プロローグ
どうしてこんなことになったんだろう。
今夜の光景を、私は一生忘れられない。
いや、忘れちゃいけないのだと思う。
だからこうして文字にして残す。
――親友の結衣が、橋の欄干の外に立っていた。
夜風に吹かれて、彼女の黒髪はゆらゆらと揺れた。
それは不思議なほど静かで、まるで彼女が風景の一部になってしまったみたいだった。
「結衣っ!」
私は叫んだ。声が震えていた。
彼女はちらりと振り返ったけれど、驚きも焦りもなかった。
ただ、少し面倒くさそうに目を細めて、吐息のように言った。
「……なんで来たの」
冷たい声だった。怒っているわけじゃない。
ただ、本当に興味を失った人間のような、乾いた声。
「待って、降りて。お願いだから……!」
「嫌だよ。……もう疲れたの。毎日毎日、息するだけで苦しくて……眠って起きたらまた同じ日が始まるの、もううんざり」
彼女の言葉は、あまりにも平坦で。
まるで「今日は雨が降るみたい」って言うみたいに、淡々と「死ぬ」って口にしていた。
私は心臓を握り潰されるような感覚に襲われながら、それでも叫んだ。
「それでも……結衣がいなくなったら、私が困る!」
私の声が夜に散った。
結衣は小さく瞬きをして、ほんのわずかに眉をひそめた。
けれどすぐに、諦めたように肩をすくめた。
「……そういうの、ずるいよ」
次の瞬間、私は駆け寄って彼女の手を掴んでいた。
爪が食い込み、彼女の細い手首が震える。
彼女は抵抗しなかった。ただ、乾いた目で私を見ていた。
「放してよ。どうせ、誰も私を必要としてない」
「私は必要だよ!」
言葉があふれた。必死すぎて、涙でにじんで、うまく彼女の顔が見えなかった。
それでも、声だけは途切れなかった。
「……結衣がいなくなったら、私、本当にひとりになる。
だからお願い、行かないで。生きてて……よ」
しばらく沈黙があった。
遠くで車の音が響き、風が冷たく頬を打った。
結衣は視線を落とし、小さく息を吐いた。
「……あんた、ほんとバカだよ」
その声は、ほんの少しだけ揺れていた。
私はその隙を逃さず、全身の力で彼女を引き寄せた。
欄干の外から、こちら側へ。
二人して歩道に倒れ込み、私は彼女を抱きしめた。
冷たくて、細くて、今にも壊れそうだったけど――確かに生きている
「……歩ける?」
橋の歩道に倒れ込んだままの結衣に声をかけると、彼女は短く頷いた。
けれど立ち上がる気配はなく、地面に座り込んだまま視線を逸らす。
彼女の肩は冷たく、薄いシャツの生地越しに骨ばった輪郭がわかるくらいだった。
私は彼女の腕をそっと引き寄せて、自分の肩にかけた。
まるで子供の体を支えるみたいに軽かった。
「大丈夫、私の家まで一緒に行こう」
結衣は返事をしなかった。ただ、歩幅を合わせるように足を動かした。
靴音が夜のアスファルトに乾いて響く。
その間、彼女は一度も私を見なかった。
⸻
家に着いたのは夜中の一時過ぎだった。
ワンルームの小さな部屋に彼女を迎え入れると、結衣は靴を脱ぐのもそこそこに床に腰を下ろした。
その姿があまりにも無防備で、私は胸が締め付けられる。
「……水、飲む?」
「……うん」
彼女の声はかすれていた。
冷たい水をコップに入れて渡すと、結衣は両手で包み込むようにして持ち、ゆっくり口に運んだ。
その様子をじっと見ていると、彼女は苦笑のように小さな息を漏らした。
「そんな顔で見なくてもいいよ。私は死に損なっただけなんだから」
「……そんなこと言わないで」
「だって、本当のことだよ」
彼女は目を伏せて、静かに笑った。
その笑顔は、喜びでも安堵でもなく、諦めだけでできていた。
私はどうしていいかわからなかった。
言葉をかければかけるほど、彼女が遠ざかってしまいそうで怖かった。
だから気づけば、言葉よりも先に行動していた。
――ぎゅっと、彼女の手を握った。
「結衣……」
「……なに」
「死にたいって思うなら、それは消せないのかもしれない。
でも……今夜は一緒にいて。お願いだから」
一瞬、彼女の肩が揺れた。
それから少しだけ視線を上げて、私を見た。
「……あんたって、ほんと変だよ」
「変でいいよ」
「普通、そんな必死にならないよ。……他人のために」
「他人じゃない。私にとって結衣は……大事だから」
その言葉に、彼女はまた目を伏せた。
けれど今度は、ほんの少しだけ、強張った表情が緩んだ気がした。
⸻
深夜二時。
結衣は私の布団で丸くなって眠っている。
部屋の隅に座った私は、こうしてノートを広げている。
――どうして日記なんて書こうと思ったのか。
きっと、今日の出来事を忘れたくなかったからだ。
結衣の冷たい手。
あの無表情の奥に見えた、かすかな揺れ。
そして、自分の声が掠れて叫んだ「生きて」という言葉。
全部、忘れたくない。
結衣を守りたい。
そのために、私は自分の気持ちを残しておく。
弱くて、すぐ折れそうな私自身を、こうして文字でつなぎとめる。
……どうか、明日は少しでも彼女が笑いますように。