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燃える教会―戦争で焼け落ちた街。教会に逃げ込んだ13人の避難者。  作者: 妙原奇天


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第4話「割れるパン、血の契約」

 第四日目の朝、教会の空気はいつもと違っていた。


 熱と乾きに満ちた空間のどこか一角で、湿った息づかいが繰り返されている。短く、浅く、間隔は乱れて、それでも必死に続いている。


「……大丈夫。呼吸はできてる。深く吸って、吐いて」


 ミラの声が聖具室から漏れてくる。聖具室の扉は半ば開け放たれ、その向こうでベンチや祭壇布がどかされ、即席の産床が作られていた。


 ミラは古い白いシーツを裂き、紐代わりにして束ねる。床に敷いた布はできるだけ清潔に保とうとしたが、煤の匂いは消えない。


 イレナは汗だくになり、顔を真っ赤にして天井をにらんでいた。


「こんな場所で……産むなんて、思ってなかったわよ」


「私だって、こんな場所で取り上げる日が来ると思ってなかった」


 ミラは苦笑を浮かべ、イレナの額の汗を拭く。


「でも、ここしかない。だから、やるしかない」


 外では、まだ火がくすぶっている。遠くで崩れる建物の音がして、時々教会の壁が低くうなる。しかし、その全てが、今はこの部屋の息づかいに塗りつぶされる。


 サラは扉の陰からそっと中を覗き、すぐに視線を伏せた。ノートを胸に抱えながら、胸の奥に重たいものが沈んでいくのを感じる。


 守るべき命。


 そう教えられてきた。学校でも、家でも、教会でも。新しい命は祝福されるべきだと。


 でも今は——頭のどこかで別の計算が始まっている。


 赤ん坊は、新しい口だ。泣く。飲む。食べる。誰かが減らされる分を、誰かが補わなければならない。


 そんな考えが浮かんだ自分に、サラは少し吐き気を覚えた。


「お腹、すいた」


 隣でリーナが囁く。トマは妹の頭を撫で、無理に笑顔を作った。


「エヴァが配給の準備してくれてる。もうちょっと我慢しよう」


「うん……でも、赤ちゃんの分もいるの?」


 その質問は、子どもらしい純粋さのはずなのに、聖堂中の誰かの心に棘として刺さった。


 配給箱の前で、エヴァは既に秤を手にしていた。彼女の前には、乾いたパンがいくつも並んでいる。小麦の香りはほとんど消え、ただの“生き延びるための塊”に見えた。


「今日から、ほんの少しずつ削る必要がある」


 エヴァが帳面をめくりながら言う。


「水の量も、昨日より減らさないと。イレナの分は増やさなきゃならないけど……」


「赤ん坊の分も?」


 ノラが肩をすくめる。


「まだ生まれてもないのに計算するの、さすがにどうかと思うけど」


「計算しなければ、誰かが自然に消えるだけだよ」


 エヴァの言葉は冷たく聞こえるかもしれないが、そこには感情の代わりに責任が詰まっていた。


「ここにはもう余剰なんてない。誰かが増えれば、誰かが減る。その現実を見ないふりして、“祝福”だけ唱えても、誰も救えない」


 サラはノートを開き、その言葉を書き留める。


 “赤子=祝福と負担。計算と祈りの間での揺れ”


 彼女はそこでペンを止めた。ページの上でインクが小さな黒い点になってにじむ。


「だったら、どうするつもりだ」


 ユリウスが腕組みをしながら言った。


「……いっそ、二人分を表から外す、って手もある」


 エヴァは一度だけ迷うように目を伏せてから、あえて言葉にした。


「イレナと赤ん坊の分は“別枠”にする。配給表から外して、残りの分を数字通りに割る。そうすれば、皆の“減り”は少しだけで済む」


「外すって……」


 トマが顔を強張らせる。


「それって、イレナさんたちを“枠の外の存在”にするってことじゃないの?」


「そうでもしなければ、皆が“自分のパン”の中に、まだ見ぬ赤ん坊の影を見ることになる」


 エヴァは静かに続ける。


「そうなる前に、区切らなきゃいけないと思う」


「——やめなさい」


 低い叱責の声が飛んだ。校長だ。


「言うべきことと言わなくていいことがある。お腹の子を“枠の外”に置くなんて、そんな考えは——」


「現実だよ」


 珍しくエヴァが言い返した。


「先生、あなたが“公平”を口にしたのは、どれだけ昔? いまのこれは、もう授業でも教会でもない。お腹の中の一人分が、この教会全体の“明日”を削る。それを“考えるな”って、無責任じゃない?」


