帰る
今朝、家を出てすぐの道で対向者とぶつかった。
見晴らしの良い直線道で、余所見していた訳でもないので、相手が降って湧いたように感じられ大層びっくりした。
しかも相手は妙にやわく、人体にぶつかったと言うよりは、煙か綿に突っ込んだ心地。
ともかく離れて謝るべく咄嗟に半歩あとずさると、相手がそれ以上に踏み出して、まるで暖簾か何かのようにてろんと頭を垂れた。
そのまま此方の右のこめかみに口元をぐっと押し付けて、ずっと開けていた感じに乾いた唇と歯を滑らせ、ちょうど此方の右耳の垂直線上へ来た時に、短く「帰る」と発言した。
急いで耳打ちする風に、隠れて悪態をつくように、不貞腐れて吐き捨てる具合に、底で分厚い泥濘の張った、通りの良くない息の調子で、籠もった粘液質の声で、ひとこと「帰る」とだけ言った。
ぎょっとして右半身を躱し、こめかみから耳まで擦りつつ、なんだこいつと振り返ると、相手はもう通り過ぎていた。
上体を前へ乗り出し、脱力した両腕を揺り回し、子供が陽気に跳ねる足取りでぴょんぴょん道を駆けて行った。
*
そしていま家へ帰って来て、玄関のドアを開錠し開けたらガシャンと引っ掛かった。
閉め忘れていたという事なのか、中で抗われたという事なのか、それともまた別の何かなのか、俄に推量できずにいる。
終.