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『茜、今晩会えないか?』
友貴人から幸せな誕生日をプレゼントされた翌日、昼休みの時間に彼からLINEで連絡があった。
仕事中にLINEが入るのは珍しくないが、大抵がお互いに就業時間に近づいた夕方ごろに来るのが普通だ。それが今日はお昼時。そんな時間に連絡をしなければならないほど、重要なことなのだろうか。
『うん、いいけど何かあったの?』
毎日作っているお弁当の中身を箸でつつきながら、私は素早く返信する。正面には同じ
部署の三つ下の後輩、白石菜々子がくりっとした瞳で私を見つつ、買ってきたサラダチキンを咥えている。
「彼氏さんですか?」
菜々子は恋の話が大好きな、典型的な女の子。
きらびやかな女性が多いウチの職場ではよくいるタイプだが、菜々子は他の人たちと違って、人の恋話をむやみやたらに広めたりしないところが良い。そんな彼女には、私も何だって話すことができる。
「ええ。こんな時間に連絡くるなんて珍しいから」
「そうなんですね。でも確かに、茜さんはあまり休み時間にスマホいじってるイメージないですね」
「連絡に関してはズボラだからよ」
間違ったことは言っていない。
私は他の女の子みたいに、彼氏にマメに連絡したり四六時中恋愛のことを考えたりすることができないのだ。
「あーそれ、分かります。恋愛って連絡の多さが正義じゃないですもんねー」
適当なフリをして、的を射た発言をする菜々子は、私のお気に入りの後輩だ。
「優秀な後輩を持って幸せ者だわ」
「茜さん、“優秀”の使い方間違ってます」
そう言いながらも、へへっと分かりやすく照れる彼女はやはり可愛い後輩だ。
「また話聞かせてくださいね。彼氏さんの」
「気が向いたらね」
私は好きな人物の期待に応えつつ、適度にあしらうのが気に入っている。
「それでこそ、茜さんです」
彼女は私をキリッと見つめた。
この後輩ちゃんは、私が思っている以上に賢くて一枚上手だ。
その日私は仕事が終わるとそそくさと家路についた。残業は一時間程度。決して長くはないが、もともと定時までに終わらせる予定だったので少し調子が狂う。
「あ、茜!」
待ち合わせの駅前までぎりぎり間に合うか間に合わないかぐらいの時間だったので、小走りで進み出した瞬間、前方から名前を呼ばれて立ち止まる。
「友貴人」
職場が離れているためあまり私の職場の近くまで来ない彼が、今日に限って私の職場の近くまで迎えに来てくれていたようだ。
駅前で待ってくれれば良かったのにと、申し訳ない気持ちになる。
でも本音を言うと、かなり嬉しかった。
「お疲れ」
そんな私の「嬉しい」という感情は、彼の顔を間近で見た途端、不穏なものに変わった。彼が、私を見る表情が、とても強張っていたからだ。
そしてそれは、通勤カバンを握る右手の指が力を込めすぎて充血していることからも見て取れた。
「早かった、のね」
「うん」
「き、昨日はたくさん祝ってくれてありがとう」
「あれぐらいいいよ」
「これからご飯行くんだよね?」
「ああ」
何を言っても暖簾に腕押し状態な友貴人。
明らかに様子がおかしい。
しかし、そのおかしさの要因が私にはさっぱり分からない。
昨日彼を怒らせることがあっただろうか———と、必死に昨日の自分の行動を振り返ってみても、やはり何も思い当たる節がない。
自分が何か言葉を発すれば発するほど段々と追い詰められていくような気がするのに、黙ったままの空気にも耐えられなくて言った。
「私、良いところを知って———」
「あのさ」
くるりと。
少しだけ前を歩いていた彼が振り返って、前方のとあるカフェを指差した。
「あそこで食べない?」
「え? ええ……全然構わないけど」
彼が指し示したのは、チェーンの喫茶店だった。コーヒーや紅茶、ケーキがメインの喫茶店。ご飯系の食べ物もあるにはあるが、サンドウィッチやパスタぐらいで、二人でせっかく外食するにはもったいないと思う。
しかし、それを口にする勇気は私にはなかった。
いつもと様子の違う彼にただ黙々とついていき、彼の機嫌をできるだけ損ねないようにしたい。もっとも、彼がこれまで理不尽に機嫌が悪くなるようなことは一度もなかったけれど。自分の中の勘が、私にそうさせたのだ。
私たちは喫茶店に入ると、適当にドリンクを注文した。
私はそこに、たまごサンドウィッチを追加する。
「友貴人は何も食べないの?」
「うん、ちょっとお腹空いてなくて」
「そうなの……」
やっぱり今日の友貴人は変だ。いつもなら多少お腹が空いていなくても、私に合わせて何か注文するのが普通だったから。
