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深淵  作者: 雪白楽
3/10

03

 おんなは私の呑んでいる珈琲をちらりと見ると


「珈琲をひとつ」


 そう、注文した。見た目にそぐわない、落ち着いた、柔らかい声であった。耳に馴染みが良く、聞いていて心地が良い。だからであろうか、私は思わず声をかけていた。誓ってもいいが、私はこの時、おんなを口説こうという(よこしま)な気持ちを抱いていたのではなかった。



「もし、お嬢さん。珈琲だけはやめておいた方が良い。ここの珈琲は(すこぶ)る不味い。ただ、ここのマスターはけちだから、それ以外のものを出してくれるかは分からないが」


 私のよそ行きの声に、マスターが一瞬だけ吹き出しそうになったのを私は見逃さなかった。マスターは笑いを堪えて真面目な顔を取りつくろうと、こうのたまった。


「心外ですねぇ。私は別に、けちなのではありません。それぞれのお客様に、その時々で必要なものをお出ししているだけです。何なりと、お出ししますよ」



 おんなは、私とマスターの言葉に戸惑いの表情を見せて、ポツリと言葉を落とした。



「でも、珈琲の不味い喫茶店で、いったい何を頼めば良いのかしら」

「ここは酒場ですよ、お嬢さん。マスターの後ろに並んでいる瓶をご覧なさい」



 まあ、と上品に口元を抑える姿に、私はますます好ましいと感じ始めていた。前言を撤回する。確かに容姿は私の好みではないが、それは大した問題じゃない。



「それなら、おすすめを頂ける?」

「喜んで」



 マスターは滅多に浮かべない微笑を添えて、ジンに卵黄とレモンを落とし、ソーダで涼やかさを加えたゴールデン・フィズをカウンターに滑らせた。不透明な黄色したそれは、見た目よりもずっと爽やかで飲みやすいのだと、呑んだことはないが知っていた。我が友の好物である。



 そして、コトリと、私の前にはいかにも高そうなウイスキー。



「私にも、くれるのか」

「今日はもう、お仕事は()すのでしょう」



 成る程、いつもマスターが珈琲ばかり出していたのは、私が仕事ばかりしていたからかと頷いて、ありがたく頂くことにする。けちだ、などと言って済まなかった。

 口をつけて、グイと煽れば喉を焼くウイスキーが、どこか懐かしいような森の香りで胸を満たして、どうしてか目頭が熱くなる。酒とは、こんな味だったか。



「あら、おいしい」



 思わず零れた、とでも言うような声が、私の心中を代弁してくれたような気がした。この酒を呑めただけでも、この街に来て良かったと感じる。

 例のおんなは、しばらく黙ってチビチビと酒に口をつけていたが、やがて静かにグラスを置くと、思い切ったように口を開いた。



「私、この街に来たばかりなんです。入り口の方で、ここの人は皆死んでいるって聞いたのだけれど、それは冗談ではないのかしら」

貴女(あなた)は、死んだ時のことを覚えていないのですか」



 私が思わず尋ねると、おんなは難しそうな表情を浮かべた。



「ええと、眠っていて……起きたらここにいたから、よく分からなくて」



 そんな話は、この街で聞いたことがなかった。そうだとしたら、どんなにか幸せなことだろう。この街の誰もが、身体に染み付いて離れない、死の記憶から逃れたいと渇望しているというのに。しかし、死の実感がないのなら、この落ち着きようも頷ける。



「確かに、ここの住人は皆死んでいます。死んだ時期も場所もバラバラで、共通点はこの退屈な街から、誰も出ていきたいと思っていないこと」

「退屈なんですか?」



 長いまつげを瞬かせてこちらを見つめたおんなに、私は急に今日の髪型が決まっていなかったような気がしてきて、適当にはねさせた髪を撫でつけながら答えた。



「ええ。少なくとも、私はそう思います。天気も、人も、感覚さえも。昼も夜もなく、何一つ変化のない街だ」

「それなのに、どうして出て行かないのかしら」



 それは嫌味のない、ただ純粋に不思議を口にしただけのように聞こえた。だからこそ、私はドンっと、心の臓を叩かれたような気がした。




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― 新着の感想 ―
[良い点] 「変化の予感」というものを「予感」させられました。 意味不明ですいません。 [気になる点] わたし的には「であった」より「だった」のほうが読みやすい気がしているもので、わざとその表現なので…
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