勇者エア
色のはげた扉を押す。ギィと耳に触る音がした。安宿とももうすぐおさらば、と思えば悪い気はしない。カイは愛想のない宿屋の女将に夕食を頼むとそのまま二階へと向かった。ところどころ穴の空いた階段をあがり、一番端の部屋まで行く。
少し蹴れば、そのまま外れそうなくらいに脆そうな錠前が、申し訳とばかりに各部屋には付いている。その数を3まで数えて、はたと止まった。カイが向かう先の部屋からいさかう声が聞こえてくる。
ひとつは、耳慣れた勇者の声。そして、もう一つは、女の声。
「何をしているんですか?」
ドアを開けると、女がまさに襲っています、という形で勇者のベルトに手をかけていた。
「カ、カイ……!」
勇者が半裸のまま、カイの後ろに回り込んだ。ため息とともに、こめかみを強く揉む。
「エア、大人しくしていてくださいと言いませんでしたか?」
「ちっがうよ! 俺は単に仲間を探しに酒場に行っただけだ! そしたら、この女がいい奴知ってるっていうからさ」
エアのまだ幼さが残る顔をまじまじと見る。
両頬に入った三本の刺青が彼の顔を猫のようにしているが、整った顔立ちは隠しようもない。
「それで、情報を教えてもらえると思って部屋に入れたと?」
「だって、普通そういうのは、金払ってするもんだろ!? 襲われるとか思ってなかったし……」
「バカですか」低い声で吐き捨てた言葉に、エアが首を竦める。勇者が娼婦に襲われたとあっては、魔王退治どころの話ではない。いい笑い者だ。
「あーあ。ざーんねん。たまには、若いイイ男とやりたかったのになあ」
肩ほどの長さの髪は長さが揃っていない。そばかすに愛嬌があるとも言えるが、細い腕と服からだらしなくはみ出た胸のボリュームがアンバランスな女だった。足が薄汚れ、手首に不釣合いな金の腕輪が、縛られた痕を隠すように何連も重ねられていた。
「申し訳ありませんが、この子はまだ大人になりきれていないので。お引き取りください」
ベッドに投げ捨てたように置いてあった上着を女に渡す。
女は渡されるがまま、上着を肩からかける。あられもない姿に上質な上着は、余計に女の色香を漂わせていた。
「ちょっと、こういう時は何か渡すのが世の常じゃない?」
有無を言わさずに、カイは女を廊下へ出す。
「お金はありません」
「いやいや、カイ、ここにあるじゃん!」
金庫を指さすエアに舌打ちが出る。エアが連れてきたのはわざとか。
「失礼。訂正します。あなたに渡すお金はありません」
こういう輩は、常習犯だ。自分たちが出さずとも他に金づるがたくさんいる。逆に、ノコノコと金を渡せば今後もせびられる可能性大だ。
お金を渡す、というのはそれ相応の対価との交換となる。
「ふうん」
女がうっすらと笑いを浮かべる。
「ちょっと、カイ! ごめん、お姉さん。こいつ金にがめついから。ね、お金はあげられないけど、せめてこれもらって」
エアがカイの横を通り抜け、女の手にカイの名刺を握らせる。止めるのもバカらしい。不用意に女に近づくエアを強く引き戻すだけにして、エアを満足させる。
「ふうーん」
先ほどよりも大きく、女が笑みを浮かべる。くしゃりと名刺を握りつぶした。
「お坊ちゃん、こういう女はね、同情しちゃいけないんだよ」
くそったれが。
そう言って、女は名刺を床に落とす。
「じゃあ、また会えたら続きしよ」
手を振って階段を降りていく後ろ姿をエアは唇を噛み締めながら見送った。
くしゃくしゃになった名刺をカイが拾い上げる。
「あの人、大丈夫かな」
エアの頭を軽く叩く。
「大きなお世話です。あなたの後悔を彼女に載せて、それで満足しましたか?」
半裸のまま顔を歪めたエアは、哀愁と羞恥と憂いが混ざり合い、両頬の刺青がさらに陰影を濃くして、一種の色気を作り出していた。