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9日目

朝、目を覚ました瞬間に、部屋の空気が違うと感じた。

昨日の雨はすっかり止んで、カーテンの隙間から射し込む光がやけに眩しい。

布団の中で寝返りを打つと、隣にはまだ眠そうな結衣の顔。

彼女は布団から半分だけ顔を出し、眉間にしわを寄せながらまぶしそうに目を細めていた。


「……眩しい」

「いい天気だよ。散歩日和」

「……別に、行きたいとこなんてない」


そう言われると思っていた。

でも、私が軽く笑って起き上がろうとしたとき、結衣がぽつりと呟いた。


「……本屋」


私は思わず振り返った。

「本屋?」

「うん……別に欲しい本があるわけじゃない。でも、なんとなく」


その言葉に、心臓が跳ねた。

結衣が「自分から行きたい場所」を口にしたのは初めてだったから。

それがどれだけ小さなことでも、私には大きな奇跡のように思えた。


「じゃあ、行こう。本屋。ちょうど私も雑誌見たかったし」

「……本気で? 別に合わせなくても」

「合わせてるんじゃない。行きたいんだよ」


そう答えると、結衣は信じられないものを見るように私を見つめて、すぐにそっぽを向いた。

「……バカみたい」

でもその頬は、ほんのり赤く見えた。



昼前、二人で家を出た。

太陽は少し暑いくらいで、歩道のアスファルトは光を反射している。

結衣は帽子をかぶり、マスクをして、歩幅を少しだけ落として私に合わせていた。


「……人多い」

「駅前だしね」

「こういうの、苦手」

「大丈夫。すぐ着くから」


私はなるべく結衣の近くを歩いた。

彼女が人混みに飲まれないように。

それだけで、なんだか守れているような気がした。



駅前の大きな書店に入ると、冷房の涼しさと紙の匂いが混ざった空気が迎えてくれた。

その瞬間、結衣の肩が少しだけ落ち着いたように見えた。


彼女は真っ直ぐに文芸コーナーへ向かい、並んだ背表紙をゆっくりとなぞるように眺めていく。

その姿は、普段の冷めた態度からは想像できないくらい真剣で、私は息をするのも忘れて見とれてしまった。


「結衣、本読むの好きなの?」

「……小さい頃はね。よく読んでた」

「今は?」

「読む気力なかった。でも……こうやって並んでるの見ると、ちょっと落ち着く」


その声は小さかったけれど、確かに柔らかさがあった。



しばらくして、結衣は一冊の文庫本を手に取った。

表紙は淡い水色で、古びた町並みが描かれている。

私はそのタイトルを知らなかったけれど、彼女の指先が微かに震えているのが見えた。


「それ、買うの?」

「うん……たぶん読まないけど」

「読まないのに?」

「……手元にあるだけでいいの。持ってるっていう感覚が、安心するから」


私は胸が締めつけられた。

彼女が「生きる支え」を、こうして必死に探しているのだと痛感した。


「じゃあ、大事にしようね」

「……なんでそんな当たり前みたいに言えるの」

「大事なものだから」


結衣は視線を逸らし、わずかに唇を噛んだ。



会計を終え、書店を出て駅前のベンチに座った。

結衣は本の入った袋を膝に置き、じっと見つめていた。


「……ねえ」

「なに?」

「もし私、この本を最後まで読めたら……褒めてくれる?」

「もちろん。いっぱい褒める」


私が即答すると、結衣は目を丸くして、それから慌てたように視線を逸らした。


「……ほんと、変なやつ」

でも、その頬はほんのり赤かった。



夜。

結衣はベッドに横になりながら、袋から取り出したばかりの文庫本を開いていた。

ページをめくる手はゆっくりで、時折止まっては目を閉じる。

それでも、その姿は私にとって奇跡のように見えた。


「……見すぎ。気持ち悪い」

「ごめん。でも、嬉しくて」

「……ほんとにバカ」


そう言いながらも、結衣の口元はかすかに緩んでいた。

その小さな笑みを見ただけで、今日一日が報われた気がした。



「9日目」


今日は、結衣が初めて自分から「行きたい」と言ってくれた。

それが本屋という静かな場所だったとしても、彼女の心が外に少し開いた証拠だと思う。


そして彼女は、本を手にした。

「最後まで読めたら褒めてほしい」と言った。

そんな言葉を聞けるなんて、想像もしなかった。


小さな一歩。

でも私には大きな光だ。


どうかこの光が消えずに、結衣の中に少しずつ広がっていきますように。

私はそのために、これからもそばにいる。

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