3-5
一日が、一時間が、一分が、一秒が、途方もなく長く感じられる毎日だった。
大好きだった人と、親友が一緒にいるところを見ただけで、こんなに心がやられてしまうなんて知らなかった。
カフェで二人を見かけてから三日間、どんな難しい仕事に出くわした時よりも息苦しい時間を、永遠に感じられる時間を味わっている。
もしかしたら二人は、私が想像するような関係ではないのかもしれない。
たまたま何かのタイミングで二人で一緒にご飯に行き、そのとても珍しいイベントに、偶然私が現れただけなのかも。
友貴人が好きだと言った人は別にいて、その相談を彼女にしていただけなのかもしれない。
色んな可能性を考えて、考えても考えても疲れるだけだと気づく。しかしそれでもやめられない。出会った日から今までの彼と彼女のことを思い出しては泡のように消えてゆく。
仕事に行きながら、働いていてこんなに良かったと思ったことはない。
だって、仕事中は目の前の仕事に一生懸命になっていれば、少しは気が紛れるから。それでもあの二人のことを全然考えない時間はないのだけれど。
「茜さーん、いつにも増して、なんか大変そうですね」
相変わらず感の鋭い菜々子が、朝礼後30分で私の異変に気がつく。さすが、我が後輩だ———なんて褒め称える元気もなく、「ちょっと色々あってね」とその場しのぎに答える。普段は後輩に曖昧なことを言うのはやめておこうと決めているにもかかわらず、それが私の精一杯だった。
「ほんと、無理は禁物ですよ。あ、そういえば、さっき」
「ありがとう……もうちょっとだけ頑張るわ。で、どうしたの?」
「茜さんが来る前、電話があったんですよ。茜さんの電話に、外線で」
「外線?」
仕事上、外線でお客さんから電話がかかってくることはよくある。
しかし、始業前に電話を掛けてくるような客はあまりいない。本当に切羽詰まっているか、よっぽどの不満があってすぐに対処してほしいところぐらいだ。
「そうなんです。男の人で、茜さんいますかって聞かれたから、『まだ来てない』って伝えておきました。そうしたら、『あ、そうなんですか。じゃあ……』って、すぐ切られちゃいましたけど」
電話番号控えるの忘れちゃいましたー、へへっと笑う菜々子が今の私にとってどれだけ救いになっただろうか。
「それ、たぶん」
菜々子の電話の相手。
分かりすぎるくらいに分かった。
「もしかして、彼氏さん? ストーカーとかじゃないですよね?」
茜さん綺麗だから、と菜々子はまだ笑っている。
「彼氏……かな」
嘘つき、と自分を詰る。
友貴人は彼氏なんかじゃない。
私たちは別れたのだから、恋人じゃなくて赤の他人なんだ。
他人。
口にしてしまうと、なんて寂しい響きなんだろう。
赤の他人だなんて、10年も一緒にいたのに、そんなこと受け入れられるだろうか。
「やっぱり彼氏さんだったんですね! じゃあちゃんと、折り返してあげてください」
彼女は、なぜ彼氏が会社の番号に電話をかけてくるのかという疑問すら抱いていないような素振りでそう言った。
一体なぜ、友貴人は会社に電話をかけてきたの?
気になったけど、その日は彼に電話を折り返すことができなかった。
帰宅後、私は彼に私用の携帯から電話をかけようかと迷っていた。
三日間ずっと、彼の方から携帯に電話やLINEが来ることはなかった。
それなのになぜ急に、会社に電話をかけてきたんだろうか。
一度気になり出した疑問が、なかなか頭から離れてくれない。
迷いながら、携帯の通話履歴画面を開く。
履歴画面いっぱいに、「峰友貴人」の表示がずらりと並んでいる。時折友人や職場の人の名前が出てくるが、画面の8割は彼の名前。当たり前だ。10年もずっと付き合っていたのだから。何度も電話したし、何度もLINEをした。LINEを始める前までは、メールで何通もやりとりしていた。
そのうちの一つ、一番上に表示された彼の名前を指で選択する。
深呼吸をして通話ボタンを押そうとした、その時だった。
ブブーッと、手に持っていた携帯が震えた。
「わっ」
びっくりして画面を見れば、そこにあったのはなんと、他でもない彼の名前だった。
通話に出るか出まいかの選択を迫られた私は、途端にバクバクと鳴る心臓を抑えながら、それでも震える指で通話ボタンに触れた。迷いはなかった。びっくりしたし、怖かったけれど、彼の方からかかってくる電話に、一筋の光を感じないわけがなかったから———。
「もしもし……」
本当に恐る恐る、という感じで私は電話に出た。
彼が返事をしてくれるまで、数秒の間があった。その沈黙が、彼の緊張を伝えてくる。
『……茜?』
何十回、何百回、何千回と聞いてきた彼の私を呼ぶ声が、耳の奥でこだまして、私は言いようもない安堵を覚える。
