奪われた視線
俺はうっかり次の時間の教科書を忘れてしまって、隣のクラスの香那子ちゃんに借りに行き、そのついでに他愛もない世間話を数分して。
――東山部長が今日は機嫌がいいとか、そんなどうでもいい話。
――月ちゃんが嗚栗君を引きずって登校していたとか。
――マリアさんが珍しく明石君に珍しく普通に話しかけていたとか。 なんて言ったら、あの人は怒るだろうなあ、なんて。
教室に戻ってくると、弟のクロードがぼーっとしながら校庭を眺めていた。空は目が痛いくらいの快晴だ。日差しも気温も悪くない。こんな天気では睡眠とゲームが趣味という、どこか矛盾した趣味を持っているあずちゃんが起きているはずはない。どこかで寝袋に入って昼寝でもしていそうだ。いつものことだけど。また自分たちも彼女の捜索に借り出されるかもしれない。まあ、いつものことですが。一体何が見えるんだろうか。弟の視線を追って、こっそりと背後から近づく。
「クロード、何を見てるんですか? いつになく間抜けな顔で」
「……んなっ、馬鹿兄貴! おま、ハットリ君じゃあるまいし気配消して近づくんじゃねえよ!」
「急に話しかけられくらいで腕を降るはやめなさい。というか、気配なんて消してませんよ」
ちょっと足音を潜めて真後ろから話しかけてみただけですよ、ニンニン。すると弟は面白いくらいに驚いてくれた。まるで人を悪魔でも見たかのように睨みつけながら、弟は怒鳴る。そんなに怒鳴らなくても、ちゃんと声は聞こえているというのに。まあ俺はあまり男性の話は親身に聞かないタイプですけどね!
クロードはいまだにぶつぶつと文句を言っている。俺は聞いていないふりをした。 そして弟が見ていた方角に視線を向ければ。校庭にはぱらぱらと人が集まっては遊んでいる。そして右隅では四人の女の子たちがバレーに興じていた。あー、あの子達は。そう思っていると下の方から小さな声が聞こえた。
「……別に何も見てねえよ」
「何がです?」
「お前がさっき訊いてきたんだろ」
「そうでしたね」
「忘れてたのかよ」
忘れていたわけではなかった。クロードが、自分がした質問にちゃんと答えを出したことに少し驚いただけだった。
「ええもちろん忘れてませんよ。というか君、ほんとに何も見てなかったんですか? 俺はてっきり好みのタイプの子でもいたのかと思ったんですが。ほら、あの子とか」
柔らかい日差しに髪を煌かせている黒髪の少女――かずちゃんを失礼ながら指で指し示す。すると、図星だったのか弟の顔は見る見るうちに赤くなっていった。ほんとにわかりやすいタイプだと思う。
「あ、やっぱり当たりですね。売り出し中のあの子をロックオンとはクロちゃんも隅に置けないでちゅねー」
「あ、アホか! 俺は別に誰も見ちゃいねえって言っただろ。それにちゃん付けで呼ぶな気色悪ィ!」
「はいはいはい」
「……お前信じてねえだろ。ぼーっとしてたのはだな、今日も気持ちよく野球できそうだなって思ってたからだよ。いい天気だし」
「まあ、今日のところはそういうことにしといてあげますよ」
弟がまた言い返そうとした時、ちょうど、授業開始を告げる鐘が鳴った。逃げるように自分の席に着く前に見た校庭では、カルテット女子バレーから教室までの鬼ごっこに代わっていた。 好きな人の存在は、自分の世界の多くを占めるという。
……さてさて、これからうちの弟は最大の難関に挑むことになるだろう。ライバルは全員ハイスペックで、あの鉄壁付き超倍率ものの美少女と同じものを見られるでしょうか? 後で香那子ちゃんや月都くんを呼んでトトカルチョでもやってみましょうかね! 俺は机の下でスマホを開き、LINEにログインした。