「だからといって、口にすべきでない言葉もある!」


 校長の声が少し荒れた。周囲の子どもたちがびくりと肩を震わせる。


 ヨナス神父が間に入るように歩み出た。


「……パンを、分けよう」


 誰かが息をのむ。


「“パンの儀”をする。教会の古い習わしだ。皆で等しくパンを分かち合い、お互いに与え合うことで、共同体をもう一度確かめる。数字の前に、まず“私たち”を思い出さなければならない」


「神父、それ、今やるの?」


 ノラが眉をひそめる。


「喧嘩してるときに儀式なんて……」


「喧嘩しているからこそだ」


 ヨナス神父はベンチから一つのパンを取り上げた。まだ全員に行き渡るには心もとない大きさだが、それでも彼はそれを胸の高さに掲げる。


「これは、今日だけの“特別”ではない。明日、明後日……もしあるなら、その先にも続くための約束だ。ここにいる全員が“同じ釜のパン”を分け合っていると、忘れないための印だ」


 エヴァはしばらく考え込んでから、ゆっくりとうなずいた。


「……儀式に使った分も、ちゃんと記録する。浪費にしないって約束してくれるなら」


「ああ」


 ヨナス神父は、パンを両手で割った。乾いた音が響く。中から粉がこぼれ、空気に小麦の匂いが一瞬だけ広がった。


「このパンを、二つに、四つに、八つに……皆で分けよう。ただし、自分の手では取らない。必ず“誰かから受け取る”んだ。自分の分を自分で確保するのではなく、誰かの手から受け取る。それが“血の繋がりの代わり”だ」


「血の……」


 トマが呟いた瞬間、別の赤が目に飛び込んできた。


 パンの白い断面に、ぽたり、と何かが落ちる。小さな紅い点。それがじわりと広がって、粉に染み込んでいく。


「……血?」


 サラが思わず口にする。


 ヨナス神父もびくりとして、手元を見た。パンの端に赤い染みが広がっている。その源を追うと——隣にいたアルカの指先から、赤い滴がひとつ、またひとつと落ちていた。


「おい、お前……」


 レオが眉をひそめる。


「指、どうした」


「大したことない。ただの切り傷だ」


 アルカは顔をしかめ、慌てて手を引っ込めた。しかし血は止まらず、さっき落ちた分が、白いパンの表面に鮮やかな痕跡を残している。


「いつの傷?」ミラが鋭く問う。


「さっきまでそんなの見えなかった」


「……さあな。階段で擦ったかもしれないし、昨日のうちに——」


「昨日?」


 サラの胸がざわつく。ノートを思わず抱き締める。


 昨夜、イレナの容体を見に行く直前。サラは書き留めていた。誰がどこにいたか。誰が眠れていなかったか。誰が教会の外を気にして扉を見つめていたか。


 その中に、ひとつ、アルカの名前がある。


 “夜中、扉の近くで姿が見えなくなっていた時間がある”


