ねぇさん、おれ、ヒロインになっちゃった…… Ⅱ
中庭から遠くを見やれば、空に限り無く近い高さに、水晶の結晶体によく似た巨大な塔が立っているのが見える。
それを見上げながら、私の口からは自然と溜め息が零れた。
弟から救援要請のメッセージを受け取ったあの日から、既に数日は経っている。
あの日。光に包まれた私は、気がついたらこちらの世界に居た。
こちらの世界──ゲーム、『花冠のマリア』の世界に……。
『花冠のマリア』とは、主人公の少女が魔法学園に通いながらそこで生活し、生徒や教師との恋愛模様を繰り広げる……いわゆる乙女ゲームというジャンルに当たるゲームだ。
舞台は、魔法・魔術の恩恵を受けて成り立っている世界。
人々の中には、魔力を使える回路を持つ者が存在し、回路を持つ者の中で魔術塔で働く者たちはエリートである。
その中でも、ユリの花冠の紋章を胸につけた人たちは特別で。様々な特権を与えられていた。
主人公は、魔力の回路を持って生まれた少女である。家は少々貧しいが、持ち前のポジティブさとやる気でもって「家族に楽な暮らしをさせてあげたい」と、魔術塔の紋章持ちになる事を夢見ている。
紋章持ちになるためには、とある学園に通うのが必須事項であるが、少女が学園に通うためには一つ問題があった。
伝統を重んじるその学園は全寮制の男子校であり、いかに優秀な魔力を持っていようとも少女が通う事は不可能だったのだ。
しかし、少女はあらゆる力を複写出来るという、稀有とも言われる自身の力を売りに学園への入学を特例で取り付ける事に成功する。
ただし、いきなりの特例であればやはり混乱を招いてしまうので、少女には条件が課せられた。
『男子生徒として学園に通い、他の生徒たちへは女性であるとばれない様にする事』
かくして男装姿で学園に通う事になった少女は、そこで様々な経験や出会いを積み重ねて行く事になる。
……それが、『花冠のマリア』の主な内容で。
目の前にある水晶の塔は、魔術塔。私が居る中庭は、ゲームの舞台となる学園の中に該当した。
どうしてこうなっているのかと言えば、私が弟を探している途中で行き倒れてしまった事に端を発する。
ゲームの背景で見たことがある、欧州風の街並み。それらしい顔の造りをした人々が闊歩する場所……にも関わらず話されている言語は日本語──こちらの世界で気がついて、その事実から、早い段階でここをゲームの世界だと認識した私は。
弟からの「助けて」というメッセージが、ゲーム機に入っていたこの花冠のマリアに表示されていたという事から、弟もきっとこの世界に居るのだろうと当たりをつけて捜索を始めた。
ところが、私はゲームの世界の奥行きをはっきり言って嘗めていた。
広い世界で、どこにいるかも分からない弟を、地盤も後ろ楯もないまま、あてもなく飲まず食わず眠らずで探し続ければ、数日で限界は訪れる。
そうして道端で倒れてしまった私を親切にも介抱してくれたのは、その街に住んでいた年配の女性だった。
更にその女性は、私の事情を知るや、自分の家で面倒を見るからそこを拠点に弟を探しなさいと申し出てくれて、タダで居座るのは申し訳ないと言ったら、働く場所まで提供してくれた。
それがたまたま、この、ゲームの舞台である学園の食堂だった。
わけなのだけれど……。
そうまでして貰っているのに未だ弟を見つけられない自分は不甲斐なく。だからこうして、私は度々塔を見上げ、己の無力さにうちひしがれていた。
いつもの反省会を終えて、次の食事の時間の準備のために食堂へ戻ると、そこが何やら騒がしい。
雑然とした生徒の人だかりが出来ている。
食堂はちょっとしたお菓子や軽食を出す事も出来なくはないので、食事どきやティータイム以外にも利用者が居ない事はないけど。普段は人が疎らで、だからこそ次の仕込みにあてているこの時間に、大勢の生徒が食堂に集まって居るのは珍しかった。
「おい、ヤバイって……粛清だぞ……」
「しゅく……せい……?」
すれ違った生徒の声が耳に入った時に、私はある事を思い出す。
(それって、花冠のマリアのプロローグじゃ……)
花冠のマリアには序盤に攻略キャラクターたちの顔見せ的なイベントの起こるプロローグシナリオが挿入されている。
『粛清』はその中のイベントの一つ。
粗相をしでかした下級生に、上級生が仕置きを行う。
『粛正』ではなく『粛清』と字があてられるだけあって、これがそこそこにエグいのだが──それを主人公が止めに入り、更にその現場にメイン攻略キャラクターが現れて物語が始まる訳である。
人だかりの隙間から覗いて見れば、丁度その場面だった。
上級生が下級生に「汚れを洗い流してやるよ」と言って、水の入った容器を手にしている。……いや、水じゃない。あれは──
(熱湯……!)
