05
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『なあ、織田作。巴里とはどんなところだと思う』
そう言えば、そんな話を同じ物書きの坂口安吾としたことがある。
でかくて丸い眼鏡に愛嬌のある、文士のくせしてガッシリと体格もよく、ズケズケとした物言いの男だ。時折とんでもない見栄っ張りで、特に女絡みのことでは大嘘を吐いたりもするが、カラリと悪びれない付き合っていて気持ちのいい男だった。
どうして巴里なんぞの話になったのかは覚えていない。安吾とは文学に関わりのない、益体もない話を色々としたものだから、そのうちの一つだったのかもしれない。
『いや、考えたこともないが』
『だってきみ、いつだってスタンダールが云々と語っているだろう?君は世相の中の人に焦がれて小説を書くのに、焦がれている文士の生きた街に思いを馳せないというのも、まったくどうしておかしな話じゃないか』
私は彼の言葉に少しばかり驚いた。私が小説を書く動機の、かなり根幹の部分に触れていたからだ。私は別に『小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ』云々などと、かの高名な坪内逍遥先生のごとく高説を垂れるつもりはないが、常々考えることは飾りのない人の世を描きたいということだ。それは決して、ありのままを描きたいと言うことではないが。
私にとって、街を愛するということは人を愛することと同義である。むしろ、人を愛せるような街でなければならないとすら思う。街とは人の生きる場所であり、人の未来と過去と現在と、全ての可能性が横たわる場所である。そして人の可能性を書き綴ることこそが、私にとっての文学であった。
だからと言って、どうして巴里について考えねばならないのだ。確かにスタンダールは仏蘭西の小説家だが、仏蘭西と一口に言っても広い国である。彼が巴里をこよなく愛していたかどうかすら分かったものではない。私が愛しているのが東京でなく大阪であるように、彼が愛したのも巴里ではないかも知れない。
そもそも、私は芸術の都の名を冠する巴里に、あまり良い印象を抱いていなかった。一流の建築士や政治家によって設計された都市は、どこか優しくない感じがする。芸術品やら、都市の外観やら、都市そのもののために都市があって、そこに人の匂いを感じない。
それは果たして人の都と言えるのか。ごみごみとした人の群れも、一人の人間の意志で無理矢理に生み出されたいびつな作品のようにすら感じられて気味が悪い。伝え聞く私の巴里に対する印象は、ひたすらにそのような暗いものであった。大方、知ったかぶりではあるのだが。
『銀座の嫌いな日本人がいないように、巴里の嫌いな仏蘭西人がいるものか。ともかく、僕は巴里に思いを馳せたいのだ。付き合いたまえよ』
そう、無茶苦茶な事を言う。かくして私達はふつかよいの頭で、巴里について夢想することになったのだが、このふつかよいが良くなかった。否、良いはずもない。巴里について特に知っていることも少ない私達は、ナポレオンが云々、芸術の都が云々、花の都が……と続き、結局のところいつものように『おんな』の話に行き着くのである。
『また俗な話が好きだネェ』
真面目な顔をしておんなを語ることのできない私は、ついついそうして茶化そうとするのが常であった。しかし、坂口安吾というおとこは、何に対しても大真面目な顔して語るおとこなのであり、その日も真剣な表情でこう語った。
『俗で何が悪い。聖人ぶって、まともな話ひとつ書けない小説家『もどき』なんかよりずっとマシだと僕は思うね。おんなについて考えない小説家なんて、小説家ではないよ。おとこがいて、おんながいて、はじめて『ものがたり』が生まれるのだ』
確かに、それは一理あると、そう思ったのを覚えている。そもそも私は説得させられやすい性質なのである。ただ、おんなが居ると、話がぐっと締まる。それだけは確かだった。それは現実がそうだから、というのもあるだろうが、我々が『運命の女』……もとい、究極の理想という名のおんなを思い描いているから、という理由が大きいようにも思えた。
可能性の文学、というものを追い求めるとき、おんなを欠かすことはできなかった。人の可能性を描くことこそが、文学の可能性に行き着くと信じ、人の世の半分を形作るおんなの持つ神秘と奥深さに煩悶した。私の持ち得ない、はんぶんに。
狂おしいほどに、求めていた。この果てない道に光明を与えてくれる、幻のおんなを。
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