3-7
「遅くなってごめん、冬子」
2月25日。
日曜日の昼間に久しぶりに冬子と会う約束をしていた。と言っても、私は前に一度友貴人と彼女が一緒にいるところを見てしまったため、久しぶりという感覚がない。しかしそれを抜きにすれば、一年ぶりぐらいじゃないだろうか。
近いといっても、隣の県。やはりわざわざ休日に会いに行くには少しばかり時間とお金がかかるため、卒業してからは二人で会うのが3ヶ月に一回になり、半年に一回になり、こうして一年に一回会うか会わないかという関係になってしまった。
歳を重ねるにつれ平日は責任の重い仕事を任されるようになり、休日に元気に友達と遊ぶことが減っていたのが事実だ。
しかしそれでも、こうして一年に一度は絶対に親友と会うことにしていた。ルールなんかではないけれど、二人の間で絶対に途切れさせたくない糸を結んでいるのだ。
「茜! 久しぶり」
私たちの会話はいつも、「久しぶり」から始まる。
大学を卒業してから今まで何回も唱えてきた言葉だ。
「久しぶり」を聞くと、「ああ、冬子だ」と親友に会えた喜びで胸がいっぱいになる。
「久しぶり。待ったよね?」
待ち合わせのカフェで待っていた彼女は、この間見かけた時と同じで相変わらずの美貌を放っていた。
「ううん、全然。私も今来たとこだったの」
首につけたルビーのネックレスがきちんとそこにあるのか、自分で触って確認しながら彼女の前に座る。
22歳で結婚したいと言った彼女は、私と同じで今も独身。けれど彼女の左手の薬指にはダイヤの入ったプラチナの指輪がはめられていた。
冬子には、2年前からお付き合いしている男性がいる。職場で出会ったそうだ。堅実で優しそうな男性。私も何度か写真で見たことがある。相手はきっとその人だろう。
22歳という年齢は、子供の頃の私たちにとってはうんと背伸びしても届かないくらい大人だった。大人だけど、若くてキラキラしていて、美しいままの姿で結婚もしている。それが普通だと思っていたのだ。
しかし大体の人間が気づくように、私たちもそれが事実と違うことを知る。22歳は大人なんかじゃない。大人だけれど、もっともっと大人の世界があり、多分それは29歳の私たちにも変わらずに存在している。
そういうことに、今更気づいたのだ。
「プロポーズ、されたのね」
「……うん」
彼女は眉を下げて微笑む。切ない画に見えるのに、なぜか美しい。それは、彼女の心を映しているから。
「おめでとう」
「ありがとう。でも、茜が大変な時に———」
彼女はきっとこう思っているに違いない。
「友貴人の病気を知りながら、私と友貴人が一緒になれないことを知りながら、自分だけが幸せになるなんて」と。
冬子の気持ちがよく分かった。
もし私たちの立場が同じだったら、たぶん今の彼女と同じように、私も手放しで自分の幸せを喜べないだろうから。
けれどそれは間違いだ。
私は冬子に、幸せになってほしい。
「冬子、私は一瞬でもあなたと友貴人の関係を疑ってしまったの。それを謝りたかった。本当にごめんね」
冬子は、「え?」となぜそんなことを謝るのか分からないというように困った表情になる。
「この間、ちょうど一週間前くらいかな。友貴人と冬子がカフェで一緒にいたところを見たの」
「ああ、あの時」
友貴人が「好きな人ができた」と言うものだから、すっかり心がささくれ立っていた私は、冬子と友貴人が二人きりで会っているのを見ただけで、彼女たちの関係を疑って勝手に傷ついていた。
彼女は私の親友なのに。
親友を疑うなんて、私はどうかしている。
そのことを心から詫びた。
でも、冬子は私の謝罪を受け取ってはくれなかった。
「それは違うわ、茜。あの時私は友貴人くんに『茜に内緒で相談したいことがあるんだ』って連絡が来て。友貴人くんから直接そんな連絡が来るのは初めてだったから最初は戸惑ったわ。でも、なんて言うのかな。LINEだったけれど、画面越しに彼の必死な様子が伝わってきたの。これはきっとただ事じゃない。茜に言えなくて、私に相談せざるを得ないような深刻な話なんだって思ったの。だから友貴人くんに会いに行った」
