3-4
「……さん、茜さん」
近くで名前を呼ばれ、はっと我に返る。
「菜々子」
午後3時40分、私は正面の席に座っている後輩の菜々子から何度も声をかけられていた。
「どうしたんですか、茜さん。やっぱり最近おかしいですよ」
「そう、かな。ちょっとさ、最近瞑想にハマってて」
「はあ? 瞑想って、それ仕事中にやることじゃないです〜」
「ははっ。それもそうね。菜々子は真似しちゃダメよ」
菜々子は「もう」と呆れているが、賢い子だから本当は私の異変が彼と関係することだと気づいている。しかしそれをあえて口にしないのだ。そういうところが、私は好きなんだけれど。
彼と別れて一週間。
29歳の誕生日を祝ってもらったのも、つい一週間前なのだ。
あの日あれだけ心が高揚して、まるで付き合いたてのデートみたいにドキドキして、ままならなくて、楽しかった。
それなのになぜ、彼は翌日になってまるでスイッチを切り替えたかのように別れを切り出したのだろう。
あの時はその場で受け入れたけたけれど、所詮虚勢に過ぎなかった。
「ただいま」
あの日、家に帰ってからずっと、彼の「別れてくれないか」がフラッシュバックして止まなかった。
何十回、何百回、何千回と同じ台詞が再生された。
それは無意識に、心の傷を癒すための行為だった。何千回も「痛い」瞬間を繰り返していれば、そのうち耐性がついて心が鈍化し、きっと何も感じなくなるだろうと考えたからだ。いや、“考えた”というよりは、それはもうほとんど心の防衛本能がそうさせたのだ。
しかし、次第に脳が疲れて痛みの瞬間を再生できなくなる。
その途端、一瞬だけ何も感じない、無の時間が訪れるのだけれど、しばらくしたらまた何かの折にふと思い出してしまう。
私はやはり、彼がいないとダメなんだ———……。
この一週間ほぼ毎日同じことを思い出し、同じ考えに至り、同じ痛みを味わいながら過ごした。
机の上の置いたジュエリーボックスの中にしまってあるルビーのネックレスに、一度も触れられない。箱を開けることすらできない。それを見てしまえば、貰った時のあの感動を、悲しい感情に塗り替えてしまう気がしたからだ。
彼は今、どんな気持ちで過ごしているのだろう。
“好きな人”と一緒にいるのだろうか。
楽しい日々を送っているのだろうか。
私と過ごした10年を白紙に戻して、新たな人生を歩み始めたのだろうか。
そう考えるだけで、悲しくて身体が震えた。
普段はあれだけサバサバとしたOLを装っているのに。
後輩から尊敬される先輩でありたいと願っているくせに。
彼がもし、今この瞬間に私と同じように悲しみや後悔に暮れていたらどんなに嬉しいだろう———と、柄にもないことを何度も思った。
分からない。
分かりたい。
分かりたくない。
知りたくない。
でもやっぱり、知りたい———っ。
一度そう思うと、“知りたい”が離れなくなって。
彼のことを本当はもっとずっと知っていきたいという気持ちが溢れそうになって。
ああ、私はこんなにも、峰友貴人という存在に恋い焦がれていたんだ———と、今更気づいて。
「茜さん、もう帰るんですか?」
職場の定時が訪れた瞬間、私はばっと立ち上がって荷物をまとめ始めた。
「え、ええ。ちょっと、調子が良くないから……」
さっきはあれほど虚勢でも何でも張って、後輩に格好悪いところを見せまいと頑張っていたのに。
菜々子に対して、簡単に弱みを見せている自分がなんとも情けなかった。
しかし、それでも。
「そうですね。それが、いいです」
「え?」
「茜さんは早く元気になってください」
菜々子は私の背中を押してくれる。
いつもいつも、「あーもう、今日もメイクが決まらなかった!」と嘆きながら出社している彼女は、本当はメイクの乗り具合なんて気にしていない子なのだ。