 本人はトイレに行っていたと言ったが、その言葉を検証する術はなかった。


「アルカ」


 サラは意を決して声をかけた。


「昨夜のこと、もう一度聞いてもいい? あなた、途中でどこに行ってたの」


「言っただろ。用を足しに行ったって」


「そんなに長く?」


「腹の調子が悪かった」


 即答。しかし、その表情には僅かな硬さがあった。


「外に、出てない?」


 その質問に、聖堂の空気がピンと張り詰める。


「扉は閉まっていたはずだ」校長が口を挟む。


「誰かが開けたなら、見張りが気付くはず——」


「見張りはレオだった」


 ノラがわざとらしく言う。


「レオが見てない隙に、誰かが出たのかもしれない」


「俺か、アルカか、それ以外か。選択肢は三つだ」


 レオが肩をすくめる。


「で、お前は“俺じゃない”って顔してる」


「当然だ。弾が減って戻ってきた銃なんて、触りたくもない」


 アルカの声には、怒りとも恐怖ともつかない色が滲んでいた。


「火の始末をしたのは、本当にお前じゃないの?」


 トマが唇を噛みながら言った。


「最初の夜。街が燃え始めたとき、誰かが“火を広げた”って噂があった。あれ、本当は……」


「何回言わせるんだ」


 アルカは叫んだ。


「俺じゃない! 俺は火をつけてないし、消してもいない! あの夜、俺がやったのは……誰かに毛布をかけようとして、上手くいかなかった、それだけだ!」


 彼の叫びは、懺悔にも告白にもなりきれなかった。ただ、積もり続けてきた疑いの重さを振り払うための、空しい一撃のように響いた。


 ヨナス神父は、血のついたパンを見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。


「……ならば、このパンは“血の契約”になる」


 その言葉に、皆が彼を見る。


「今、ここで誰かを断罪することはできない。だから、この血を“誰かの罪”ではなく、“皆の責任”として受け取ろう。アルカ一人の血ではない。彼が明日、ここで笑っているか、それともいないか——その行方に、私たち全員の選択が絡んでいる」


 そう言って、神父は血のついた小さな欠片を手に取り、自分の口に運んだ。


 パンがかすかに揺れる。赤い染みが、唇につきかけて、消えた。


「これで、私は彼の血を分け合った。彼が“外”の匂いを連れてきたのだとしても、その責任から逃げるつもりはない」


 神父は割れたパンの残りを皆に回し始めた。


「さあ、誰の手から受け取るかは、君たちが選びなさい。自分の分は、自分で選ぶんじゃない。“誰かの手”を通して受け取るんだ」


 奇妙な沈黙ののち、最初に動いたのはミラだった。


「……私が、次に」


 彼女はパンを一欠片取ると、トマに差し出した。


「トマ、これを受け取って。これは私の分でもあるし、あなたの分でもある」


 トマは戸惑いながらも、その欠片を受け取った。次にトマがリーナへ。リーナがノラへ。ノラがエヴァへ。エヴァがサラへ——。


 パンはぐるぐると巡りながら、形を変え、少しずつ小さくなっていく。その一部には、まだかすかに赤い色が残っていた。


 サラはそれを見つめながら、ノートの端に書き込む。


 “割れたパン=血の契約。アルカの血を皆で分け合う。罪の所在を曖昧にしながら、共同体を繋ぎ止める儀式”