とても寒い日だったわね。
今も寒いのには変わりないのだけれど、あの日は風も強くてお店に入ってからもしばらくの間、手がかじかんで動かなかったぐらいに。
「久しぶりに会った友貴人くんは、すっかり大人の男性になっていたわ。私も彼にはそんなふうに見えてるのかしら。とにかく、私が知ってる友貴人くんからだいぶ成長した姿を見て、なんだかほっとしちゃった。友貴人くんがこんなに大人になって、茜を守ってくれるんだって思ったから」
でもそのあと、彼の口から聞かされた言葉が、あまりにも衝撃すぎて……。
「あと半年しか生きられないんだって……茜にそのことを言うのが怖くて離れ離れになることにしたんだって……。まだ今なら間に合う。今別れさえすれば、茜は自分と死別しなくていいんだって。だから別れるんだって。大好きなまま、別れなくて済むように。だから協力してほしい。自分が死ぬまで、病気のことを茜に言わないでほしい。無理なお願いだっていうのは分かってる。ねえ、冬子ちゃん。俺がいなくなったあと、茜のことを頼むって……、それを伝えに来てくれたの」
「そんなことを友貴人が……」
「ええ……。私、震えながら首を振ったわ。頑張って縦に動かしたの。本当は『茜に内緒だなんてダメだわ』って言いたかった。真実を教えてあげてと言いたかった。でも、言えなかったの。だって友貴人くん、私以上にもっともっと苦しそうに震えてたから……。その時思ったわ。友貴人くんは、私が知ってる友貴人くんのままだって。優しくて茜のことが大好きな人なんだって。そんな彼を見てると、余計に苦しくなったわ……」
冬子の告白を聞きながら、私は必死にあの日のことを思い出していた。
あの日、冬子も友貴人も二人とも震えていたのだ。
衝撃や悲しみに襲われて、それでも我慢しなくちゃいけなくて、苦しんでいたのだ。
それを私は、ようやく理解したのだ。
友貴人の身を切られるような決断と、冬子の切ない想いに今更胸が締め付けられた。
「茜、謝らなくちゃいけないのは私の方なの。あの時すぐに、茜に連絡するべきだった。いくら友貴人くんに止められても、茜の気持ちを考えたら黙っているなんてしちゃいけなかった。だから、ごめんね……」
「冬子は悪くない」
「でも……」
「冬子は悪くないわ。友貴人も悪くないし、誰のせいでもない。悪い人なんていないの。ただちょっと運が悪かったんだわ……」
そうだ、これは他でもない運命。
彼と私に課せられた運命。
神様が決めたことなのだ。
受け入れられないし、受け入れたくないけれど、どうしようもないことなのだ。
けれどその「どうしようもないこと」をどう受け止めるかによって、私たちの人生は変わってくるはずだ。
「だからね、冬子。冬子は幸せになっていいの。そりゃ羨ましくないなんて思わないよ。ううん、すっごい羨ましいわ。だけど、私は自分の運命を恨んだりしない」
「茜……」
冬子の瞳が潤んで、みるみるうちに目の縁に透明な涙が溜まってゆく。
「冬子の幸せを、心の底から願ってるわ」
「……ありがとう」
「ほら、だからもう泣かないの。せっかくのハッピーガールがそんなシケた顔してちゃ、もったいないわよ」
ねえ、冬子。
私は冬子に笑ってほしい。
冬子が笑ってるよりももっともっと、私だって笑うんだから。
「ええ、そうね。私が泣いてちゃ、茜が泣けないものね」
「私は泣かないわよ」
「強がらなくていいのに」
「強がってなんかない!」
「ほら、やっぱり強がりだ」
ふふっと、いつもの調子を取り戻した彼女を見ていると、なんだか私まで元気になれるような気がする。
友貴人。
冬子。
これからも命が続く限り、二人のこと好きなままでいいのよね。
大好きなままで、いいよね。
「ねえ、私たち、いま最高に綺麗よね」
いたずらっぽく笑う彼女を、私はこの先もずっと見ていたいと思う。
目の前の親友と、病院で今も息をしている彼に祈りを込めて。
再び自分の首元を触れば、ルビーのネックレスが確かにそこにあった。
【第三話 終】