3-6
「寒い〜」
側に誰もいないのに、口から漏れ出てしまう心の声を止める方法があるなら誰か教えて欲しい。
午後19時23分。
日はとっくに暮れている上に昼間から考えてもかなり気温が下がっている。
約束の桜南公園で、こうして一時間近く待っている。
でも、彼が現れる気配は一向にない。
そもそもあれは“約束”になっていなかったから仕方がないのかもしれない。
私が一方的に取り付けた約束だ。約束というよりはもはや脅迫だった。
「友貴人……」
でも、それでも少しだけ期待していた。
彼がここに来てくれるんじゃないかって思ってた。
だって昨日、彼は私に電話をかけてきてくれたんだもの。このままずっと縁を切ることだってできたのに、わざわざ私に教えてくれたのだ。自分が病気であることを———。
「病気……?」
私は、肝心なことを忘れていたのではないか。
彼は、病気なのだ。
それが本当なら、こんな酷なことはない。
どの程度病気が進行しているのかは分からないけれど、少なくとも彼にとって、私のやり方が合っていなかったのではないか。
だとしたら、彼はもう———。
自分の過ちに気がついた時、またしても握りしめていた携帯が鳴った。
同じだ。
昨日と同じ。
「……はい」
ろくに画面も見ずに電話に出て、聞こえてくる息の音が、やっぱり彼のものだと知った時、私は深い後悔に襲われた。
友貴人。
友貴人。
もう、私を許さなくて大丈夫。
私を責めてくれて大丈夫。
だから本当に、ごめんね。
***
大木町総合病院はここらで一番大きな病院として、軽傷患者から重症患者までが入院できる病棟・病室が完備されていた。
彼はその、重症患者が入院しているA棟で、検査を受けていたらしい。
昨日公園に現れなかった彼が電話をくれたのがきっかけだった。
昨晩、本来なら彼も普通に会社に行き、翌日の土曜日———つまり今日病院に行く予定だったという。
しかし会社に行く途中で体調が悪くなり、病院に向かった。
そこからはずっとここにいるのだと。
私が寒い中公園で待っている最中に病院で眠っていた彼が目を覚まし、慌てて私に連絡した。
約束を守れなかったことへの謝罪と、明日病院に来て欲しいという連絡だった。
約束も何も、私の一方的な押し付けなのに、彼は私のことを気に病んでいたのだ。
私は彼に言われた通り、昨日はそのまま家に帰り、今朝病院にやって来たというわけだ。
彼の病室は個室で、窓から見える海が心を穏やかにしてくれる、そんな部屋だった。
「俺はあと、半年しか生きられないらしい」
その部屋に感心しながら、寒いので窓は開けずに外の景色を眺めていた時、信じられないことを彼は平然と口にした。
いや、平然なんかじゃないはずだ。
けれど少なくとも今彼の病気の事実を聞かされた私にとって、そのあまりに客観的な言葉に、歯がゆさすら覚えた。
「あと半年……」
半年。
その期間が、一体どれほどの長さだったか、私は思い出すことができない。ただ無期限に淡々と一日を過ごしている人間にとって、半年という区切りを意識できないからかもしれない。
「そう。ちょっと癌が進んでるみたいなんだ。治療はするけれど、恐らく俺は助からない」
彼がなぜ、他人事みたいに自分の命の短さを語れるのか、私には分からなかった。
それに、目の前の彼はベッドに腰掛けているとはいえ、ひどい病魔に襲われていると断言できるほど、弱り切ったようには見えないのだ。それ以上に、しゃんとしているようにすら感じられる。
「病気が分かったのは、茜と別れる一週間前だった。ちょうどもうすぐ茜の誕生日だっていう時に」
そう言う彼はどこか悔しそうに眉をひそめている。
そんな彼を見て、私はズキリと胸が突かれたように痛かった。
「どうして、言ってくれなかったの?」
私は恐らく、自分が彼に一番聞きたいと思っていたことを言葉にした。
どうして病気だからって私と別れようとしたの。
どうして今まで病気のことを黙っていたの。
