アイリス
これは未来とも過去とも分からない、あるいは時代に囚われることのない場所のお伽話。
あるところに、アイリスという少女がいた。まだ幼くも、ビスクドールのように美しい少女。
純金を鋳溶かしたように可憐な金の髪、最高級のスターサファイアから削り出したように煌めく、碧い瞳。肌は新雪と比べても見劣らないほど白く細やかで、シミ一つ存在しなかった。
大人しく読書を好む彼女は、とても広大な屋敷に住んでいた。周囲は誰も訪れることもなく、生々しい自然とは無縁な、庭園のように草花が咲き乱れる場所。
そこでアイリスは、いつも一人だった。両親や兄弟姉妹の記憶でさえ、アイリスは記憶になく、彼女が記憶している限り、屋敷に住まうのはアイリスだけだった。
そんな環境でも、彼女が飢えや暑さ寒さに苦しむようなことはなかった。屋敷の中は外の寒暖に関わらず、心地好く過ごしやすい気温にものに保たれていた。食糧庫にはあらゆる種類の食べ物が、少女ひとりでなくとも持て余すほど保管されている。屋敷の中で豊富に使える水はどれも冷たく澄んでいて、飲用はもちろん水浴びや風呂にも不自由しない。衣服とて一生かかっても不自由しないほど、様々なものが置いてあった。
暇を潰したければ、屋敷の図書室は様々な蔵書を有していた。小説、戯曲、詩文、史書、ジャンルを選ぶことなく、それこそ多様な本がアイリスの背丈の三倍はある、大きな本棚に並んでいた。大抵の本は共通語で書かれていたから、アイリスは読み解くことに苦労はしなかった。
お腹が減れば食事を作って食べればいい。喉が渇いたなら水はどこででも飲める。眠たくなれば眠ればいい。汗をかいたなら存分に服を変えて、水浴びなり風呂なりを楽しめる。何もすることがないのなら、本を読むほかにも、広大な屋敷を探索すれば時間はすぐに過ぎてしまった。
アイリスにとって、そこは快適過ぎるほど快適な環境だった。アイリスにとって他人は必要なかった。誰に頼らずとも、ここにいれば快適に生きていられる。それでも、アイリスが屋敷の外へ出ようとしたのは、ある理由があってのことだった。
覚えている限り、生まれて初めて出かける外という場所に、幼いアイリスは強い憧憬を抱いていた。きっと窓から見える景色とは違うに違いないと、根拠こそないが固く信じていたのだった。
初めての外出のために、彼女は事前に手頃な大きさのリュックサックを選んでいた。昼食に水筒と、替えの服も用意した。外に着ていく服はお気に入りの、フリルとレースがたっぷりとあしらわれた白のワンピースを選び、足許には歩きやすく頑丈そうな革のショートブーツを履く。
一通りの用意を整えたアイリスは、大きく重たい玄関扉をゆっくりと押し開けた。そのとたん、管理された屋敷の中とは違う、暖かな風が彼女の頬を撫でた。それを肌に感じたアイリスは、嬉色を表情に覗かせる。
「外って、こんな場所なんだ……」
やはり、窓越しから見るよりも外の景色は綺麗だった。いや、綺麗というだけでなく、より近いと形容した方が適切だろうか。
頬を撫でる暖かな風、床とは違う感触を伝えてくる地面。それだけで、彼女の気分は高揚していた。健気に咲く小さな花の群生や、樹の緑もアイリスの目と好奇心を楽しませた。目にするものの全てが彼女には新鮮で興味深く、綺麗な花を手折ったり、蝶を追いかけてみたりしながら、背の低い芝生に覆われた小さな丘に登ってみることにした。
アイリスには、この世界の全てが珍しかった。一歩一歩、辺りを見回しながらゆっくりと歩を進める。風にそよぐ草花や、長年の星霜を見る者に思わせる大きな古木、様々な声で鳴く、色とりどりの色彩を纏った小鳥達。見るもの全てが初めてと言って過言ではない世界に、彼女が魅せられるのは無理もなかった。
その中でも、アイリスが殊更に興味を抱いたのは、澄んだ水の流れる小川だった。彼女はリュックサックを川べりに置くなり、ブーツと靴下を脱いでスカートの裾を摘み、興味津々で水面に足を入れた。
足元に感じる水の流れが、肌をくすぐって心地好い。彼女が水面に視線を落とすと、指の長さぐらいの小魚が何匹か流れに逆らって泳いでくる。
