戦闘開始
猫の幽霊は体からモヤの一部を揺らめかせながら、時おり立ち止まって左右を確認したり、近くの止まっている荷台へ飛び乗ったり、前を歩く女の人の揺れる長いスカートを前足でつついてみたりしていた。
どこまでの仕草が探索に役立っているのかはわからないが、猫の足取りは確かだ。
「あのさー、何か探すなら犬なんじゃないの?」
白い猫のモヤは路上ではだいぶ異質な存在だ。魔物に慣れている人々もいく人かは振り返ったり指さしながら囁き合ったりしている。
エアはその様子を観察しながら、訝しげな顔を向ける露天の八百屋のおばさんにあいそ笑いを浮かべていた。エアのその笑顔を見て、はっと笑みを浮かべ直すおばさんは、前かけを直し髪を整える。
それを横目に、カイは猫を見失わないように神経を整える。猫の霊気をこの世に留めておくためには、カイの魂との融合が必要だ。
霊気は風船みたいにふわふわしている。カイの魂は言わばその紐をつなぎとめる手だ。少し気をぬくと手が開いて、風船が飛んでいってしまう。
「猫は動物の中でも霊力が桁違いですからね。こちらで動き回れる時間が長いんです。頭も良いからこちらの意図も理解してもらえますし」
「ふうん」
「まあ」とカイが続ける。
「魔物の霊が使役できたら、より桁違いの霊力になると思うんですけどねえ」
魔物を使役できたら、魔王になれるよ。という言葉はエアの中にすんでのところで留まった。
酒場を通り、装飾品の露天をひやかし、服飾品を扱うお店の前で立ち止まる。
女の足取りを猫は着実にたどっていく。そのあと、いくつかのお店や露天に寄り、次第に細い道へと入っていった。
猫の足が止まる間隔が短くなる。もう街からはだいぶ外れてしまった。
ここは、大手を振っては街を歩けない輩が多く住んでいる場所だ。
「思っていた以上に苦労している生活をしてそうですね」
カイがあたりを見回す。今にも崩れ落ちそうな家に、立ち込めた悪臭、地面に直接寝る人々。
これだけの生活をしているのにも関わらず、ここには、新参者から金を盗もうとするような子どもも物乞いをする大人もいない。
全てのものが色を失い、意味を見失っている。
猫は、屋根のかしいだ家の前で立ち止まるとスーッと消えていった。
目的の家は、ところどころ破れた布で入口が覆われ、狭い通路が続くのが見えた。
中に入るとすえた匂いが鼻をつく。床を虫が這い回っている。奥に進むと、部屋ではなく地下に進む階段が出てきた。寂れた家とは不釣り合いなほどに頑丈な作りになっている。
カイはエアの顔を見て、一つ頷くと、足音を消して降りていく。エアは、考えたあげく、最も足音の消せる四つ這いになって付いていった。
心持ち長い階段にエアの姿勢が厳しくなってきた頃、ようやく終点が見えてきた。
階段の終わりには、ドアと言うにはいささか大げさすぎるほどに重厚な鉄の扉がある。
カイが右手で耳を触りながら、左手で何かをつまむ仕草をする。1匹の小さい虫が召喚された。ひらひらと舞う姿は蝶のようだが、少し大きい。蛾だ。「隣の音を聴かせてください」とカイが小さな声で言った。左手の指の先で羽の部分に触る。エアも恐る恐る真似をした。いろいろな音が混ざっているが、やがてチューニングが合ったように隣の部屋の声が聞こえてきた。
「おーい、姉ちゃんよお、早いとこ教えてくれないと俺らも困っちゃうんだよなあ」
「知らないって言ってるじゃない」
パンッという音と共に、女性のうめき声が聞こえる。
「あーあー、こんなに顔が腫れちまって。俺も手が痛いからさあ。そろそろ、これ、使って良いよなあ?」
ガンガン、と言う音がする。
「それ使ったら死ぬだろ。その前にちょっと味見しようぜ」
「触るな!」
再び、パアンと言う音がして、無音となった。ジャラジャラと言う金属音だけが聞こえる。
「おいおい、殺してねえだろうな?」
「いや。気を失っただけみたいだな」
「どうせ話も聞けねえし、お楽しみとしておくか」
下卑た笑いが響き渡る。おそらく、中の奴は3人。捕まっている女性は、昼にエアが連れてきた女で間違いない。
カイが蛾をつまんで、左手の手のひらに戻す。スーッと消えたかと思うと、凄まじい速さで両の手の平で自分の頭上から霊を引き出す。
「では」
エアがドアを開け放ったのと、その声が部屋に響いたのは同時だった。
「始めましょうか」