どうして何も言わなかったの。
どうして私とは会わずに、冬子と会ったりなんかしたの。
その全てを、彼にそのままぶつけてしまいたかった。
けれどその行為は彼を追い詰めるだけでしかないのだ。
しかし友貴人は、私の想像の通りに押し黙ることなく、それが礼儀だとでも言うかのように答えてくれた。
「茜を、悲しませたくなかったんだ」
ドクン、と自分の心臓の音がはっきりとした形となって聞こえてきた。
「病気のことを茜に告げて、何になるんだ? もう助からないと知っているのに、俺はいなくなると決まっているのに、茜に真実を言ったって、いずれ辛い思いをするのは茜じゃないか。だから言わずに別れたかった。今ならまだ間に合うと思った。まだ茜とさよならするには取り返しのつくタイミングだ。俺が臥せってからじゃ遅いんだ。別れるのはもちろん辛い。俺だって本当は別れたくなかった。でもそれが、茜にとって一番幸せだと思ったから。だから、言えなかった」
唖然として、言葉が出なかった。
彼が嘘をついたのは、全て私のためだったなんて。
別れようと言ったのも私を思ってのことだっただなんて。
「友貴人……」
気がつくと私は、膝に乗せた両手をぎゅっと握りしめて泣いていた。
自分の不甲斐なさに、情けなさに、友貴人の辛さに気づいてあげられなかった未熟さに泣いた。
「冬子ちゃんと会っていたのは、俺がいなくなった後、茜のことをお願いするためだった。自惚れかもしれないけど———俺がいなくなって、茜がもし俺のことで泣いたら、冬子ちゃんに慰めてもらうために。でも、茜に冬子ちゃんと一緒にいるところを見られて、俺は気づいたんだ。こんなふうに最後まで茜に事実を隠したままいなくなるのは、茜に失礼だって。フェアじゃないし、何より自分が一番後悔していることが分かった……」
冬子との話は、私の胸を締め付けさせるには十分なものだった。
彼は一人で悩んでいたのだ。
私に真実を隠そうと思いながら、心がそれを否定する。本当は言ってしまいたいと思っていたはずだ。少しでも心を軽くしたいと思っていただろう。そして何より、私のことをまだ想ってくれているというのなら、別れを告げる時、罪悪感に苛まれていたことだろう。
だって、一番苦しいのは紛れもなく友貴人なのだから———。
「本当は、茜と別れたくなんかなかった。ずっと一緒にいたい。せめて茜の誕生日だけでも、変わらずに祝ってあげたい。この先もずっと一緒にいると思わせたい。できればその先の———結婚だって、俺は本気で考えていたんだっ……」
いつの間にか私と同じように、彼が悔しそうに涙を流していた。
別れを知ってもなお、私の誕生日だけはきちんと祝ってくれた彼。
結婚を考えていたという告白に、私は今まで流していた涙を塗り替えるかのように、後から後から溢れ出る涙を止めることができない。
窓の外で、冬晴れの空が海とコントラストをつくっている。とても綺麗だと他人事のように思う。
そうだ。
他人事だ。
空や海がどんなに綺麗だって、外の寒さが身体を震えさせたって、今この瞬間命がどんどん削られている友貴人にとって、全て他人事じゃないか。
それならば私が彼にかけられる言葉は一つしかない。
苦しみに気づいてあげられなくてごめんなさい。
冬子と好き合っているなんて勘違いして勝手に傷ついてごめんなさい。
そんな謝罪の言葉なんかじゃなく。
私が今彼にしてあげられること。
「もういいよ。友貴人はもう苦しまなくていい」
それはきっと、彼を許して一緒に苦しみを共有することだ。
「茜……」
「ううん、苦しまなくていいなんて無理だよね。苦しんでもいい。でもそれは一人ですることじゃないわ。私も一緒に苦しむから。私も一緒に友貴人の病気と闘うから。だからもう、私の側から離れちゃダメよ———」
男泣きに泣いている彼の手を握りしめて、私はその手の温かさを感じ取る。
大丈夫だ。
彼は手はもう、緊張と不安で震えたりなんかしていないから。