「お魚さんだ……!」
アイリスは小魚を掬いあげて、さらに細かく見ようと望んだ。裾を摘んでいた手を離すと、手をお椀のようにして小魚の前に差し出す。当然、驚いた小魚はすぐに頭を返して、アイリスとは逆方向に逃げていく。
そうなると、アイリスが掌の中に掬いあげたのは水だけで、小魚は悠々と逃げ出していた。指の隙間から、掬った水が陽光を反射して煌めきながら落ちていく。彼女は躍起になって小魚を捕まえようとしてみたが、小魚の方が上手なのか全て避けられてしまった。
熱心に追いかけ回しすぎたのか、アイリスが小魚の捕獲を諦めた頃には、服はびっしょりと濡れていた。ちょうど空腹感も覚えて、彼女は服を着替えた後に昼食にしようと考えた。
太陽も頂点にかかり、昼食とするにはちょうどいい時間だった。アイリスは濡れてしまった服を脱ぐと、濡れた服のまだ乾いている部分で身体をざっと拭いた。一通り身体を拭うと、リュックサックから持ってきた着替えを引っ張り出して服を替える。
最後に濡れた服を畳んでリュックサックにしまうと、アイリスは昼食の包みを取り出した。パンに薄いチーズとベーコンを挟んだサンドイッチと水筒を芝生に置いて座り込むと、サンドイッチの包みを取って口に運ぶ。端からハムスターのように少しずつかじる様子は、どこか小動物に似た可愛らしさすら感じられる。
サンドイッチを食べ終えたアイリスは、水筒の水を口にした。冷たく澄んだ水は、運動で熱を持ったアイリスの身体を優しく冷やしてくれる。
簡単だが少女には充分な食事を済ませてしまうと、アイリスは心地好い疲労と、満腹感からくる眠気に襲われた。陽光は相変わらず暖かく、柔らかい芝生の上は昼寝をするのに最適なように思われた。
アイリスはいつもベッドでするように腕を伸ばし、大の字になって仰向けになる。すると、アイリスの瞳にはどこまでも青く澄み渡った空が映った。
「わぁ……」
アイリスは思わず、感嘆のため息をついていた。想像できないほど大空は雄大で、彼女が読書で抱いていた固定観念を綺麗に取り払ってくれた。それから少しもしないうちに、アイリスは屋敷の中に劣らず心地好い、世界の揺り籠に包まれて眠りに落ちた。
普段、木苺を摘みに行く森の奥へ、スピカは入り込んでいた。とはいっても迷子になったのではなくて、単にふとした興味が湧いたからだった。
帰ったらアークトゥルスに叱られてしまうだろうなと、スピカも分かってはいるのだが、何故だかその興味心を押さえることができなかった。街に住む自分達の知る世界、その境界の向こうはどうなっているのか知りたいと思ったのだ。
迷ってしまわないよう、以前アークトゥルスから渡されたコンパスを時折見て方角を確かめ、目印となるものを見つけながら歩いていく。それでも意外なほど、森は深くなかった。当然ながら道らしい道もないし、コンパスを確認しながらもあって歩みはさほど早くないのだが、それでも一時間ほどでスピカは森を抜けていた。
森が途切れた先には、芝生のような丈の短い草花の草原に覆われた丘陵が広がっていた。さほど高いわけではないが、高低差のせいで見晴らしは良くはない。空を見上げると、日の傾きはちょうど中天から少し西に下がったぐらいで、今すぐに帰路を取って返さなくてはならないほど遅くはなかった。
少し丘を登って景色を見てみようと、スピカは思った。頂上まで登るのはさして苦労しなかったが、このあたりが一番標高が高いのか、意外なほど視界は広かった。見渡す限り柔らかな草の緑に覆われた丘陵と、光を弾いて丘陵を下る小さなせせらぎ。そして遠景となって大きな建物が青空に映える景色に、スピカも思わず感嘆のため息を吐いていた。
「こんなところ、あったんだ……」
自分達の住む街以外に、建物を見ることそのものが彼女には初めてだった。その事実もまたスピカには新鮮で、味わうようにしばらくぼうっと佇んでいた。
それだけ、スピカがその景色に奇妙なものを見つけるのは暫くの時間を要した。せせらぎの近くの、花にしては不自然に大きな白いもの。丘陵の頂上からは少し距離があって細部が分からないので、スピカは丘陵を下り近づいてみることにした。