 そのとき、地下から冷たい風が吹き上げてきた。


 納骨堂の階段。鐘楼の穴につながる、その暗闇から、微かな足音が聞こえる。


「……誰か、上がってきてる」


 レオが懐中灯を握りしめ、光を向ける。闇の奥で何かが動き、やがてひとりの影が姿を現した。


「ただいま」


 マグダだった。


 髪には粉塵が付き、コートの裾は湿っている。顔色は落ち着いているが、その目だけが妙に光っていた。


「また地下に行ってたの?」


 ノラが呆れたように言う。


「好きねえ、あの暗い場所」


「地上より安全よ」


 マグダは軽く笑った。


「それに、あそこには“外へ続く通気坑”がある。細い穴だけど、街の空気と音が通ってくる。さっきまで、そこから様子を見ていた」


 レオが目を細める。


「何が見えた」


「火と煙、それから……人影。一つの列になって動いていた」


 マグダは皆の顔を見渡し、言葉を続けた。


「救援隊よ。西から近づいている。完全武装で、車両もある。炎を避けながら進んではいるけれど、この丘に辿り着くのも時間の問題だと思う」


 サラの胸がどくんと跳ねる。誰かが小さく歓声を上げかけて、すぐに飲み込んだ。


「本当に?」


 トマが食いつくように言う。


「本当に、助けに?」


「さあ。彼らが何を“救う”つもりなのかまでは、わからない」


 マグダの微笑みは、その言葉の残酷さを和らげることはなかった。


「でも少なくとも、あの人たちが通り過ぎれば、ここは“無視された場所”じゃなくなる。見つかるか、踏み潰されるか、焙られるか。そのどれかにはなる」


「それを“救援”って言う?」


 ノラが皮肉を吐く。


「甘い餌にも、毒にも聞こえるわね、その話」


「何もないよりは、どちらに転ぶかわからない希望の方が、まだ選択肢があるでしょう」


 マグダはそう言って、祭壇のパンに目を向けた。


「いい匂い。私の分も残ってる?」


「ほんの一かけらだけ」


 エヴァがパンを差し出すと、マグダはそれを口に運んだ。


「……血の味がする」


「気のせいよ」


 ミラが即座に言う。


 日が傾き始める。外の赤は、もはや夕暮れなのか炎なのか見分けがつかない。聖具室の中では、イレナのうめき声が次第に激しくなっていった。


 夜が訪れる頃——教会の空気は、悲鳴と祈りで満たされた。


「もう少し。息を止めないで。押して!」


 ミラの声。イレナの喉を裂くような叫び。誰もが扉の前から離れられず、それでも耳は聖具室の方へ引き寄せられる。


 レオは扉のそばに立ち、外の音と内の音の両方を聞いていた。外の砲声は遠のきつつあるが、完全に消えたわけではない。いつ再び近づいてくるのか、誰にもわからない。


 やがて——。


 か細い声が、空気を突き抜けた。


 泣き声。


 生まれたばかりの赤ん坊の声だった。


 聖堂の中の誰もが、思わず息を呑んだ。手を組む者もいれば、口元を押さえる者もいる。トマはリーナを抱き寄せ、ユリウスは目を細め、校長は頭を垂れた。


 死に向かっていた世界の中で、生まれてきた命。


 その奇跡に、ほとんど全員が涙ぐんだ。


 その刹那。


 空気が震えた。


 腹の底を殴られたような衝撃。次の瞬間、天井の一角が爆ぜるように崩れ、石片と粉塵が雨のように降り注いだ。


 誰かが悲鳴を上げる。サラは反射的に頭を抱え、床に伏せた。レオはリーナとトマを引き寄せ、ミラは聖具室の方を振り返る。


 砲撃だった。


 爆心地はおそらく教会の外側、すぐ近く。だが、その衝撃で古い石造りの天井が耐えきれず、一部が崩落したのだ。


 大きな石塊が、聖堂中央に落下する。祭壇はかろうじて直撃を免れたが、その衝撃で洗礼盤がひっくり返った。


 銀の盤が床を転がり、残されていたわずかな水が、石畳に広がっていく。


「待って!」


 ミラが叫んだ。走り寄ったときには、もう水は埃に吸い込まれ、汚れた溝へと流れ込んでいた。


 洗礼盤には、一滴も残っていない。


「水が……ない」


 誰かの声が震える。


 ミラは唇をかみ締めた。聖具室の方から、赤ん坊の泣き声と、イレナの浅い呼吸が聞こえてくる。


 出血。感染。汚れた布。ここから先は、清潔な水がなければ、ただ祈るしかなくなる。


「ミラ」


 レオが声をかけた。


「どれくらい必要だ」


「最低でも、一桶。母体と赤ん坊を拭いて、傷口を洗って、布を湿らせて……それでも足りないくらい」


 ミラは言葉を吐き出すように続ける。


「今、この教会の中で“清潔”って言える水は一滴もない。洗礼盤の水は最後の頼みの綱だったのに」


「地下には?」


 ユリウスが尋ねる。


「納骨堂の奥に、湿った壁はある。滴っている水も、ないわけじゃない。でも、純粋じゃない。泥や骨の粉や、何年ものカビが混じっている。イレナの身体に使うには、あまりに危険だ」


「じゃあ、外しかないのね」


 ノラが青ざめた顔で言った。


「この火の街から、水を探してくるっていうわけ?」


「どこかに、まだ残ってるはずだ」


 レオが言う。


「消火栓か、タンクか、生き残った井戸か。そこまで辿り着けるかどうかは……」


「賭けね」


 マグダが口を挟む。


「でも、ここにいれば、イレナと赤ん坊は“ゆっくりと”死んでいく。外に出れば、“一瞬で”かもしれないけど、そこには可能性もある。どちらを選ぶかは、結局同じ種類の選択よ」


