Prologue
ーーーここは何処だ。
ーーー自分は何者か。
そんなことどうでもよかった。
今まで俺を支えてきたはずの信念はいとも簡単に崩れ去っていた。
頭の中にあるのは彼女を守ること。
ただそれだけだった。
燃え盛る家々、いたるところに散らばった人の様ななにか。
中東の名もなき村落は地獄と化していた。
敵から匿ってくれた温厚な村人達はもう何処にもいない。
ここにいるのは俺と彼女であるべきなのだ。
ここであった事は無かったことにしなければならない。
そう残り少ない理性が判断を下していた。
一人でも生きて帰したものならば、その罪が全て彼女へと降り注ぐ。
全てはこの燃え尽くす業火に焼かれるべきなのだ。
これは俺の罪。
まだ幼く、涙ながらに駆け出す少年に照準を合わせる。
距離は五百、スコープの向こうが震え、掠れる。
左肩を脱臼しているせいだろうか。
それともこの溢れ出る涙のせいだろうか。
撃つのは一発、いや撃てるのは一発。
もし外れればそれまで。
俺と彼女の罪が世界に暴かれる。
それは決してならないのだ。
いつもなら重さを感じないSCARがやけに重く感じる。
砂塵が砂を巻き上げるその一瞬。
訓練によって磨き上げられてきた熟練の感が少年の終わりを告げた。
スコープのレティクルが示す向こう側で赤い鮮血が散る。
込み上げてくるのは罪悪感。
いつもならばすぐに飲み干せるその感情も今は飲み込めないでいた。
今回ばかりはいつもと違う。
大義なき、人殺し。
まさに犯罪である。
そして抱いてはいけない感情がある事に気づく。
それはーーー
『快楽』
どんな状況であっても抱いてはならない感情だった。
今回のような場合は特にだ。
理性が本能とも思えるスピードで否定しているがそれに意味はなかった。
その感情はまぎれもない本物だった。
溢れ出る涙はいつしか消えており、口角が何故か上がっていた。
ーーーあぁ、そうか。
既に俺は人としては終わっていたのだ。
そして兵士としてはとっくの昔に終わっていたのだ。
おそらく彼女を愛する一人の男としても終わっているのだろう。
原因はーーー
まぁ、そんな事どうでもいい。
この狂った世界に長く居続けたからだ。
皮肉にも俺はやっとこの世界での『正常』になれたらしい。
だけど、それは彼女の願いだったか。
ふと脳裏によぎった理性が問いかける。答えは否。
ーーー彼女は世界を救いたかったのだ。
たとえ偽善と呼ばれようとも、その手ですくい取れるものは決して離さなかった。
それだけの情熱が彼女にはあった。
もちろん俺にだってーーー
そう、まだ俺に出来ることはあった。
世界の敵になった俺と彼女を救う唯一の手段が。
舞い上がる砂塵が鎌首をもたげ、まるで死神の到来を告げていた。
流した涙は微細な砂と混ざり合い、頬に線状の後を残す。
別れの言葉は必要なかった。
そして迷いもなかった。
パァン、と乾いた悲しい音色が俺以外誰もいない砂漠に響き渡る。
空を舞うハゲタカの醜い鳴き声がまるで彼女を死後の世界に向かい入れたような気がした。
そして次は俺だった。
自らの心臓に拳銃を突き立てる。
最後くらい彼女と同じように死にたかった。
ーーー思い残す事は、
「そういえば……愛して……」
最後まで言うのはこっ恥ずかしかった。
きっと何処かで彼女にまた会える。そう感じたからこそ俺は言い終える前に引き金を引いたのだった。
徐々に空の色が紅く染まり、視界は暗転。
ーーー俺の記憶と淡い恋心は容赦なく吹き付ける砂塵と共にどこか遠くへ流れていったのだった。