結論を言えば、白いものは女の子だった。スピカと同じぐらいかもう少し幼い、華奢な身体に白いワンピースを身につけた、金の髪の少女。花のように見えたのは彼女が身動きしなかったせいだが、その理由は少女の顔を見れば瞭然としていた。
少女は心地よさそうに、眠っていたのだ。リュックサックを枕にして、とても無邪気に。
耳を澄ませば、微かに少女のものである寝息が聞こえた。豊かで優しい陽光に抱かれて眠る少女を前に、スピカはどうしてだか緊張せずにはいられなかった。ゆっくりと彼女のそばに屈んで、のぞき込むように造作を観察する。
人形のように綺麗な、触れてしまえば壊れてしまうのではないかと感じるほど、整った面立ち。さらさらと惜しげなく、肩口から零れる黄金の髪は、緩くウェーブを巻いて、腰の近くまで伸びているらしかった。金の髪は服の布地よりも白い肌にとても映えて、それがいっそう人形に近い雰囲気を纏わせている。
「……きれい」
無意識のうちにスピカは、少女に魅了されていた。下手に触れては彼女を起こしてしまうのではないかと思いながらも、スピカの指先は少女の髪を弄んでいる。柔らかく滑らかな、絹に触れているように気持ちのいい感触。それは一度知ってしまえば手放せなくなるほどで、スピカは毛先から少しづつ手触りを楽しんでいた。
そうして飽くことなく髪を撫でながら、スピカはふと相当に大胆なアイデアを思いつく。
膝枕をしてあげよう、と。少女が起きてしまったら驚かせてしまうかもしれないけれど、それはスピカにとってとても魅力的なものに思えた。このままでも充分に深く眠っているようだったが、それでもリュックサックより膝枕の方が睡眠には好ましいのではないか。
そう考えると、スピカは慎重にことを進めていった。そろそろとリュックサックを少女の頭の下から脇によけ、手を添えて頭を支える。ついで彼女の金糸のように美麗な髪を巻き込まないようにしながら、自分の膝頭を頭の下に寄せていく。
一連の作業の間、息が詰まってしまいそうなほどスピカは緊張していたが、どうにか少女を起こさずに膝枕をしてあげることができると、ほうっと安堵のため息をついた。
膝に少女の体温を感じながら、スピカは彼女の無防備な寝顔を見つめる。
彼女はどこから来たのだろう。どうして、ここで眠っていたのだろう。名前は、何と言うのだろう。
いろいろと聞いてみたいことがあって、だけどいざそうなったら何から聞いたら良いのだろうか。そんなとりとめのない思考を働かせながら、スピカは少女が起きるのを、惜しみながらも待っていた。
睡魔に誘われるまま午睡を楽しんでいたアイリスの意識は、ふいと醒めた。目覚めのぼうっと霞んだような知覚の中で、彼女はちょっとした違和感を持った。
キャンパス地でできたリュックサックの肌触りは、こんなに心地良かっただろうか。そして、何とも形容のできない、ふわりとした柔らかい温もりは何なのだろう。内心で不思議に思いながら、アイリスは瞼を開いた。
アイリスの碧い瞳が最初に映したのは、眠る前と変わらない蒼空ではなかった。自分とは違う、見るからに柔らかそうな白銀の髪と水色の瞳が印象的な少女の相貌。彼女はアイリスをのぞき込むようにして、優しく微笑んでいた。
「あなた、は……?」
アイリスの記憶にある限り、初めての他人の姿は、とても綺麗で、心地良いものだった。そうして、自分の前にいる、自分ではない少女を知りたいと感じたのは、ごく自然な衝動でもあった。
「私? 私はスピカ。ごめんね、起こしちゃったかな」
「ううん……」
少女はアイリスの声を聞くと、少し驚いたようだった。そして同時に、嬉しそうでもあるようにも感じた。気遣うような言葉をかけてくれた、スピカという少女にゆるゆると首を振る。
眠っている間に、彼女が側にいてくれたらしい。そんな理解をしながら、視界の端に枕にしていたはずのリュックサックが見えた。今、自分の枕になっているのはリュックサックではなく、どうやら別のものらしかった。アイリスは柔らかで暖かいそれは何なのだろうと思いながら、微笑を見せるスピカをぼうっと見つめていた。本当のところは、身体を起こして確認してしまえばいいだけなのだが、そうしてしまうのは奇妙に名残惜しかった。
