最強勇者のマネージャー
黒玉の間。その名が相応しいほどに黒一色で埋めつくされた空間は、常人には耐え難いほどの重力に支配されていた。
黒々と化石化した樹木があたりから生え、湿気を帯びた空気には毒が混じる。
男は、その重力や毒を見えない結界で跳ね返しているかのように、王座へと続く漆黒の絨毯の上を何事もなく進んでいる。
彼の黒のスーツはこの空間に溶け、彼自身が闇へと染まったかのようだった。
「貴様、どうやってここに入ってきた?」
玉座に悠然と座るオオトカゲの様相の魔物が、掠れた声を響かせる。
ここまで来た勇者は少なからずいた。しかし、一人でやって来た者がかつていただろうか。
重力を跳ね返す魔法を施す者も、彼の盾となる戦士も、回復を司る者もいない。
オオトカゲの王は、自身の思考を表情に出さぬように、彼の二倍もの長さのある槍で床を打ち鳴らした。
通常ならば、大勢の部下たちが地響きをあげて駆けつけてくるはずだ。
「ムダですよ。ここにいる貴方の手下たちが駆けつけてくることはありません」
この重力に耐え、数多の戦をくぐり抜けて来た猛者たちを無傷で倒して来たというのか。
「それでオオトカゲ一族を制圧したつもりか?」
歩いてくる男に槍を突きつける。極限まで装飾を除いた槍は、長年血を吸い続けたかのように赤黒く刃を光らせていた。その刃の切っ先、触れれば目がくりぬかれるであろう場所でピタリと男の歩みが止まった。
「制圧? そんなことは考えていません。私は話し合いに来たのです」
眼光がオオトカゲの王を射抜く。殺気に空間そのものが乱れる。
殺される。
誰が見ても王の方が有利な状況であるにも関わらず、王は体が震えるのを感じた。かつて一度経験したことのある、死への恐怖が体を突き抜ける。
一度めは命拾いをした。だから、ここで勇者狩りをしていられる。あの方に近づくものを排除する役目をいただけたというのに。
男が、その一瞬の逡巡の間に目の前まで間合いを詰める。王は微かに仰け反り、王座の肘掛けを無意識に強く握った。その握った左手を、男は問答無用とばかりにつかむと、ネクタイに手を当て胸ポケットへと手を伸ばした。
魔物は一瞬目を閉じた。心残りは、あの方のお役にもう少し立ちたかったということ。そして、自分がいなくなった後に部下たちが安らかに過ごせるか、ただそれだけ。
彼の手がポケットからゆっくりと出される。
カッと魔物は目を開けた。無様な死に様だけは見せるまい。背筋を伸ばし、槍を立て強く握る。
スパッと白い閃光がきらめき、目の前に放たれた。
一枚の名刺が。
「私、勇者のマネージャーをしております、カイと申します。この度は、南ガーランドを治めております、オオトカゲのオランさまに折り入ってお願いがございまして、こうして伺った次第でございます」
「は?」
目の前に突き出された名刺には、『最強勇者エア 専属マネージャー カイ』という名前と連絡先が書いてある。つかまれていた左手の上に載せられる。
「いやあ、とても良い訓練をされていますね。予定では、半日前にはお会いできるはずだったんですが、なかなかしぶとい方々でして、時間がかかってしまいました。オオトカゲの魔物の尻尾って本当に切っても切っても生えてくるんですね」
「貴様、バカにしているのか?」
槍を握る手の力が増す。周りの重力が濃くなったのを、この男、カイも感じたはずだ。
「まさか。バカになんてしてませんよ。感心してるんです。オオトカゲなんて頭が空っぽだと思いきや、見事に統率が取れていて、そこらの軍隊よりも忠義に厚い。素晴らしいですよ。惜しむらくは、揃いも揃って全員が引き際を見誤ったことですかね」
「貴様……っ!」
槍を前に突き出す前に、カイが名刺をオランの首元にあてる。思わず、オランは立ち上がりかけた自身の腰をゆっくりと下ろした。口を開ければ丸呑みできそうな位置にカイの頭がある。けれど、一歩でも動けば自分の首がその瞬間に吹き飛ぶことをオランは本能で感じ取っていた。
「私は貴方と戦いに来たわけでも、ましてや殺しに来たわけでもありません」
「では、何を――」
「話し合いに来たと言ったじゃないですか。一つ、取引をしましょう。貴方の手下たちの安全と勇者エアとの勝利」