ただただ、毎日の職場の雰囲気を少しでも明るくしようと努めてくれる優しい子なのだ。
「……ありがと」
優しい後輩の配慮を受け、仕事が終わったその足で、私は彼の職場に向かった。
自分のやっていることは、間違いなく正しくない。
側から見ればストーカーも同然だ。おっかない女だ。私が男だったら、私は私みたいな人間と付き合いたくない。
そう思うのに、なぜか彼は、私と10年も一緒にいてくれた。
それが何を意味しているのか、私たちの10年に何の意味もなかったのか。
それだけを、私は知りたかった。
仕事上がりに乗る電車は、ここら一帯に住む人たちが一度に集まっているのではないかというぐらい混み合っていた。
定時の17時に上がるのは久しぶりで、17時の電車がこんなに混雑しているなんて、随分とホワイトな会社が多いなと思う。
彼の職場の最寄り駅まで40分かけて向かった。
「うわ、さぶっ……」
電車の中が暖かかったから、外に出ると2月の冷たい空気が容赦なく私の身体を痛めつける。おまけに海の近くということもあり、とんでもなく風が強い。
腕を組み、寒さから身体を守りながら私は前へと進む。
彼が努めている会社はここらで一番大きなビルの中にあるため、地図を見なくても方向は分かった。
「あ……」
自分の足が、自分の意思とは関係なく止まったのは、駅から歩き出して5分もしない頃だった。
おそらくオフィスビルかと思われる建物の一階に、カフェがあった。
軽いランチやディナーができそうな、ガラス張りのおしゃれなカフェだ。
そこに、彼がいたのだ。
彼は女の人と一緒だった。
しかし、今いる自分の位置からはその女性が誰なのかはっきりと分からなかった。
きっと彼が言っていた、「好きな人」に違いない。
女性の正体を知ったところで何も良いことなんてない上に、知らない人である可能性が高いにもかかわらず、私は女性のことを見ようと、カフェのある建物に近づいた。
「え———」
信じられない光景を見た。
二人掛けのテーブルで彼と向き合って座っていたのは、胸のあたりまで伸びたサラサラの黒髪が美しい女性。
「冬子……?」
後ろ姿だけでも分かる。だって彼女は私の親友なのだから。小学校から大学までずっと一緒に過ごしたのだから。
彼女———諏訪冬子が峰友貴人と一緒にいる。
大学を卒業してから、3人で会ったことは一度もない。しかし彼は確実に、冬子と何度か会っていたに違いない。この間の誕生日デートの時には「元気にしてるかな」と言っていたが、あれは嘘だったのだ。
それにしても、なぜ彼と冬子が一緒にいるの———と考える余地が全くなかった。
彼は、冬子のことが好きなんだ。
事情を聞いたわけでもないのに、その予測に間違いないと確信できる自分に驚いた。
それくらい、冬子と友貴人が一緒にいる様子が自然だったからだ。
もうこれ以上、その場にいたくなかった。
大好きな二人が私抜きで仲良さげに話しているところをまじまじと見ているなんて、耐えられない。
後ずさりしながら、彼と彼女を見つめながら、私はくるりと振り返る。その瞬間、カフェの中にいた友貴人が私の存在に気がつき、ばっと椅子から立ち上がった———というのは、私の妄想だったか本当のことだったか分からない。
とにかく私は必死で走った。走って走って元来た道を戻り、電車に乗って放心状態のまま自宅の最寄駅まで揺られていた。電車から降りたあとは、もう走る気力すらなくて、行き場をなくした迷い犬のようにふらふらと歩いた。
彼のことなど考えたくないのに、凍えるような寒さに胸が疼くのが腹立たしい。
そのうちはらはらと雪が降ってきて、より一層苦しくなる。
だって雪はいつだって、名前に“冬”をもつ親友と、“ゆき”のある彼を思い出させるものだから。
「友貴人……」
友貴人、友貴人、友貴人。
私から、もう奪わないで。
あなた自身と、冬子を、奪わないで。