「スピカ……。それが、あなたの名前?」
「うん、そうだよ。良かったら、あなたの名前を教えて……?」
「わたしは、アイリス。花の名前の、アイリス」
アイリスは実際に、自分と同じ名前の花を見たことはない。だけど、書物でそれが綺麗な花だということは知っていた。スピカもきっとそれを知っていたのだろう、ふふ、と微かな笑い声を漏らす。
「綺麗な名前……、アイリス」
「そう、かな……?」
「うん、とても……。綺麗」
穏やかで、心地のいい時間。耳に優しい響きを伝えてくれるスピカの声は、いつまでも聞いていたくなるように感じられた。もう少しアイリスはそれを楽しみたくて、思うままに言葉を紡ぐ。
「スピカは、星の名前……?」
「うん。夜空の、星の名前」
アイリスは星も、自分の目で見たことはなかった。それでも、とても美しいのだろうとは思う。今日見てきた草花や空、小川の流れのように。あるいは、目の前にいるスピカのように。
「わたしは、夜の空を見たことがないの。夜の空は暗いけれど、たくさんの星や、月があって、とても、綺麗なんだって」
「うん、綺麗だよ。アイリスの言うように、夜は暗くてあまり出歩いてはいけないけれど、暗い空の一面に、たくさんの星が瞬くの」
「スピカ、みたいに……?」
「ふふ。私は星空みたいに綺麗じゃないよ。アイリスの方が、綺麗」
「そう、なの……?」
「うん」
スピカはそう言っておかしそうに笑うのだが、それでもアイリスはスピカより美しいものを想像することはできなかった。
恐らく、星空を見てもスピカの方が綺麗に違いないと思う。アイリスがそう言おうとしたとき、今度はスピカから言葉が投げかけられた。
「ねえ、アイリスはどこから来たの……?」
「わたし……? わたしは、そこから」
どこからここに来たのか、そんなスピカの問いかけに、アイリスは自分のいた屋敷の方を指さした。そうする以上にうまくスピカの言葉に応えられなかったからだが、スピカははっきりと意外そうな表情を浮かべていた。
「誰かと、一緒にいるの?」
「ううん、わたしだけ」
「アイリスだけで……? ずっと?」
「うん、ずっとそう」
アイリスにとってそれは何ら変哲のない事実なのだが、スピカには驚くべきことのようだった。信じられないと言いたげに狼狽する表情と瞳が、アイリスにもはっきりと見て取れた。
「寂しく、なかったの……?」
「ううん。不便なことは、何もなかったから」
不便なことがあったとすれば、せいぜいがあまり重いものを持てないことと、綺麗なドレスを纏ってみるときに背中の留め具がつけられないこと、それぐらいだった。アイリスは自分が一人だったということよりも、スピカのことが気になった。
「スピカは、一人じゃないの……?」
「うん……。街には私の他にも、人がいるの。……アイリス。私と一緒に来て」
「スピカ……?」
スピカの優しい微笑みは影に隠れて、端正な面立ちは、今にも泣きだしてしまうのではないかと思うぐらいに、歪んでいた。
スピカは寂しいのだろうか。彼女がとても悲しそうな表情を見せていたから、アイリスは何となくそう思った。
「泣かないで、スピカ。一緒に、行くから」
「……いい、の?」
「うん。スピカには、泣いてほしくないから……」
アイリスにとって、一人でいることは嫌なことでも、寂しいことでもなかった。一人なのは当たり前のことだったし、それを厭うこともなかった。
だけど、スピカが。スピカが泣いてしまうのを見ることは、嫌だと思った。スピカの微笑んでくれる姿を、アイリスは見ていたかった。それにスピカを慰めたくて、いっぱいに微笑んでみせる。
「スピカ、連れて行って。スピカと一緒に、いたいから」
「アイリス……」
そうアイリスが告げると、スピカから泣き出しそうな雰囲気は霧消していた。代わりにとても驚いた、そして何よりも嬉しそうな表情を浮かべてくれる。
スピカの、この表情を、わたしは忘れないだろう。アイリスはそう思って、自然とスピカに微笑んだ。