「……八百長をしろと言うのか!?」
「貴方がこの交渉に応じてくださるのでしたら、今後も悪いようにはしません。それに、私の実力は見ていただいている通りです。今、残滅させられるか、後に苦戦の挙句倒されるかの違いです。この場所で一人の犠牲者もなく手下たちと心安らかに暮らしたいでしょう?」
脅しだ、とはオランも口に出せない。
最近生まれたハナの産声や、元気に洞窟内を走り回るサバン、いたずら好きのナイル、争いを知らない子どもたちの姿が目に浮かんでくる。
「彼らは、手下ではない。家族だ」
「それは、大変素晴らしい考えです。私どもの最強の勇者であるエアも悪いようにはしないでしょう。あなたたちを傷つけないと誓いますよ」
カイが目元を和らげて、名刺を下げた。ゆっくりと喉が上下する。
エアという勇者がいただろうか。噂にも聞いたことがないが、新参者でいきなり頭角を表すような輩はこれまでにも大勢いた。
あの方の脅威となる。
オランは口の中にまとわりつく唾を飲み込んだ。
「私は、あの方を裏切ることはできない」
カイは肩をすくめた。
「いいですよ。我々が勝った後に、ご自由にご報告ください。これまでにも負けたことはあったでしょう? それと同じです」
オランたちが守っているのは、あの方へと続く魔王城への扉の一つ。
確かにこれまでのオオトカゲの魔物の歴史の中で、何度かこの扉をくぐられたことはあった。
それでも、あの方はここで我々がこの扉を守ることを許してくださったというのに。
この圧倒的な強さに屈しようとしている自分がいる。
「ここで全滅しては、他の勇者たちもここを素通りですよ。我々との取引に応じれば、少なくともくぐり抜けるのは我々だけで済みます」
「手負いでは後に来る勇者に全滅させられるかもしれないではないか」
詭弁だとはわかっていた。それこそ、いつでもそういった危険をはらんでいる。この交渉に限ったことではない。
それをわかってか、カイは鼻を鳴らして笑った。
「いいでしょう。嫌いじゃないですよ、そのしぶとさ。戦闘後、ここを我々以外の勇者のほとんどが通れないようにします。それでいかがですか?」
それはオランにとっても魅力的な取引に感じた。そもそも、勇者との戦闘が発生しなければ、部下たちが傷つくこともない。
それに――。
「いいですね?」
これ以上は融通しない、とカイの眼光が鋭くオランを刺す。
睨まれて身動きが取れなくなる。いつでも自分は殺されていた、その事実に、オランは屈服せざるを得なかった。
「いいだろう」
「交渉成立です」
カイは清々しい笑顔で一礼をした。
「一つ聞いていいだろうか?」
名刺の裏に交渉の文面を書くカイに質問を投げる。
「何でしょう?」
「なぜ、このような回りくどいことをする?」
確実に、カイならオランたちを残滅できていた。ならば、わざわざもう一度訪れて勇者に倒させずとも自分で倒してしまえばいいのだ。
一人で乗り込んで、わざわざ手の込んだ取引などする必要はない。
「世の中、エンターテインメントが求められていますからねえ。やはり、勇者が倒してこそ。価値も跳ね上がるってもんです」
「ここに拇印を」と言われ、爪で傷つけた腕の血を指の腹に付け、名刺に押しつける。
「ありがとうございます。これで、1万ゴールドはくだらないギャラになるでしょうね」
「金か」
露骨に嘲りの表情が出る。
「たかが、金。されど、金、ですよ。名誉もプライドも腹を満たしてはくれません。手っ取り早く稼ぐとしたもんです」
カイは印が押された名刺を満足気に眺めて、立ち上がった。
「魔王を倒すのか?」
今一度聞く。
「勇者がね。私はあの人に『最強』にもなってもらうつもりですから」
金のために。
その言葉はカイからは聞かれなかったけれど、オランの頭には容易に浮かんで来た。
『最強』の勇者のマネージャー。
カイは一礼すると、来た道を戻っていく。
「あ、手下の方々は眠らせてるだけですから、あとで起きて来ると思いますよ」
彼をマネージャーなどに据える勇者とは、どれだけの強さなのか。想像もできない。
黒いスーツは黒玉の間の闇に紛れ、いつの間にか見えなくなった。