上級生が手にしているのは、食堂に備え置いてあるお湯の入ったポットだった。
自分でお茶やコーヒーを淹れたいという生徒の要望により置いてある。そのために適した温度に魔法を使った文字通りの魔法瓶として保たれおり、かなり高めの温度をしていた。
本来の花冠のマリアゲーム内では、下級生がかけられそうになるのは、掃除用のバケツに入った水だったはずだ。
汚れた水をかけようとしていたり、汚水を食堂という場に持ち込んでいる時点でだいぶ酷いが……それでも火傷の可能性を孕んだお湯をかけられるのとは危険度が段違い。
そして、私の記憶によれば、主人公はイベント内で水をかけられそうな生徒を庇って、自分が頭から水をかぶっていた。
これはとてもまずい。
考え切る前に、私の体は動いていた。
人波を掻き分けて、そして……。
「君たち、止めなさい!」
「は!?何だよあんた……」
突然現れた私の制止に、お湯をかけようとしていた上級生が動揺する。
その拍子に、彼はポットを取り落としてしまった。
「危ないっ!」
落下予測地点には、固まって動けずに居る下級生の生徒の姿。
ギリギリ間に合うが、彼を突飛ばして自分が避けるまでの余裕は無い。
抱き抱える様な形で生徒とポットの間に割って入り、訪れる痛みに備える。
「っ……」
「くっ……」
背中に熱さと痛みが走るが、それは覚悟していたほどではなかった。
というより、背中に湯がかかった以外に、別の感触がある。
ちょうど腕一本乗せられているかのような重みだ。
「……間に合わなかった……ごめん」
済まなそうに言われたその言葉に、私は覚えがあった。
『……間に合わなかった……ごめんなさい』
音では知らないし、セリフのニュアンスが少し違っている。
けれど、それは汚れた水を頭からかぶった、花冠のマリアの主人公が、水をかけられそうになっていた生徒に向けて言うセリフだ。
実際に聴いたその音は、男性とも女性とも言えるアルトの声で……。
栗茶の髪を後ろで一つに結わえ、きらきらとした鮮やかな緑の瞳。
男子校という先入観がなければどう見たって女の子にしか見えない姿で立つ、花冠のマリアの主人公、その人が、現実にそこに居た。
「ああ、『花冠のマリア』が始まったんだ」という感想は。一瞬後に直ぐ、別の衝撃へと上書きされる。
こちらを見た主人公が、その鮮やかな緑色の目を大きく見開いたかと思うと、私の顎をクイッと持ち上げて顔を覗き込みながら言ったのだ。
「……ねぇ……さん?」
「え……?」
私の声を聞いた主人公は、今にも泣き出しそうなほどくしゃりと顔を歪める。
「ねぇさん……やっぱり、ねぇさんだ!おれ……おれだよ、ねぇさん!比呂斗だよ!」
「ひろ……と……?」
今度は私が目を見開く番だった。




