人の顔は、逆にぼやけていく気がした。


(違う)


 サラは目を閉じて思う。


(ぼやけさせちゃいけない)


 ユリウスの名も。投票用紙に丸をつけた自分の手も。レオがまだ外で走っていることも。イレナの腕の中で泣いている赤ん坊の声も。


 全部、今日のページに刻んでおかなければならない。


 鐘が誰のために鳴るのか。もう誰も“神様のため”だなんて言えないからこそ。


 夜明け前の納骨堂には、赤ん坊の泣き声と、大人たちの浅い寝息と、文字の擦れる音だけが響いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