 ヨナス神父は拳を握り、目を閉じた。


「誰かが……犠牲になる選択だ」


 その言葉を、彼はすぐに飲み込んだ。口から出してしまえば、ここにいる誰かに、その役を押しつけることになる。


 沈黙。皆の視線が床を彷徨う。


「俺が行く」


 レオの声が、静寂を裂いた。


「外の地理は、他の誰より覚えてる。火が回る前に、給水車が止まってた場所も目にしてる。もしタンクがまだ残っているなら、そこだ」


「駄目よ」


 ミラが即座に言った。


「一人でなんて——」


「多く出れば、それだけ狙われる。足も遅くなる。一人だからこそ、煙の隙間を縫って走れる」


 レオはミラをまっすぐ見つめる。


「イレナと赤ん坊を“確率で”救えるのは、多分俺だ」


 サラは息を止めて二人のやりとりを見ていた。ノートの上のペン先が、紙に触れたまま動けない。


「銃は……どうする」


 ユリウスが低く問う。


 皆の視線が、祭壇へと向かう。そこには、戻ってきた拳銃が一丁。弾は一発、欠けている。


「持って行った方がいい」


 トマが思わず叫ぶ。


「外には、誰がいるかわからない。人か、兵隊か、別の生存者か……丸腰で出たら、狙われるだけだ」


「でも、銃を持って行って撃ったら、“こっち”が標的になるかもしれない」


 ノラが反論する。


「音で居場所がバレるのは、昼でも夜でも同じ。しかも今、弾は限られてる。外で一発撃ったら、もう“次”はないかもしれない」


「持たない選択なんて——」


 トマの言葉を遮るように、エヴァが口を開いた。


「銃を持った人が外に出て、戻ってこなかった場合のことを考えないといけない」


 その言葉に、場の空気が冷える。


「外で死んだとしたら、銃はどこに落ちる? 誰が拾う? ここに戻ってくるのは、“私たちじゃない誰か”かもしれない」


 ヨナス神父は目を閉じ、祈るように額に手を当てた。


「銃を持たせるのは、あまりにも大きな賭けだ」


 校長も頷く。


「レオ君が戻ってこなかったとき、我々にはもう“最後の歯止め”さえ残らなくなる。銃がこの教会の外でさまようことになる」


「でも、それって結局、レオに“素手で死ね”って言ってるのと同じじゃない」


 ミラの声が震える。


「彼に何も持たせないで送り出して、それで“皆のための尊い犠牲だ”って……そんなの、私は嫌だ」


 沈黙。


 サラは、誰かが「じゃあ自分が行く」と言い出すのを恐れていた。誰かが名乗り出れば、その人の名前をノートに書かなければならない。送り出す瞬間の顔も、戻ってこないと決まった日のページも。


「……決めるのは、俺だ」


 レオが静かに言った。


「俺が持っていくか、置いていくか。その結果で、俺が死ぬか、生きるか。それでいい」


 彼は祭壇に歩み寄り、拳銃にそっと手を伸ばす。触れた指先に残る微かな熱は、まだ消えていなかった。


 数秒。長い沈黙。


 やがてレオは、その手をゆっくりと引っ込めた。


「置いていく」


 小さなざわめきが起きた。


「ここで撃たれたくない。外で撃たれたくもない。それにこれは、もう“誰かに使われた”銃だ。どこかで何かを終わらせて、ここに戻ってきた。だったら、次に誰かの命を決めるのは、俺じゃなくてもいい」


 彼は振り返り、皆を見渡した。


「帰ってきたら、そのとき考えよう。誰に持たせるか、どうやってしまうか。それまでこれは、ここに置いておく。神父さんの祈りでも、サラのノートでも、ミラの手でも、好きなもので見張っておけばいい」


 ミラは唇を噛み、うつむいた。


「……わかった」


 ヨナス神父は、祭壇の前に立ち、跪いた。


「行きなさい、レオ。これは命令ではなく、あなた自身の選択だ。その選択に、私たちはしがみつくように祈るしかない」


 サラはノートを開き、文字を書き始めた。


 “第4日目の夜。イレナ出産。赤子の産声。砲撃による天井の崩落。洗礼盤の水の消失。水を求める決断と、レオの志願。銃は祭壇の上に残されたまま——”


 ペンが止まる。


 どうしても一行を書けなかったからだ。


 “レオが戻らない可能性”


 その言葉を記すだけで、その未来を自分が引き寄せてしまう気がした。


 扉が開く。外の熱と煙が、夜の闇とともに流れ込んでくる。


「行ってくる」


 レオは振り返らないまま言った。


「帰ってきたら、ちゃんと“名前”で呼べよ。“自衛派のリーダー”じゃなくて、“レオ”って」


 ノラが涙をこらえながら笑う。


「帰ってきたら、まずあんたに文句言うわ。“銃置いてくとかバカか”って」


「楽しみにしてる」


 レオは軽く手を振り、夜の中へ溶けていった。


 扉が再び閉ざされ、閂が降ろされる。ベンチが押しつけられ、境界が復活する。


 中には十四の命——イレナと赤ん坊を合わせて——と、一丁の拳銃、割れたパンの欠片、そして血の染み。


 サラはノートの余白に、小さく書いた。


 “今夜、外にいるのは、レオ一人”


 インクが滲む。


 その一行を、彼女は祈りのように書き足した。


 “明日のページに、彼の名前が再び書けますように”

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