私はなんだか一人だけ食事をする後ろめたさを感じながら、注文したドリンクとサンドウィッチを店員さんから受け取った。
二人掛けの空いている席を探して徐に座る。
友貴人はホットティーを、私はサンドウィッチを齧り、ホットコーヒーを啜る。
「今日さ、昼間にLINEが来たからびっくりしたわ。菜々子に——、あ、菜々子っていうのは私の部署の後輩なんだけど、彼女にからかわれたわ」
なんとかその場の空気を和ませようと、私は今日の昼間に菜々子とした話を彼にしてみる。
「昨日のプレゼントのネックレス、本当はつけてきたかったんだけど、ルビーだからちょっと目立つかなと思って。次回遊びに行くとき絶対つけていくわ」
昨日の今日で、誕生日にもらった大事なプレゼントのことも話した。
もらった時、どれだけ嬉しかったか。
肌身離さずつけていたいぐらい大切に思っているということ。
そして何より、物よりも自分の誕生日に時間を使ってくれたこと。
何年経っても変わらずに祝ってくれる友貴人に、私はずっと変わらず感謝し続けていると。
今日はなんだか調子の悪そうな彼だけれど、普段は口にしない素直な言葉をかけたら、いつも通りの彼に戻ってくれるかもしれない。
私が好きで、私を好きな彼に、戻ってくれると思った。
しかし、私の思いとは裏腹に彼の表情がどんどん険しくなるのが分かった。
「ああ……、そのことなんだけど」
口につけていた紅茶を離し、気まずそうに彼はその一声を投げかけた。
「茜……、俺と、別れてくれないか」
ゴクリと、自分が生唾を飲み込む音がうるさいくらい頭の奥で響いた。
それから、途端に湧き上がってくる感情たちが、訳も分からずぐるぐると喧嘩して私から理性を奪ってゆく。
「どうして……?」
本当に様々な感情が闘っていた。
闘っては消えて、最後に本当に知りたい言葉だけが残ったのだ。
「どうして、そんなこと」
私だってもう29歳の大人だ。大人だと言い張るには十分すぎるくらいの年齢。だから友貴人と付き合う前にだって、こんな経験ぐらいしたことはある。でも、二人で過ごしてきた10年という時間は、私を子供みたいに「なんで? どうして?」と言わせるに値するほど長い時間だったのだ。濃密な時だったのだ。
「……茜、俺さ」
「……」
「好きな人が、できたんだ」
「え……?」
「好きな人ができた。だからこれ以上、茜に嘘をつくのが、嫌なんだ」
友貴人は、冷め始めたカップの持ち手をぎゅうっと握っていた。
みるみるうちに、彼の右手の指が真っ赤に染まってゆく。全身を駆け巡る血液のせいだ。
しかしそれと反対に、私は自分の身体からサアっと血の気が引いてゆくのを感じた。
「好きな人だなんて、そんなのひどいよ!」
高校生ぐらいの私なら、迷わずこんな言葉をぶつけていただろう。
彼氏に浮気心が芽生えるだなんて、そんなのありえない。誠実じゃない。信じて付き合ってきた私の気持ちはなんだったの!? と詰め寄ったかもしれない。その結果、もう二度とその人には会えなくなることだってザラにあることすら考慮せずに。
しかしある意味それは、とても純粋で素直で、世界は自分に対していつも優しくしてくれるものだと信じて疑わなかった証拠だ。巷には大小様々な悪意がその辺にゴロゴロと転がっているなんて知らなかったんだ。知らないまま、綺麗なまま、守られたまま、の私であっただけだ。それは恥ずべきことではない。だってみんな初めはそうなのだから。
「……そうなんだ。うん、分かった」
一瞬のうちに“もしも”の自分を思い浮かべつつ、実際に口から出てきたのは、自分でもびっくりするぐらい冷静な言葉だった。
そんな私の言葉に彼の方も眉を歪めて怪訝そうな表情になった。
きっと私がもっと取り乱したり、問い詰めたりすることを期待していたのだろう。まるでどっちが振られたか分からないくらい、彼の悲痛な心の叫びが、私には見て取れたのだ。
そんなの、なんて欲張りなの。
途端に私の胸の中で広がる怒りと違和感が、自分でも分かるくらい顔に出ていたんだと思う。
彼は、「じゃ、じゃあ……」と為す術もなくうなだれて、「さよなら———」と力なく呟き、席を立った。
私は必死に前を向いたまま、彼がそのまま早く店から出て行ってくれることを祈った。
彼の気配が完全に消えた後、ゆっくりと後ろを振り返ってみる。
当然ながら、見渡す向こうに彼の姿はどこにもない。
「はぁ……」
突然の出来事に、何の現実味もないまま「終わってしまった」という虚脱感だけが私を襲う。
再び前を向くと、そこには彼の飲みかけのホットティーが主人を失くした忠犬みたく、寂しげに残っていた。