ああ、彼だ。
友貴人が、電話の向こうにいる。
たったの10日間だったのに、彼の声を一日中聞かない日が続くだけで、自分がこんなにも不安に苛まれる体質になっていたなんて、ちっとも知らなかったのだ。
「うん、私だよ」
『ああ、良かった……出てくれて』
別れようと切り出したのはそっちなのに。好きな人ができたと言って———しかもそれは多分私の親友で、その上のこのこ電話を掛けてくるなんて、怒っていいと後輩の菜々子に私の方が怒られるかもしれない。そんな状況なのに。
「友貴人、どうかしたの」
びっくりするぐらい、私の心は穏やかだった。
彼に怒りや理不尽な気持ちが湧いてこない。なぜか分からない。私が完全に、彼に惚れているということなのかもしれない。惚れた者の弱みというやつだろうか。いや、今はそんなことはどうでもいい。
とにかく私は、彼に聞きたかった。
なぜ今になって私に電話をかけてきたのか。
あの日、冬子と一緒にいたのはなぜだったのか。
『茜に、言わなくちゃいけないことがあって』
彼が言わんとしていることが何なのか、ちょっとだけ分かる。
きっと三日前、冬子と一緒にいた時のことだ。
私が外から二人の様子を覗いていたことに、友貴人は気がついたのだ。もっとも、二人のことをこれ以上見ていられなくなった私が逃げ帰る瞬間に、彼が気づいたような気がした———というのが、私の認識だったのだけれど。
「この前、冬子と一緒にいた時のこと……?」
『ああ』
やっぱり。
彼は気づいていたのだ。
恐らく、一番私に見られたくないところを見られてしまって、動揺したに違いない。
それを謝りたくて電話してきたのだ。
優しい彼が考えそうなことだと———、この期に及んでまだ彼のことを擁護したくなってしまう。
「分かってるわ。あなたが好きな人が、冬子なのよね……。それを謝るために、会社にまで電話してきたのよね。でも、もうそんなことしなくていいの。あなたがそんなことをしたって」
私が、辛くなるだけじゃない———。
口に出せない一言を、腹の底に飲み込んで私はグッと堪えた。
これ以上、私に優しさを見せないで。
その優しさは、あなたを救うものであって、決して私を救ってくれるものではないのだから。
そう言いたかった。
けれど、私が何かを言おうと口を開く前に、電話の向こうで彼が息を吸う音が聞こえた。
『違うんだ』
「違う? 冬子が好きなわけじゃないってこと? だったら好きな人が別にいるってこと?」
『いや、そうじゃない』
「え?」
訳が分からなかった。
彼は私に、三日前のことを謝りたかったのではないのか。
それに、冬子が好きでもなければ他に好きな人がいるわけでもないというのは理解不能だ。
だってあの時私に、「好きな人ができたんだ」って、言ったじゃないか———。
『茜、俺は茜に嘘ついてたんだ』
「嘘……?」
友貴人の声は、死刑判決を待ちわびる罪人のように、私の胸に重く響いた。
『……癌が、再発したんだ』
「え————」
想像もしていなかった言葉に脳が混乱して、何を発すれば良いのか全然分からない。
「癌って、また、どうして」
かろうじて繋がった言葉が、電話の向こうの彼に説明を求めている。
『転移してたんだ、脳に』
「そんな……」
確かに彼は去年、肺がんで入院していた。発見が早かったため治療が完了していたが、癌はいつ再発してもおかしくない病気。けれど私は、どこかで安心しきっていた。治療が済んだのだから、彼はもう大丈夫。これ以上病魔に苦しむことはないんだ。これ以上私も、彼が苦しんでるところを見なくて済むんだと。
きっとそれは、彼も同じだったのだ。
もう大丈夫。治療をしたからもう、癌になんてならない。だってこの世には星の数ほど人がいるのに、神様は二度も同じ人間を癌で苦しめるはずがないのだと。
甘く見ていたのだ。
私たちがどれだけ願ったって、どうしようもないことがあるということ。
『茜、俺はもう———』
「待って。その先は言っちゃだめ」
『え?』
自分でも、なぜこれほどの勇気が湧き出てきたのか分からない。けれど、言わなくちゃいけなかった。一人で終わりにしようとしている彼を、なんとか引き止めなければと思ったのだ。
「明日、仕事が終わったら会おう。桜南公園で待ってるから!」
彼の返事を聞く前に、「じゃあっ」と言って電話を切った。
もし彼が「会いたくない」と言ったらどうしようと思うと、怖くて返事を聞けなかったからだ。
桜南公園は、彼の会社から最寄駅までの間にある公園だ。この間彼が冬子と一緒にいたカフェを通り過ぎたところにある。
「友貴人」
明日ちゃんと来てくれるだろうか。
私の気持ちは、彼に届くのだろうか。
その夜は明日を待ちわびて眠った。